わたしとあなたの世界は重なることがない

あなたはここにいる《前》１

　深くて暗い冬の空に、月が沈んでいる。
　いつからか月を見ると茫然とするようになった。――きっとかぐや姫に去られたあとのジイさんバアさんは、こんな気持ちだったんだろうな。手の届かない世界に行ってしまった娘のことを思い、なすすべもなく余生を送る。地を這うしか出来ない身ではどうしようもない。
　月の光は空っぽな人間の空っぽな中身を照らし出す。何もない自分を月の光にさらしていると、自分という入れ物のことまで忘れてしまいそうだった。
「また月見てるのか」
　父が外に出てきた。先週退院したが体調は悪いので、ほとんど横になったままだ。肉の落ちた顔は骸骨を連想させ、見るたび死に限りなく近い場所にいるのだと思う。
「あそこにいるのか？」
「いないよ。ただ見てるだけだよ」
　あんなところにいるはずがないとわかっていても、どこにいるのかわからないのに、あそこにいないと言い切るのもおかしな話だった。
「鉄哉」
　口を開けて壊れたように月を見上げている俺に、父が言った。
「もうあの子を待つのはやめなさい」
「――どうして？」
「十四年もたったじゃないか。誰かに無理やりさらわれたり、殺されたりしてるわけじゃないんだろう？　あの子は自分の意志で戻ってこないんだ。きっと自分がいるべき世界に帰ったんだよ。
　お前が一番わかってたじゃないか。いつかいなくなるって。もうあきらめて自分の人生に集中するべきだ。お前が一生そんなふうに過ごすんじゃないかと思うと心配だよ。代わりはきっと見つかるから」
　最初の妻のことを思い出しているのかもしれない。その言葉は実感がこもっていた。父にとってそれは正解だったのかもしれないが、俺にあてはまるとは限らない。
「大丈夫だよ。仕事もしてるし、人付き合いもちゃんとやってるだろ？　普通の三十過ぎの男だよ。それに俺はあの子を待ってるわけじゃない」
　着ていた上着を父の肩にかけて家に連れて戻り、自分の部屋に上がった。俺のあとを追うように咳が聞こえてくる。他にも何か言いたいことがあったのかもしれない。近々また入院するんだから、聞いてやればよかったかな。


　あの子がいなくなってから、どんなにこの家が暗く、活気をなくしたことだろう。すべてがどんどん悪くなっていくようだ。家族みんながその衰え滅んでいく気配に耐え、崩壊しきって終わるのを待っていた。

　俺はもう待ってなんかいない。いつか帰ってくるかもしれないと期待もしていない。
　
　ただ、どうしても忘れられないだけだった。