上 下
7 / 44

正人の話 其の壱

しおりを挟む
ひどい寒気がした。
夜とは言え真夏の暑さの中、寒さのあまり冷房を消した。
部屋の明かりも消した。
まぶしくてまぶしくて我慢できなかったからだ。
布団に潜り込むと、自分の立てる呼吸の音が耳障りで我慢できなかった。
背中から首筋のあたりに悪寒が走り、顔全体にざわざわと何かに触れられているような違和感があった。
顔の皮膚の中を何千匹と言う目に見えない小さな虫がチクチクと這いずり回っているような違和感だ。
歯ががたがたと音を立てた。
自分の体ではないみたいだ。
爪を立てて顔をかきむしった。
違和感は消えなかった。
どれだけ顔を掻きむしっても、痛みすら感じなかった。
自分の手を見ると、指に血がべったりとついていた。
鏡を見ると、掻きむしった傷跡から血が滲んでいる。
やがて顔がでこぼこになってきた。
鏡を見るのも顔に触れるのもやめた。

その一時間ほど前、美津子からLINEが届いた。
「ねえ正人、和也と三人であの夜のことをもう一度話したいので、公園で会えますか?」
見知らぬ男が夜の踏切に飛び込んだ日から、ちょうど一週間ほどたってからのことだ。
「わかった。行くよ」そう答えた。
その時はなんともなかった。

「クシナダ……ヒメ……」
誰かの声がした。
低くくぐもった声だった。
いや……、いや……、俺が言ったんだ。
俺が言ったんだけど、俺じゃない……。
俺じゃない誰かが、俺の中からそう言ったんだ。
「狂おしい……、ああ、ああ、なんて美しさだ。狂おしい……、クシナダヒメ。そなたの血で、この喉を潤したい。流れ出るその赤い血が、我の口に溢れ、喉を流れて行くのを感じたい」
その言葉に、まるで本当に喉の奥に誰かの血が流れ込んでくるような錯覚に囚われた。
「ああ、ああ、クシナダヒメ。どこへ行った……。我はここにいる。暗闇の中、そなたの甘美な血の滴りを夢に、悠久の時を生きてきた。クシナダヒメ、我の前に姿を現せ。その白く血の通う首を我の前に差し出せ。我の牙を受け入れよ。美しき、美しきクシナダヒメよ……」
自分が自分ではないような気がした。
手があり、足があり、顔があり、人間の形をしていることがどうにも我慢ならなかった。
腕をもぎ取り、口を裂き、本来の自分の姿へ戻りたかった。
そして、そして、なによりこの乾ききった喉を、溢れんばかりの温かい血で潤したかった。
はあ、はあ、はあ、はあ……、意識が遠のいていった。
自分を失いそうだった。
目を閉じると、まるで地面から草の根を引っこ抜くように、自分がこの身体から引き抜かれていくような気がした。
美津子……、和也……、美津子……、和也……。
二人の名前を呪文のように唱えた。
た、助けてくれ……、美津子……、和也……、お、俺の中に何かがいる……。美津子……、和也……、「美津子……、和也……、美津子……、和也……、ス、スサノオ……」
「その名を口にするなあああああああ!!!」

自分の口から出た叫び声に我に返った。
「な、なんだ今の……。どうしちまったんだよ、俺……」
寒気は嘘のように消えていた。
汗が酷い。
着ているものがすべて汗で体に張り付いている。
けれども体は軽かった。
部屋の明かりをつけ、鏡で顔を見た。
ひっかき傷がいくつかあり、血が滲んでいたが、そんなに気にするほどでもない。
「そうだ、美津子、和也」
箪笥の上の時計を見ると、約束の時間を一時間以上過ぎていた。
「やっば!」
慌ててスマホを探した。
「どこだどこだ、どこだよ!?」
布団をひっくり返すとその下に見つけた。
ロックを解除し、LINEを開く。
「遅れて悪い! 今から行く!」
美津子にそう伝えると、汗に濡れた服も着替えず、玄関を飛び出して行った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】亡き冷遇妃がのこしたもの〜王の後悔〜

なか
恋愛
「セレリナ妃が、自死されました」  静寂をかき消す、衛兵の報告。  瞬間、周囲の視線がたった一人に注がれる。  コリウス王国の国王––レオン・コリウス。  彼は正妃セレリナの死を告げる報告に、ただ一言呟く。 「構わん」……と。  周囲から突き刺さるような睨みを受けても、彼は気にしない。  これは……彼が望んだ結末であるからだ。  しかし彼は知らない。  この日を境にセレリナが残したものを知り、後悔に苛まれていくことを。  王妃セレリナ。  彼女に消えて欲しかったのは……  いったい誰か?    ◇◇◇  序盤はシリアスです。  楽しんでいただけるとうれしいです。    

婚約者に消えろと言われたので湖に飛び込んだら、気づけば三年が経っていました。

束原ミヤコ
恋愛
公爵令嬢シャロンは、王太子オリバーの婚約者に選ばれてから、厳しい王妃教育に耐えていた。 だが、十六歳になり貴族学園に入学すると、オリバーはすでに子爵令嬢エミリアと浮気をしていた。 そしてある冬のこと。オリバーに「私の為に消えろ」というような意味のことを告げられる。 全てを諦めたシャロンは、精霊の湖と呼ばれている学園の裏庭にある湖に飛び込んだ。 気づくと、見知らぬ場所に寝かされていた。 そこにはかつて、病弱で体の小さかった辺境伯家の息子アダムがいた。 すっかり立派になったアダムは「あれから三年、君は目覚めなかった」と言った――。

父が死んだのでようやく邪魔な女とその息子を処分できる

兎屋亀吉
恋愛
伯爵家の当主だった父が亡くなりました。これでようやく、父の愛妾として我が物顔で屋敷内をうろつくばい菌のような女とその息子を処分することができます。父が死ねば息子が当主になれるとでも思ったのかもしれませんが、父がいなくなった今となっては思う通りになることなど何一つありませんよ。今まで父の威を借りてさんざんいびってくれた仕返しといきましょうか。根に持つタイプの陰険女主人公。

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と叫んだら長年の婚約者だった新妻に「気持ち悪い」と言われた上に父にも予想外の事を言われた男とその浮気女の話

ラララキヲ
恋愛
 長年の婚約者を欺いて平民女と浮気していた侯爵家長男。3年後の白い結婚での離婚を浮気女に約束して、新妻の寝室へと向かう。  初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と愛する夫から宣言された無様な女を嘲笑う為だけに。  しかし寝室に居た妻は……  希望通りの白い結婚と愛人との未来輝く生活の筈が……全てを周りに知られていた上に自分の父親である侯爵家当主から言われた言葉は──  一人の女性を蹴落として掴んだ彼らの未来は……── <【ざまぁ編】【イリーナ編】【コザック第二の人生編(ザマァ有)】となりました> ◇テンプレ浮気クソ男女。 ◇軽い触れ合い表現があるのでR15に ◇ふんわり世界観。ゆるふわ設定。 ◇ご都合展開。矛盾は察して下さい… ◇なろうにも上げてます。 ※HOTランキング入り(1位)!?[恋愛::3位]ありがとうございます!恐縮です!期待に添えればよいのですがッ!!(;><)

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

愛されない花嫁は初夜を一人で過ごす

リオール
恋愛
「俺はお前を妻と思わないし愛する事もない」  夫となったバジルはそう言って部屋を出て行った。妻となったアルビナは、初夜を一人で過ごすこととなる。  後に夫から聞かされた衝撃の事実。  アルビナは夫への復讐に、静かに心を燃やすのだった。 ※シリアスです。 ※ざまあが行き過ぎ・過剰だといったご意見を頂戴しております。年齢制限は設定しておりませんが、お読みになる場合は自己責任でお願い致します。

愛されない皇妃~最強の母になります!~

椿蛍
ファンタジー
愛されない皇妃『ユリアナ』 やがて、皇帝に愛される寵妃『クリスティナ』にすべてを奪われる運命にある。 夫も子どもも――そして、皇妃の地位。 最後は嫉妬に狂いクリスティナを殺そうとした罪によって処刑されてしまう。 けれど、そこからが問題だ。 皇帝一家は人々を虐げ、『悪逆皇帝一家』と呼ばれるようになる。 そして、最後は大魔女に悪い皇帝一家が討伐されて終わるのだけど…… 皇帝一家を倒した大魔女。 大魔女の私が、皇妃になるなんて、どういうこと!? ※表紙は作成者様からお借りしてます。 ※他サイト様に掲載しております。

処理中です...