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10.炎の目《3》
しおりを挟むやっと夜が明けはじめたのに、遠くでサイレンの音がしている。防災無線で呼びかけているが、こちらまで届くには音が小さ過ぎるし、反響しているので内容は聞き取れない。雨音に削られ、木々に吸われてもいるのだろう。それにしてもこんな時間に何を知らせようというのか。
六時前に今度は木崎さんからわたしの携帯に電話がかかってきた。最近固定電話を外してスマホを持つようになったのだが、こんな朝早くにかけてくるのは初めてだ。聞こえてきた声は木崎さんにしては切迫していた。
『もしもし? クマちゃんのとこにまだいる?』
「うん」
『そっちはどう、雨』
「どうって……もうそんなに激しく降ってないみたい」
『上流だからね。こっちは大変なことになってるよ』
話を聞いて驚いた。川が溢れ、市全域が水に浸かりつつあるという。うちのすぐ近くにある川の水量は普段は底の石が見えるくらいだが、そこも恐ろしいほどの濁流と化しているらしい。
『さっき消防の人に聞いたんだけど、橋スレスレまで来てるって。昨日まではそうでもなかったんだけど、夜になるにつれてだんだん降りが強くなってきて』
「うちもヤバそう?」
『時間の問題だと思うよ。覚悟したほうがいいかも』
あの川が溢れたら、うちみたいな古くて小さな家はあっという間にダメになってしまう。水浸しになるどころか、破れて家財が流されることも考えられる。べつに流されて困るような財産はないが、生活はかなり滞りそうだった。でもそれはみんな同じだ。
通話を切ると、おばさんからのメッセージが四件も入っていた。内容は木崎さんと話していたのと同じで市内の被害を伝えるものだったが、わたしの安否を知りたいようだったので問題ないと返事しておいた。スマホ初心者なので文字を打つのにすごい困難を感じる。
バスの路線はすでに機能不全に陥っているらしいので、戻る手段は徒歩以外ないと思う。木崎さんは深夜に家族で小学校へ避難したそうだ。生島家は大丈夫だろうか。
神代さんと一緒に外に出てみた。こちらの雨は小休止に入ったらしく、空の灰色は昨日より薄くなっている。数日来、とくに昨夜このあたりに降った激しい雨が今下流の地域に流れ込み、被害を及ぼしているのだろう。
「こっちのほうはもう大丈夫そう」
「先輩、家に帰らなくていいんですか?」
「帰っても出来ることないよ。荷物まとめてる最中に水が入ってきたら、かえってまわりの人に迷惑かけそうだし。わたしのこと助けなくちゃならなくなるでしょ?」
「もし帰るときは、おじいちゃんに言って送ってもらいましょう」
そんなことを話していると、山の奥から地鳴りのような音が聞こえてきた。地面の下を雷鳴が走り抜けていったように感じた。
「……何、今の。地震?」
「さあ……」
神代さんは首をかしげている。ザザザザッという音がしたのでそちらを見ると、家の裏にある木々が葉を揺らしながら静かに倒れていき、ずるずると滑って家をゆっくり押し潰していった。ばりばりと噛み砕くような音が響き渡り、すべてを平らにならしていく。さっきまでそこにあった家が消え、削げ落ちて剥き出しになった地層と倒れて重なった樹木、砂煙を上げている瓦礫の山を残して静寂が訪れた。
「お……おじいちゃん……!」
神代さんがガクガクと震え、ぺたんとその場に座り込んだ。
「どこ?! どこにいたの?!」
「二階だと思います……さ、さっき二階にいたから……でも一階かも。わからない」
「消防に電話して! すぐに助けてもらわないと!」
「あっ!」
神代さんが悲鳴を上げた。
「携帯、部屋に置いてきた……どうしよう……」
わたしも持ってこなかった。―――どのみち消防を呼んでもここへ来るまで時間がかかる。周囲に手を貸してくれるような民家もない。おじいさんは即死したかもしれないが、まだ生きているかもしれない。もし生きているとしても、このまま手をこまねいていたら確実に死ぬ。立ち上がって瓦礫に近付こうとする神代さんを制止した。
「神代さん。今からわたしのすること見ても、嫌いにならないでね」
わたしは倒木と土砂の山を駆け上がった。「危ないから離れてて」と叫んで彼女を遠ざけ、重なった樹木を左右にはらいのけた。幹が人の胴ほどもあるので、地面に落ちるたび大きな音を立てた。
木が片付くと今度は土砂が邪魔になった。手でどけていたのでは埒があかない。外壁に使われていた金属の板が飛び出ていたので数枚引っぱり出し、重ねてスコップがわりに土砂をかき分けていくことにした。何度かすくって捨てると、屋根の瓦がバラバラと出てきた。あと少しだ。
屋根の梁が出てきたところで板を捨てた。ここから先は手でしなくては、おじいさんの体を傷つけてしまう。
すぐに人の一部が見えた。指先だ。ドキッとしたが、生きていると信じて掘り進めた。わたしが物をどかしている音に反応し、わずかにうめき声を上げる。倒れてきた家具や梁の隙間にうまいこと入って、圧死や窒息死から免れたようだ。運のいい人だ、そしてとっさにより良い選択をする直感力を持っている。服を握って引き出そうとしたが、どこか引っかかっているらしい。自分の体を隣にすべりこませ、おじいさんの右足を噛んでいた木材を蹴りどかして外に運び出した。
「おじいちゃん、おじいちゃん!」
二人で手を握ったり体をさすったりしたが、意識は戻らない。頭から血が出ているし、すみやかに病院へ運ぶ必要があるだろう。でもわたしが担いで走ったら、頭のケガに予想外の影響を及ぼしそうで怖い。それにきっと右足は折れている。乱暴に運搬することは出来なかった。
「この辺、どっちに行ったら人がいる?」
神代さんによると、北の方角に数キロ行くと別の集落があるそうだ。わたしは地面を蹴って上空に飛び上がった。悠長に道を走っている時間はない。
ある程度の高度に達すると、たしかに北方に緑に埋まるようにして二十軒ほどの家が集まっているのが見えた。そこへ行こうとしてふと足元を見、ぎょっとして体が止まった。神代家に至る唯一の道を、土砂と倒木がふさいでいる。
急いで道に降りて状態を調べた。地滑りがこちらでも起こっていたようで、道はとても車が通れる状態ではなかった。土砂の重みで舗装が割れてもいる。
削げ落ちた斜面から砂や小石がまだパラパラ落ちてきていて、崩落は続いている感じだ。これじゃ救急車を呼んでも二次災害を恐れて、ここより先へは入ってくれないかもしれない。
何をどうしたらいいのかわからなかった。この場合どう行動するのが適切なのだろう。うまい判断が出ない自分にイライラする。こんなとき鉄哉が隣にいたら、最善の方法を教えてくれるのに。
そのときパタパタパタという音がして、遠くの空をヘリコプターが小さく飛んでいくのを見つけた。災害を中継するヘリコプターだろうか。――そうか、他におじいさんを病院へ運ぶ手立てはある。わたしは再び飛び上がり、目的の集落へ向かった。
北の集落の人たちは今まさに避難をはじめようとしているところだった。未明にここからもうあと山一つ分向こうで大規模な山崩れが起き、付近のほとんどの家が流されたというのだ。さっきのヘリコプターは救助に向かう一機だったのかもしれない。しかもこれからまた雨が降りだすので、こちらも油断出来ないという話だった。おじいさんが危険な状態であること、道が使えないことを伝えると、その場にいた人たちは驚いてすぐ消防に連絡してくれた。
わたしの服が泥と砂で汚れているのを見て、女の人が一緒に避難して休むよう言ってくれたが、神代さんが心配だったので隙をみて戻った。助けが来ると教えてやらなくては。それに消防が来る前に現場を取り繕う必要がある。
おじいさんは目を覚ましていたが、意識がはっきりしているとは言えない状態だった。声をかけると目を開けてこちらを見るものの、すぐに閉じてしまう。
「神代さん、大丈夫だよ。消防に連絡してもらったから、すぐ病院に運んでもらえるよ」
そう励ましてから、わたしはさっそく作業に取りかかった。瓦礫や倒木を可能な限り元に戻さなくてはならない。崩落が起きたまま誰も手をつけてないと思わせなくては。屋根の梁、瓦、土、と自分が掘り返した順にかき集めては元に戻し、最後に散乱した木をまとめて盛り上げた。……結構手間がかかったわりに何だか不自然だ。いっそ斜面に木を立ててからまた山を崩そうか。
「変じゃない? 誰かがこうしたみたいに見えない?」
「大丈夫です。先輩みたいな女の子がこんなことしたなんて誰も思いません」
「そうかな」
「おじいちゃんは、家の近くに立ってるとき被害に遭ったからすぐに助け出せたって言いましょう。そしたらみんな納得します。私がちゃんと言います」
どこかからヘリコプターの大きな音が近付いてきた。音はするが、空全体に轟いているのでどこから来ているのかわからない。二人でキョロキョロしていると、予想外の方角から姿を現し、上空を通り過ぎていった。
「きっと救助のヘリだよ。道がダメになってるって伝えたから、ヘリで来てくれたら助かるなって思ってた」
神代さんはわたしの両手を握りしめ、自分の胸元に引き寄せた。
「先輩、ありがとうございました。おじいちゃんを助けてくれて。私一人じゃどうにも出来ませんでした。先輩がいなかったら、私また一人ぼっちになるところでした」
涙を流している。わたしの手を握ったまま、何度も何度も頭を下げた。――わたしはこのためにこの人に呼ばれたのかもしれない。たしかにこれは他の人じゃ無理だった。わたしが彼女のために果たすべき役目は終わったという気がした。もう今日を最後に神代さんとの縁は薄れていくのかもしれないと思うと、仕方がないとわかっていても寂しかった。
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