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正人の話 其の弐
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「クシナダヒメ……。何処へ消えた、クシナダヒメ……。そなたを求め、ここまでやってきた。その美しさを我が物にするため。スサノオ……。スサノオとともに消えた。なぜだ! どこに消えた!」
ああっ!
なんだよこれ?
変な声が頭の中から聞こえる。
俺、俺、どうしちまったんだ?
部屋のベッドに横たわり、俺は布団をかぶって震えていた。
寒気がする。
変な声が聞こえるだけじゃない。
体がおかしい。
手足の感覚がない。
まるで冷たい氷水の中に何時間も浸けていたみたいに。
「おい正人! なにしてやがる!」部屋の外から親父(おやじ)の怒鳴り声がした。
部屋は真っ暗にしていた。
蛍光灯の明かりが眩しいからだ。
見ると吐き気がする。
スマホの画面も同じだ。
眩しくて見ることができない。
昼の太陽なんかはカーテンを閉めていても体を燃やすように熱い。
だから昼間はずっとベッドの上で布団をかぶって過ごした。
それでもなんだか暑いから、部屋の窓と言う窓を引きちぎった教科書や学校のプリントなどを張り付けて一切の光が入らないようにした。
「おい正人! 返事しやがれ!」
「ちょっともう、何時だと思ってるの。大声出すのやめてよ」
そんな親父とお袋の言い合う声が部屋の外で聞こえる。
時間はわからない。
時計の針は一時を指していたけれど、それが夜中の一時なのか昼の一時なのかわからない。
けれどお袋の言ったことから考えると、きっと今は夜中なのだろう。
部屋の鍵は閉めている。
親父がそれを開けようと、力づくでガチャガチャと取っ手を回した。
こんなとこ見られたくない。
親父が扉を蹴り飛ばすような音が響いた。
「やめてよ!」
「なんだと!?」
お袋の声に怒りの矛先が変わったのか、親父の気配が部屋の外から消えた。
誰にも、誰にもこんなとこ見られたくない。
俺は和也と美津子が姿を消してからの三日間、ずっと部屋に閉じこもったまま過ごした。
親父は俺が中学に上がったころから乱暴になった。
仕事を辞めさせられたらしい。
理由は知らない。
けれど、ろくでもない理由であったことは、親父の態度を見てわかった。
それから親父は物に当たり散らし、酒を飲んで機嫌の悪い時は暴力を振るうようになった。
昔はこんなじゃなかった。
家族との思い出がそんな多いわけではないけれど、その中で親父はそんな悪い奴ではなかった。
たった一度だけ、海に連れて行ってくれたことがあった。
狭い民宿に三人で泊まり、生まれて初めて海水浴に行った。
夏の日差しの下、親父は俺に浮き輪を持たせ、足の届かない深いところまで行った。
「あんまり遠くまで行かないで!」お袋の声が遠くに聞こえた。
やがてお袋の声も波の音や人々の声にかき消されて聞こえなくなると、俺は酷く不安を覚え泣き出した。
親父は無言でどんどん沖に向かって歩き続けた。
何を考えているのかわからなかった。
気が付くと、親父も足が届かないのか首まで水に浸かり泳いでいた。
周りにほとんど人はいなかった。
みんな砂浜に近いところで遊ぶか泳ぐかしていた。
こんな沖まで来ているのは、浮き輪をかぶった俺と親父くらいのものだった。
浮き輪の下、足を撫でる水の温度が変わるのを感じた。
急に冷たくなった。
俺は泣くのをやめた。
それを見て満足したのか、親父は俺を再びお袋の待つ砂浜に連れて帰った。
「楽しかった?」お袋は笑顔でそう尋ねた。けれどその笑顔は少し強張っていた。
その後のことは記憶が途絶えた。
夕方になると、民宿で貸してくれた安い竹竿に仕掛けをつけ、海の近くを流れる河でハゼ釣りをした。
その時の親父の顔は、海で泳いだ時と違って、それまで見たこともないほど楽し気な笑顔だった。
俺はその笑顔だけを記憶にとどめ、沖まで泳いだ親父の顔は忘れようと幼いながらに心に思った。
その旅行は二泊三日で、次の日も同じように家族三人海水浴に出かけたが、その日は親父はもう俺を浮き輪に乗せて沖に連れて行くようなことはしなかった。
ただ砂浜で、他の家族と同じように、浅瀬で水遊びをしたり砂で何かをこしらえたりした。
俺はベッドの上でふと我に返った。
夢を見ていたのかも知れない。
夢の中で過去の出来事を思い出していたのかも知れない。
夢か現実か、記憶か妄想か、その境目が判然としない意識の中で、俺は自分が何かに変わってもう元には戻れないのだとわけのわからないことを考えた。
立ち上がることができない。
脚に力が入らないからだ。
なんの感覚もない。
そこに脚があるのかどうかさえわからない。
手も腕もそうだ。
どうしちまったんだ俺。
頭も朦朧とする。
うまく物が考えられない。
体を動かすと、ぼとりと何かがベッドの横に落ちる音がした。
気になって目を向けるが、ベッドの下を覗くことができない。
体をうまく動かせないからだ。
身体中がむずがゆい。
何週間も風呂に入らず、古くなった皮膚が剥がれ落ちて行くような感覚だ。
痒い痒い痒い……。
首筋から背中にかけて、強烈な痒さだ。
手を伸ばしたいが、その手がない。
手がない?
俺、今……、どうしてそんなことを思ったのだろう。
手……、俺の手……、俺の手を見ることができない。
手を動かすことができない。
俺の手……。
どこにあるんだ?
ああっ!
なんだよこれ?
変な声が頭の中から聞こえる。
俺、俺、どうしちまったんだ?
部屋のベッドに横たわり、俺は布団をかぶって震えていた。
寒気がする。
変な声が聞こえるだけじゃない。
体がおかしい。
手足の感覚がない。
まるで冷たい氷水の中に何時間も浸けていたみたいに。
「おい正人! なにしてやがる!」部屋の外から親父(おやじ)の怒鳴り声がした。
部屋は真っ暗にしていた。
蛍光灯の明かりが眩しいからだ。
見ると吐き気がする。
スマホの画面も同じだ。
眩しくて見ることができない。
昼の太陽なんかはカーテンを閉めていても体を燃やすように熱い。
だから昼間はずっとベッドの上で布団をかぶって過ごした。
それでもなんだか暑いから、部屋の窓と言う窓を引きちぎった教科書や学校のプリントなどを張り付けて一切の光が入らないようにした。
「おい正人! 返事しやがれ!」
「ちょっともう、何時だと思ってるの。大声出すのやめてよ」
そんな親父とお袋の言い合う声が部屋の外で聞こえる。
時間はわからない。
時計の針は一時を指していたけれど、それが夜中の一時なのか昼の一時なのかわからない。
けれどお袋の言ったことから考えると、きっと今は夜中なのだろう。
部屋の鍵は閉めている。
親父がそれを開けようと、力づくでガチャガチャと取っ手を回した。
こんなとこ見られたくない。
親父が扉を蹴り飛ばすような音が響いた。
「やめてよ!」
「なんだと!?」
お袋の声に怒りの矛先が変わったのか、親父の気配が部屋の外から消えた。
誰にも、誰にもこんなとこ見られたくない。
俺は和也と美津子が姿を消してからの三日間、ずっと部屋に閉じこもったまま過ごした。
親父は俺が中学に上がったころから乱暴になった。
仕事を辞めさせられたらしい。
理由は知らない。
けれど、ろくでもない理由であったことは、親父の態度を見てわかった。
それから親父は物に当たり散らし、酒を飲んで機嫌の悪い時は暴力を振るうようになった。
昔はこんなじゃなかった。
家族との思い出がそんな多いわけではないけれど、その中で親父はそんな悪い奴ではなかった。
たった一度だけ、海に連れて行ってくれたことがあった。
狭い民宿に三人で泊まり、生まれて初めて海水浴に行った。
夏の日差しの下、親父は俺に浮き輪を持たせ、足の届かない深いところまで行った。
「あんまり遠くまで行かないで!」お袋の声が遠くに聞こえた。
やがてお袋の声も波の音や人々の声にかき消されて聞こえなくなると、俺は酷く不安を覚え泣き出した。
親父は無言でどんどん沖に向かって歩き続けた。
何を考えているのかわからなかった。
気が付くと、親父も足が届かないのか首まで水に浸かり泳いでいた。
周りにほとんど人はいなかった。
みんな砂浜に近いところで遊ぶか泳ぐかしていた。
こんな沖まで来ているのは、浮き輪をかぶった俺と親父くらいのものだった。
浮き輪の下、足を撫でる水の温度が変わるのを感じた。
急に冷たくなった。
俺は泣くのをやめた。
それを見て満足したのか、親父は俺を再びお袋の待つ砂浜に連れて帰った。
「楽しかった?」お袋は笑顔でそう尋ねた。けれどその笑顔は少し強張っていた。
その後のことは記憶が途絶えた。
夕方になると、民宿で貸してくれた安い竹竿に仕掛けをつけ、海の近くを流れる河でハゼ釣りをした。
その時の親父の顔は、海で泳いだ時と違って、それまで見たこともないほど楽し気な笑顔だった。
俺はその笑顔だけを記憶にとどめ、沖まで泳いだ親父の顔は忘れようと幼いながらに心に思った。
その旅行は二泊三日で、次の日も同じように家族三人海水浴に出かけたが、その日は親父はもう俺を浮き輪に乗せて沖に連れて行くようなことはしなかった。
ただ砂浜で、他の家族と同じように、浅瀬で水遊びをしたり砂で何かをこしらえたりした。
俺はベッドの上でふと我に返った。
夢を見ていたのかも知れない。
夢の中で過去の出来事を思い出していたのかも知れない。
夢か現実か、記憶か妄想か、その境目が判然としない意識の中で、俺は自分が何かに変わってもう元には戻れないのだとわけのわからないことを考えた。
立ち上がることができない。
脚に力が入らないからだ。
なんの感覚もない。
そこに脚があるのかどうかさえわからない。
手も腕もそうだ。
どうしちまったんだ俺。
頭も朦朧とする。
うまく物が考えられない。
体を動かすと、ぼとりと何かがベッドの横に落ちる音がした。
気になって目を向けるが、ベッドの下を覗くことができない。
体をうまく動かせないからだ。
身体中がむずがゆい。
何週間も風呂に入らず、古くなった皮膚が剥がれ落ちて行くような感覚だ。
痒い痒い痒い……。
首筋から背中にかけて、強烈な痒さだ。
手を伸ばしたいが、その手がない。
手がない?
俺、今……、どうしてそんなことを思ったのだろう。
手……、俺の手……、俺の手を見ることができない。
手を動かすことができない。
俺の手……。
どこにあるんだ?
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