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6.影《5》

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 今年も梅雨の季節が来た。でも例年に比べると雨が少ないようで、七月に入っても本当によく降ったと思える日はまだ数日しかない。
 庭に出てみると、アジサイの色が褪せて枯れはじめていた。わたしは色の濃い青いアジサイが好きで、一株だけ植えられているこの花がお気に入りだ。前に住んでいた人が植えたのか、しっかり根付いて毎年一株とは思えない量の花が山盛り咲く。このきれいな色とも来年までお別れか。
 期末も終わったし、あとは夏休みに入るのを待つだけだ。空は曇っているものの、雨を降らせそうな色の雲はまだ山の向こうにある。洗濯物をさわってみるとだいぶ乾いていたので、もう取りこんでしまおうと一着目に手をかけたとき、視界にスッと誰かが入ってきたのでぎょっとした。改源さんだった。
 改源さんが来るのは毎年秋、十月頃と決まっている。こんな時期に姿を見せるのは初めてだった。
「どうしたんですか? 今年は早くないですか?」
『どうしても気がかりで、来ずにはいられなかった』
 いつもの余裕と快活さがない。陰鬱な表情で、まだ遠くにあるはずの不穏な雲がいつのまにか目の前に来ていたような不安を感じた。
『もうお前をここから連れ出そうと思う』
「えっ?」
『あいつが近くにいるとわかった以上、遠く離したい』
 あいつとは鉄哉のことだろうか。どうして彼をそんなに気にするのだろう。
「でも……でも、わたしまだ十六になったばっかりですよ? たしか……あの……十七歳まではここにいると思って、そのつもりで生活してきたんですけど」
『そうだ。しかしあいつとかなり頻繁に接触している。まさかこんな近くにいるとは思いもしなかった。この世界は広く、衆生もおそろしく多い。同じ時代に生まれるとは思わなかったから、放しても大丈夫だと信じていた。私の考えが甘かった。人道の力を侮っていた。
 この世界と……のあいだの空間に、お前をいったん連れて行こうと思う。そこで残りの日数を過ごせ。お前は初めそこで育ったのだろう?』
 改源さんの言ったことが、音声が途切れたように一部聞き取れなかった。『この世界と……のあいだの空間』とは、おそらくわたしと叔父が過ごしていた場所をさしているのだろう。記憶にない場所に戻るのは、まったく知らないところへ連れて行かれるのと同じだった。
「……どうしてもそこに行かなきゃいけないの?」
『どうしてもだ』
「どうして鉄哉をそんなに嫌がるの?」
『嫌がっているわけではない。ただ、これ以上問題がこじれないようにしたいだけだ』
「問題って?」
『今は言えない』
 鉄哉はこの人を警戒したが、この人もかなり鉄哉を警戒している。そして彼をよく知ってもいるようだ。改源さんの手がわたしの両肩を握りしめる。困惑がさらに大きくなった。
「このまま誰にも言わずに行かなきゃならないの? みんなわたしのことを忘れるんですか?」
『気になるのか』
「気になります。友達とか、わたしを育ててくれた人たちとか、その人たちに何も言えないままなんて。それに……わたしが黙っていなくなったら、きっと……大騒ぎする奴がいるんです。それが一番気がかりで」
 鉄哉のことを言い表すのに、とっさにはそうとしか言いようがなかった。もしかすると意外と早く立ち直るのかもしれないが、立ち直るという確信を持ってからここを去りたい。
『忘れないのは生きているあいだだけのことだ。それに、この世界に住む人間は皆気の毒なほど短命だ』
「本人にとっては長い時間です」
 改源さんの表情が曇った。
『彼らはお前を忘れる。お前もその衣を捨てれば忘れる。別れを言う時間が必要なら待つが、期限が来るということに変わりはない』
 無理に今連れていこうとしているわけではないようだ。わたしの意思をある程度尊重してくれるらしい。でもこの人は来年まで待つ気がない。
「……考えさせてください。今ここでは決められません」
『どのくらい時間がほしい』
「一か月下さい」
『そんなに?』
 納得いかない様子だ。でも一週間やそこらでは考えをまとめるにも、姿を消す準備をするにも足りない。ここは多めに見積もったほうが無難だ。何せ相手は死のように絶対的な人なのだから。
『――わかった、では待とう』
 改源さんがわたしを抱き寄せ、顔を寄せてきた。なるほど、この人とはこういう関係だったのか。自分が当然のようにそれを受け入れているので、そうだという記憶も確証もないが、納得出来る部分があった。
 改源さんが体を離して自由になると、彼がわたしの背後を見ているのに気がついた。振り返ると鉄哉がいたので息が止まった。初めて見る形相でこちらを睨みつけている。
『また来る』
 改源さんが鉄哉の横を通り過ぎるとき、小声で彼に何か言った。するといっそう激しい表情で鉄哉が改源さんを睨みつけた。いつまでもいつまでも、刺すような視線でその姿を追っていた。
「な、何で……」
 何でここにいるの、という言葉がまともに出て来なかった。
「去年あいつが来てから、ずっと網を張ってたんだ。正体はわからなくても、網にかかれば重さを感じるから」
 聞いたこともないような冷たい声だった。その顔つきから、さっきのことを見ていたのは明らかだ。改源さんも鉄哉が見ていることをわかっていて続けたのだろう。どうしてこんなに気が咎めるのか、自分でもわからない。立っていられないほどの罪悪感がわたしを責めさいなんだ。

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