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ぷろろーぐ

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 柚葉色の門をくぐると、正面に大きな噴水のある中央広場、そしてその先に私が三年間通った大学の本館が見える。今日はとても晴れていた。吹き上げる噴水の水が虹を作り、私の新しい人生の門出に色を添えてくれているようだった。教室棟や国際交流センターを横目に学生課のある本館へ歩いていると、講堂からスーツ姿の学生たちがあふれ出てきた。みんなまだどこかあどけなさの残る顔で、ぎこちない笑みを浮かべている。
 ああそうかと思い、私はスマホを取り出し日付を確認した。四月二日。今日は入学式なんだ。あれからちょうど、三年になるんだな……。
 慣れないスーツに身を包まれながらも、青い空の下、新しい世界に胸を躍らせる姿は遠目に見ていても眩しい。まだ少し冷たい風が頬にあたり、アスファルトに落ちた桜の花びらを舞い上がらせた。
 学生課に寄り、教務担任と教務課の係長と三人で一時間ほど話をした後、退学の手続きを終え、私は食堂に隣接するカフェでコーヒーを買い、中央広場のベンチに座って思い出に浸った。
「あっさりしたもんだったな」と呟く。あれほど必死になって勉強して入った大学なのに。でもそのおかげで今の私がいる。そう考えれば無駄ではなかった、いえ、思っていた以上の私になれた。だからこれは百点満点以上の成果だ。
 不思議なくらいに穏やかな気分だった。
 心臓の鼓動がこれでもかというほど緩やかになり、まるで眠っているかのようにリラックスしている。
 思えば壮絶な三年間だった。
 そしてきっと、私の人生の中でもっとも大切な三年間だった。
 それまでは、ただ何も見えない暗闇を、躓き、膝をつき、傷だらけになって、どちらにむかえばいいかもわからずただ理不尽さに耐えていた。
 けれどここにやってきて私は、進む方向を、その先にある光を見つけた。
 どれだけ傷つき、ボロボロになっても、ここを抜ければ光があるのだということを知った。
 そういう三年間だった。
 ここのコーヒー、いつも苦いな。カップの中に揺れる黒い液体を見つめ、そう思いながら、この味を忘れぬようゆっくりと喉の奥に流れ込むまで味わった。
「苦いでしょ、そのコーヒー」あの人が、そう言った。「いい? その味を、あなたがいま味わっている苦しみだと思ってしっかり飲むの。その味を忘れちゃダメ。人はすぐに経験した苦しみを忘れるわ。でないと正気を保って生きていけないからよ。けれどね、何かを覚悟したならば、苦しみを忘れちゃダメなのよ。もし忘れそうになったら、そのコーヒーを飲みなさい。そして思い出すの。自分がどれほど苦しい思いをしてきたか」
 向こうでも、苦いコーヒーを出してくれる店を見つけることができるだろうか。
「え、もしかしてあの人……」風に乗って話し声が聞こえた。
「うそ!? 徳美奈央とくみなおだ!」
「ちょっと呼び捨てまずいよ。聞こえてるよ?」
 話しているのは、さっき講堂から出てきた新入生たちだった。遠目に私を見て言っているのだ。
「え、だれだれ?」
「知らないの? モデルやってる人だよ。ファッション雑誌とか」
「最近海外の雑誌にも出てるらしいよ」
「私持ってるよ、こんど見せてあげる!」
「私、あの人にあこがれてこの大学来たんだよ」
「すごーい、本物だ!」
 私はやっぱりまだ、そういう目で見られるのには慣れないな。あの人なら、そよ風のように受け流すんだろうけど。
 ほら、背筋を伸ばしなさい! 足の指から髪の毛の先まで気を抜いちゃ駄目よ。人に見られることを二十四時間意識するの。自信を持ちなさい。そしてそれをあなたの人となりにするの。あの人の言葉は、一字一句胸に刻み込んである。
「あの……、徳美奈央さんですよね。その、一緒に写真を撮ってもらえませんか?」新入生たちの一団から抜け出てきた数人が、そう声をかけてきた。
「ええいいわよ。あなたたち、新入生ね」
「はい。そうです!」
「横に座れば? 写真は好きなだけ撮ってもいいわ」私のひと言を皮切りに、小さな撮影会が始まった。それを遠目に見ていた他の新入生たちも集まって、人だかりになってしまった。まあいい。今日はほかにたいした用事もないし、ここで過ごすのはこれが最後だ。こんな私の写真を撮るくらいでこの子たちの気持ちが盛り上がるなら、これがこの大学へのせめてもの恩返しだ。
 私の隣に座って顔を赤らめる子、握手をして目に涙を溜める子、手帳にサインをもらってそれを抱きしめる子、私の背の高さに驚く子、私は不思議な気分でそんな彼女たちの様子を眺めた。
 私は変わった。見た目も中身も、三年前の私とはまるで別の人間だ。けれど心の片隅のどこかに、まだ昔の私が残っていて、まるで他人事のように彼女たちと、そして私自身を見つめるのだ。

 小一時間の撮影会を終え、新入生たちは去っていった。これからクラスごとに分かれてのオリエンテーションがあるのだそうだ。
 ふと目を上げると、遠くに一人、こちらを見る女の子がいた。華やかな入学式にはおよそ相応しくない暗い表情をしている。その理由を察するのに時間はかからなかった。とんでもなく太っているのだ。恐らく百キロは軽く超えている。かけたメガネのテンプルが顔の肉に埋もれている。スーツはかなり無理をしているのだろう、ボタンがいまにもはじけ飛びそうだ。目も暗そうに見える。手の指はちゃんと曲がるのだろうかと思うほど太く、スカートの下に伸びる脚もだらしがない。
 まるで三年前の……。
「ねえあなた?」そう声をかけようとした瞬間、彼女はうつむいて去ってしまった。彼女を呼ぼうと上げた手を、やり場をなくしてそっと下ろす。
 いけない、私も……、と思いながらスマホで時間を確かめる。もう一人、挨拶をしておきたい人がいる。ゼミの先生だ。今日は授業はないが用事があるので大学に顔を出すと言っていた。もうそろそろ研究室にいるかもしれない。
 私はスマホを鞄にしまって立ち上がり、軽く伸びをするように息を吸うと、研究室のある教室棟に向かって歩き出した。

 ゼミでは日本神話を学んだ。最初は国際政治や経済を学びたいと思っていた。外国語をメインとしたこの大学で、私は海外への憧れがあったのだ。けれど――「憧れだの夢だの理想だの、そんなふわふわした表現はやめなさい? 目標と呼ぶのよ。そうすればそれは達成するべきゴールになるわ。そう考えて初めて、人はそこにたどり着くための道筋や計画を考え始めるの」と、あの人に叱られた。「で、そうね、ゼミよね。竹中先生がいいわ」
 竹中先生? と思い、調べてみると、その初老の男性の教授は、日本神話を教えていた。
「日本神話? そうなの。おもしろいわね。けれど私があの先生を勧めた理由の本質はそこじゃないわ」
「本質?」
「ええ。日本人としての心を養うのよ」
「日本人の、心……」
「あなた、海外へ出て働きたいのよね?」
「いえ、それはその……、憧れというか……」
「その言葉を使うなと言ったわよね? 何度も同じこと言わせないで。あなたが男だったらぶんなぐってるわ」
「ごめんなさい……」
「まったく。ごめんなさいもいらないわ。そのしみったれた性格を直しなさい。見た目も中身もたるみすぎなのよ、あなた。まずはそこからね」
「ごめんなさい……」
「まあいいわ。きりがない。それよりあなた、海外で働くとして、他のアジア人、ヨーロッパ、アメリカ、世界の人たちと渡り合うために必要なものって何だと思う?」
「そ、それは……、英語、語学じゃ……」
「そんなのなんの役にも立たない。今のあなたが英語を喋れたとして、海外の人たちと対等にしゃべれると思う? 日本人の私相手でもそんなおどおどした態度なのに」
 私は何も言えずうつむいたまま首を横に振った。
「今のあなたに一番足りないものでもあるわ」
「私に?」
「自信よ。自分自身に対する誇りがないの。海外に出ても同じよ。あなたは日本人。自国に対する愛情や誇り、理解や知識のない人は負けるわ。どんなに英語が喋れない人でも、自分の国に誇りを持っている人は堂々としてる。背筋を伸ばし、ちゃんと相手の目を見ることができるわ。対等な人間としてね」
 言い返す言葉がなかった。それはこの人が自分の目で見、体験してきたであろうことだから。私は狭い世界に住んでいた。まさしく井の中の蛙だった。そこから飛び出すなんてこと、想像すらしていなかった。想像をする知識すらなかったというべきだろう。暗い井戸の底から、遠く丸い空をじっと見つめるだけの蛙だったのだ。
 研究室への階段を上りながら、化粧を直そうとトイレに立ち寄ると、誰か人の気配がした。
 個室の中に誰かいる。それは別にいいのだが、どうやら吐いているようだった。
「ねえあなた、大丈夫?」私は扉の外から声をかけた。
 吐く音は止まったが、返事は聞こえない。
「気分でも悪いの?」
「ええ、あの……、大丈夫です」
「気分が悪いなら、保健室に連れて行ってあげるわよ?」
「いえ、あの……」ガサゴソと音がして、扉が開いた。
「あなた、さっきの……」
「え?」と言って私を見たのは、やはりさっき見かけた太った女の子だった。
「あなた、さっきの子ね。新入生でしょ? 私がついているから大丈夫よ」
「大丈夫です」彼女はそう言いながらうつむいて私の横を通り抜けようとしたが、太っているせいか元からどんくさいのか慌てたせいか、まあきっとその全部のせいで、私の前で盛大に転んでしまった。
「ねえ、大丈夫!?」そう言って駆け寄ると、彼女は両膝とついた手のひらをすりむいて血を流していた。そしてその場に座り込んだまま、しくしくと泣き出してしまった。
「ほら、大丈夫よ」私はそう言って彼女の背中をさすった。
「優しいんですね……」
「放っておけないでしょ?」
「放っておいてもらって大丈夫です。慣れてるんで。ストレスで吐いちゃうんです」
「入学式? 緊張したの?」
「はい。なんだか、たくさん人がいるのが苦手で」
「わかるわ……」
「そんな……。知ってます。あなたのこと。モデルをされてるんでしょ? 緊張なんて……」
「わかるわよ。あんな大勢の人と、それも知らない人ばかり。まるで自分が好奇の目に晒されているようで苦しくなる」
「そんな知ったようなこと……」
「わかるわよ。私もそうだった」そこでふと気が付いた。彼女の左手に無数の傷があることを。
「これ、自分でやったのね。可哀そうに……」私は彼女のことが他人と思えず、思わずその場で一緒に座り込み、その大きくも小さくなった体を抱きしめた。
 ここのトイレは教室から離れた場所にあったので、普段からあまり人の来ない場所だった。床の冷たさが脚に伝わってきた。ひんやりとしているのは床だけではない。空気も、静けさも、心の中から冷たくなってくる場所だった。
「私もそうだったって、そんなわけない」彼女の声は小さかった。普段からきっと、大きな声で話すことなどないのだろう。
「ええそうね。今の私しか知らない人にとって、そう思うのは当然だわ。でもね、ほんとなの。よかったら聞かせてあげるわ。私の過去と、この大学で過ごした三年間を。そしてもしかしたら、あなたを救うこともできるかもしれない」
「私を?」
「ええそうよ。その前に、立ち上がりましょう。手を洗って、うがいをして、私の良くいくカフェに連れて行ってあげる。一緒に苦いコーヒーを飲みましょう。そして私の話をしてあげる。私が、牛と呼ばれていたころの話を」
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