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8.溢れた血《6》
しおりを挟む地元の駅に降り立ち、やっと見慣れた風景の中に戻ってきた。日が沈んで空からだいぶ明るさが消え、あたりに藍色が忍び寄りはじめている。会社勤めから帰ってきた人たちにまぎれ、あとはそれぞれの家まで歩くだけだ。
「そういやあんたって、人のこと思い通りに動かせるんだって?」
そう言うと、鉄哉がすごい勢いでわたしを見た。
「朱眉のこと悪く思わないでよ。わたしのために教えてくれたんだから。知らないって知って、すごく驚いてたよ。
前に木崎さんが言ってたの。あんたが何か、人を追っ払ってるのを見たって。それ聞いたときはたいした意味ないと思って忘れてたけど、そういうことだったの?」
「……見られてたんだ。そこまで気が回らなかった」
「でもあんたが何言ってるかまではわからなかったって。――何でその人たちを追っ払うの? その人たちの目的って何?」
「エミちゃんだよ」
「あんたじゃなくて?」
「俺に利用価値なんてないよ。エミちゃんは人間じゃないから、貴重さが違う。
昔鞍橋にいた奴が情報を漏らしたんだ。先代に目をかけられて中枢にいたから、エミちゃんのことを知ってる。そこから広がって……信じない人間はそれきりだけど、超人的な力を持ちたいとか、不老長生を本気で求める連中が肉を得るために探しにくる。実際は長生きなんて出来ないし、死ぬ危険のほうが圧倒的に高いけど、そこまでわかってないから。そいつらが一定の範囲に近づいたら、俺が頭の中に手を入れることにしてる」
『頭の中に手を入れる』。今比喩として思いついた言葉ではなく、昔から彼の中でそう名付けられた行為なのだということが伝わってきた。
「最初は記憶を削除するだけだった。前後の記憶を付随するものと一緒に取り除いてたけど、気付いたんだ。削除だけじゃ生ぬるいって。
今は混乱させる情報を上書きしてる。追うのをやめなかったら精神が崩壊する仕組みだ。途中で危険だって気がつけばいいけど、動けば動くほどそいつはダメになっていく。
膨大な異物のデータを自分の巣に持ち帰って、周囲の人間を汚染に巻き込むこともしてもらう。だから最近はここまで来れる人間はいないよ」
「……そんなことしていいの?」
「しょうがない。そいつらだって危険を承知で近付いてきてんだ、お互いさまだろう。
情報を漏らした奴は、先代が生きてた頃はおとなしくしてた。でも年とって金に困りだすと、見さかいがなくなったんだ。そういう人間はこれからも出てくるかもしれない。だから鞍橋に一度でも関わった人間には、俺が戒律を埋め込むことにした。朱眉が良心に訴えるぐらいじゃダメなんだ。一族の人間でも秘密を守れるとは限らないし」
「朱眉はどう言ってるの、あんたがしてること」
「どう言ってるも何も、わかってないよ。俺が関係者全員に見せるための札を渡してるけど、内容は理解してない。線の形を見たら嫌な感じは受けるだろうから、黒い紙に黒で書いたんだ。あの人にはそこまで見抜ける力がないから。朱眉自身もその札を見てるわけだし、当然と思ってこれからも見せ続けてくれるだろう。
札を見た人間は、俺の戒律を破ることは一生出来なくなる。もし破ろうとしたら、そいつの頭の中が崩れる。その危機を本人も感じるから、たいていは最初の段階で怖くなって黙るよ」
知らないあいだにこんなことに手を染めていたなんて。彼を罰する罪はないが、心と体に見えない形の罪、業のようなものを刻ませてしまった気がする。毎日楽しく暮らしているだけの人と思っていたのに。
ここまでのことをしてしまったのも、わたしが彼と何も分かち合おうとしなかったからだ。わたしが自分の領分から彼を締め出したから、彼も自分の方法で問題を処理し続けるしかなかった。わたしがそれをやめてほしいと頼みさえすれば、その行為は終わっていたはずなのに。終わりはしないでも、もっと穏当な方法を取ってくれたろう。
「どうして言わなかったの。そういう人たちがいるって」
「聞いても嫌な気分にしかならないから」
わたしの知らないあいだに、彼は自分の力を使ってわたしを護っていた。本当は狗のわたしが鉄哉の盾になるべきなのに、手綱の鉄哉のほうがわたしを護っていた。自分の力はもう必要ではないと言いながら、でもその力でしか出来ない破壊的なやり方で。『自分で自分の身も守れない』とはこういう意味だったのか。
「木崎さんは見たけどそれで終わったんだろう。だから俺も気付かなかったんだ。でもエミちゃんにしゃべってるしな……何か釈然としない感じはあったのかもしれない。俺に直接聞かなかったっていうのも気になる。
――今からでも手を入れるか。あの子勘も頭もいいからな。エミちゃんの近くにいるし、情報に接する機会は格段に多いし。変に関心を持たれても困る。見ても解釈出来ないように、回線を一部焼き切るか」
途中からわたしに話しているのではなく、これからの段取りを確認する呟きに変わったが、聞いていて底冷えするものしか感じなかった。彼にとってわたしたちの秘密を断片でも知った者は、その瞬間から処理の対象になってしまうらしい。
友人だろうが何だろうが、容赦なく脳内に介入して損傷を与える。それがいいとか悪いとか関係なく、出来てしまうからやるのだ。持っている能力が大き過ぎるために、自分が踏みつけようとしているのが敵なのか味方なのかさえ区別がつかなくなっている。それもこれも今の生活を守るためなのだ。
この人はわたしを地上に引きとめるためなら何でもする。それ以外に優先すべきことは何もない。
「――何か、世の中の至るところにあんたが何か仕掛けてる感じ。わたしの行く先行く先を見えない力で縛って。やめてくれない、そういうの」
「だから言いたくなかったんだ」
さすがに腹が立ったのか、鉄哉の声が大きくなった。
「もし俺が何もしてなかったらどうなったと思う? この三年で、少なくともそういう人間が四十人は来た。そいつらの中には鎮邪の法に通じてる奴もいた。エミちゃんが黙って収服されることはないだろうから騒ぎになったろうし、暴れた結果俺が手綱を引くことになったかもしれない。それが嫌だったから前もって防いでたんだ」
二人でしばらく黙って歩いた。もうわたしには言うべき言葉がない。わかれ道に来たとき、鉄哉が呟くように言った。
「……あいつが来たとき、家から出られなかったろう」
「え?」
「あの改源って奴が来た日、家から出られなかったろう?」
それを知っているということは、やはり彼が何かしていたのか。
「範囲を区切ったんだ。エミちゃんが動ける範囲を決めた。そこから一歩も出られないようにした」
「へえ……どうやって?」
「地図を使って」
「ああ、例の方法か……。たしかに学校行こうと思っても行けなかったよ。あんたはわたしの行動も制限出来るんだ」
「そうだよ。だって俺の狗だからな。本当は何もかも思い通りに出来るんだ。心も、体も。俺が許してる自由だけが自由だ。今までその自由を取り上げようと思ったことはなかったけど、あのときは違った」
鉄哉は何だか茫然としているように見えた。
「他の誰にも渡したくなかった。エミちゃんの気持ちは関係なかった。俺はエミちゃんしか選ばない。でもエミちゃんは俺を選ばない。俺以外の誰かを選ぶのが許せなかったんだ。俺を選ばないなら、誰のことも選ばせたくなかった。
あの男を見たとき、エミちゃんと同じ世界に生きてるってすぐにわかった。俺にはどうしても越えられない壁の内側に、あいつは最初からいる。あいつに勝てないってことは、永久に失うかもしれないってことだ。何がなんでも渡したくなかった。あいつが来てるあいだずっと手綱を握って、どこにも行くなって念じてた」
鉄哉の言葉が、鋭い爪のようにぎりぎりと体に喰い込んでくる。息をするのも苦しいほどだった。骨が本来の位置より内側に押しこめられ、血が噴き出て足元まで流れた気がした。
手綱に区切られた空間から出られなかったのは事実だが、ここに残ったのはわたしの意思だ。それともその選択でさえ鉄哉がさせたものだったのか? いや、改源さんなら鉄哉の檻からわたしを出すことも出来ただろう。だからわたしは自分の考えで決めたはずなのだ。でもそれが自主的なものでなかったとしたら? わたしはどこまで彼の力に支配されているのだろう。この考えも感情も、本当に自分のものだろうか。
苦しい。気持ちが悪い。目の前が白い光で曇り、服が湿っていた。首に手をやると濡れていて、髪が顔にはりついてくる。生まれて初めて汗をかいていた。
「……おなかが痛い」
「え?」
「おなかが痛い」
それしか言えず、わたしはその場に座り込んだ。どうしようもなく気分が悪い。呼吸が乱れ、指の先が痺れてきた。何より下腹部がひどく痛かった。
「どうした……?!」
「……わからない。急に」
「病院に行こう」
「病院はダメ。わたしが人間じゃないってバレるかもしれない」
汗が止まらない。痛さのあまり意識が朦朧としてきた。
「…………家に帰る」
「家? 家に連れて帰ったらいいのか?」
痛みの下から頷くと、鉄哉がわたしを抱え上げた。自分の荷物とわたしの荷物までいっぺんに持っているのでちょっと驚いたが、重たがりもせず走っている。
「痛い!」
「急いで走ってるから!」
鉄哉の体が触れたのでいつもの痛みに襲われたが、何故かすぐ消えて腹部の痛みのほうを強く感じた。まもなく家に着き、わたしの荷物をひっかきまわして鍵を出し、中に運び込んでくれた。靴は自分で脱いだものの奥まで歩いて行くことが出来ず、背中を丸めて床に横たわった。
「……お母さん呼んでくる」
わたしを黙って見下ろしていた鉄哉が外へ出ていく。模様入りガラスの向こうで電話をかけているのが見えた。おばさんが来てくれるとありがたい。でも鉄哉が母親を呼んだのは、わたしが考えていたのとは別の理由だった。
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