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20 睡蓮
しおりを挟む朝靄の中、目を覚ました。
空は夜と朝の境目の、うっすらと優しい色をしている。
前にもこんな空を見たなと、僕はぼんやり空を眺めながら記憶の中を彷徨った。
そうだ、あの時だ。
小学六年の時、美津子と正人と行った、サマーキャンプ。
まだみんな寝静まっている中、美津子に起こされた。
トイレに行くからついてきてと。
けどそんなのすぐに嘘だとわかった。
美津子は独りでトイレに行けないほど幼くはない。
正人も起こし、三人で宿舎を抜け出した。
その時見上げた空が、ちょうどこんな色をしていた。
空の色だけじゃない。
吸い込む空気の匂いも似ている。
湿気た、少し冷たい森の空気。
キャンプファイヤーをした広場が見えた。
他にもたくさんの子供たちがいて、歌ったり踊ったりした場所だ。あんなに騒々しかった場所が、眠ったように静まり返っていることに、僕はまだ夢の中にいるような錯覚を起こした。
しばらく歩くと近くに広い池があって、水面を流れる朝靄の中を黒いトンボがひらひらと舞っていた。
トンボが池の真ん中で何かにとまった。
淡いピンクの花びらが、靄の中から現れた。
睡蓮の花だった。
「きれい……」美津子が静かに言った。
音をさせるものは何もなかった。
けれど無音ではなかった。
心を静め、鼓膜をくすぐる音に耳を澄ませた。
幾億もの生命たちが、動き、呼吸をしているのを感じた。
目にも見えない小さな虫から、何百年も生きているであろう森の樹々まで。
その全ての呼吸の音が、森を静寂から救っていた。
「違う世界に迷い込んだみたい」そう言う美津子を見て、僕は息を呑んだ。
美津子の横顔が、まるで睡蓮の花びらのように、透明で清らかなものに見えたからだ。
僕はなんだか落ち着かなくなり、池に咲く睡蓮に目を戻した。
トンボは飛び去り、もうどこにもいなかった。
睡蓮の花は、時間を吸い込むように、じっと水面で空を見上げていた。
その思い出は、酷く遠い過去のように思われた。
まだ二年ほどしかたっていないと言うのに。
大人になったような気がした。
まだまだ子供だけれど、あの時の自分が幼く思える。
過去がどれほど遠く感じるかは、時の流れではなく、自分がどれほど成長したかによるのかも知れない。
もっとも、今自分がいる場所の方が、よほど現実離れしているのだけれど。
僕は体を起こし、辺りを見回した。
燃えていた家々からは、もう火は見えない。
死んだ狒狒の体はもうどこにもなかった。
朝になると消えてしまうのかも知れない。
その体が横たわっていたであろう場所に、天叢雲剣が残されていた。
僕は自分の両の手の平を見た。
僕が、あの狒狒を倒したのだろうか。
信じられない。
ただ、拳の中に感じた狒狒の最後の鼓動の感触は、今でも手の平に残っていた。
スサノオは、まだ気を失ったまま倒れていた。
コトネの姿は見えない。ハクビシンが岩陰で眠っていた。コトネもその近くにいるのだろうかと僕は想像した。
八岐大蛇も消えてしまった。きっと勾玉に姿を変えてその辺に落ちているのだろう。後で探してやろうと思った。
僕は天叢雲剣を拾い上げると、意識の戻らないスサノオに近づいた。
何やらもごもご寝言を言っている。
寝ているだけらしい。
ならばもう少し寝かせておいた方がいいかも知れない。
そんなことを考えながら近づき、気が付いた。
またスサノオの体が透けている。
顔や体に付いた煤(すす)がはらはらと風に飛んで行った。
浅い川の流れを見るように、スサノオの体を通してその下の地面がゆらゆらと見える。
「ス、スサノオ……」いったいどうしちゃったんだろう。
スサノオの体から、光の粒子のようなものが立ち昇っていた。
「なに、これ……」
僕は何やら、スサノオがこのまま死んでしまうのではないかと言う理由のない不安に駆られた。
体がただ透明になっていくだけではない。
気配が薄まっていく。
死ぬ、というのは間違いかも知れない。
存在が消えて行く。
「ス、スサノオ?」僕はその体に触れていいのか、眠りを覚ましていいのか、呼び掛けていいのかさえわからなかった。けれどそのままにしておくわけにもいかない。
僕はその横に座り、スサノオに触れた。
「ね、ねえ、スサノオ? スサノオ?」その呼びかけに応えるように、スサノオは何やらむにゃむにゃと言い、寝返りをうった。
「ねえ、スサノオ。起きてよ、ねえ?」
けれどスサノオは起きなかった。
スサノオの肩に触れ、揺り起こそうとしたけれど、スサノオの肩の感触は人の肌のそれとは違っていた。
なんだか冷たく柔らかいゼリーのように、形を持った水に触れているようだった。
力を入れて触れれば、形を崩してしまいそうな。
僕はそのまま何もできず見守った。
いつの間にか、さっきより明るくなっていた。
ふと見上げると、東の空が朝焼けに染まっている。
どこかで目覚めた鳥の声が聞こえた。
陽の光に照らされて、スサノオの体から昇る光の粒子はやがて見えなくなった。
透明に見えたスサノオの体も、もとに戻った。
「スサノオ?」そう言ってもう一度肩に触れると、そこにはちゃんと温もりが戻っていた。
「ん……、んんーーー!」と言ってスサノオが薄目を開けた。「なんだ、どうした。ここはどこだ……、ん、和也、あれ? うわぁっ!!!」
スサノオは突然叫んで飛び起きたかと思うと、そのままバランスを崩してもう一度倒れてしまった。
「大丈夫だよ、落ち着いて」僕がそう言うと、スサノオは目をひん剥いて僕を見た。
「か、和也。生きてるのか? 生きてるのか? お前さん、どうした。あれからどうした? ひ、狒狒は、狒狒はどうした? 八岐大蛇は? どうして生きてる? なにがあった?」
「いいから落ち着いて。ちゃんと話すから」僕はなんだかいつもと変わらないスサノオのその姿に、少し安心して笑ってしまった。「そうだ。ちょっと水を探してくるよ。スサノオは落ち着くまでそこで座ってて」
「あ、ああ……」
僕は驚く顔のスサノオを残して、まだ燃えていない家に水はないかと村の方に歩いて行った。
空は夜と朝の境目の、うっすらと優しい色をしている。
前にもこんな空を見たなと、僕はぼんやり空を眺めながら記憶の中を彷徨った。
そうだ、あの時だ。
小学六年の時、美津子と正人と行った、サマーキャンプ。
まだみんな寝静まっている中、美津子に起こされた。
トイレに行くからついてきてと。
けどそんなのすぐに嘘だとわかった。
美津子は独りでトイレに行けないほど幼くはない。
正人も起こし、三人で宿舎を抜け出した。
その時見上げた空が、ちょうどこんな色をしていた。
空の色だけじゃない。
吸い込む空気の匂いも似ている。
湿気た、少し冷たい森の空気。
キャンプファイヤーをした広場が見えた。
他にもたくさんの子供たちがいて、歌ったり踊ったりした場所だ。あんなに騒々しかった場所が、眠ったように静まり返っていることに、僕はまだ夢の中にいるような錯覚を起こした。
しばらく歩くと近くに広い池があって、水面を流れる朝靄の中を黒いトンボがひらひらと舞っていた。
トンボが池の真ん中で何かにとまった。
淡いピンクの花びらが、靄の中から現れた。
睡蓮の花だった。
「きれい……」美津子が静かに言った。
音をさせるものは何もなかった。
けれど無音ではなかった。
心を静め、鼓膜をくすぐる音に耳を澄ませた。
幾億もの生命たちが、動き、呼吸をしているのを感じた。
目にも見えない小さな虫から、何百年も生きているであろう森の樹々まで。
その全ての呼吸の音が、森を静寂から救っていた。
「違う世界に迷い込んだみたい」そう言う美津子を見て、僕は息を呑んだ。
美津子の横顔が、まるで睡蓮の花びらのように、透明で清らかなものに見えたからだ。
僕はなんだか落ち着かなくなり、池に咲く睡蓮に目を戻した。
トンボは飛び去り、もうどこにもいなかった。
睡蓮の花は、時間を吸い込むように、じっと水面で空を見上げていた。
その思い出は、酷く遠い過去のように思われた。
まだ二年ほどしかたっていないと言うのに。
大人になったような気がした。
まだまだ子供だけれど、あの時の自分が幼く思える。
過去がどれほど遠く感じるかは、時の流れではなく、自分がどれほど成長したかによるのかも知れない。
もっとも、今自分がいる場所の方が、よほど現実離れしているのだけれど。
僕は体を起こし、辺りを見回した。
燃えていた家々からは、もう火は見えない。
死んだ狒狒の体はもうどこにもなかった。
朝になると消えてしまうのかも知れない。
その体が横たわっていたであろう場所に、天叢雲剣が残されていた。
僕は自分の両の手の平を見た。
僕が、あの狒狒を倒したのだろうか。
信じられない。
ただ、拳の中に感じた狒狒の最後の鼓動の感触は、今でも手の平に残っていた。
スサノオは、まだ気を失ったまま倒れていた。
コトネの姿は見えない。ハクビシンが岩陰で眠っていた。コトネもその近くにいるのだろうかと僕は想像した。
八岐大蛇も消えてしまった。きっと勾玉に姿を変えてその辺に落ちているのだろう。後で探してやろうと思った。
僕は天叢雲剣を拾い上げると、意識の戻らないスサノオに近づいた。
何やらもごもご寝言を言っている。
寝ているだけらしい。
ならばもう少し寝かせておいた方がいいかも知れない。
そんなことを考えながら近づき、気が付いた。
またスサノオの体が透けている。
顔や体に付いた煤(すす)がはらはらと風に飛んで行った。
浅い川の流れを見るように、スサノオの体を通してその下の地面がゆらゆらと見える。
「ス、スサノオ……」いったいどうしちゃったんだろう。
スサノオの体から、光の粒子のようなものが立ち昇っていた。
「なに、これ……」
僕は何やら、スサノオがこのまま死んでしまうのではないかと言う理由のない不安に駆られた。
体がただ透明になっていくだけではない。
気配が薄まっていく。
死ぬ、というのは間違いかも知れない。
存在が消えて行く。
「ス、スサノオ?」僕はその体に触れていいのか、眠りを覚ましていいのか、呼び掛けていいのかさえわからなかった。けれどそのままにしておくわけにもいかない。
僕はその横に座り、スサノオに触れた。
「ね、ねえ、スサノオ? スサノオ?」その呼びかけに応えるように、スサノオは何やらむにゃむにゃと言い、寝返りをうった。
「ねえ、スサノオ。起きてよ、ねえ?」
けれどスサノオは起きなかった。
スサノオの肩に触れ、揺り起こそうとしたけれど、スサノオの肩の感触は人の肌のそれとは違っていた。
なんだか冷たく柔らかいゼリーのように、形を持った水に触れているようだった。
力を入れて触れれば、形を崩してしまいそうな。
僕はそのまま何もできず見守った。
いつの間にか、さっきより明るくなっていた。
ふと見上げると、東の空が朝焼けに染まっている。
どこかで目覚めた鳥の声が聞こえた。
陽の光に照らされて、スサノオの体から昇る光の粒子はやがて見えなくなった。
透明に見えたスサノオの体も、もとに戻った。
「スサノオ?」そう言ってもう一度肩に触れると、そこにはちゃんと温もりが戻っていた。
「ん……、んんーーー!」と言ってスサノオが薄目を開けた。「なんだ、どうした。ここはどこだ……、ん、和也、あれ? うわぁっ!!!」
スサノオは突然叫んで飛び起きたかと思うと、そのままバランスを崩してもう一度倒れてしまった。
「大丈夫だよ、落ち着いて」僕がそう言うと、スサノオは目をひん剥いて僕を見た。
「か、和也。生きてるのか? 生きてるのか? お前さん、どうした。あれからどうした? ひ、狒狒は、狒狒はどうした? 八岐大蛇は? どうして生きてる? なにがあった?」
「いいから落ち着いて。ちゃんと話すから」僕はなんだかいつもと変わらないスサノオのその姿に、少し安心して笑ってしまった。「そうだ。ちょっと水を探してくるよ。スサノオは落ち着くまでそこで座ってて」
「あ、ああ……」
僕は驚く顔のスサノオを残して、まだ燃えていない家に水はないかと村の方に歩いて行った。
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