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「明日のお昼までには帰ります」ターシャはリナが夕食を食べるのを見届け、そう言った。
「ラリーのところへ行くのね」
「はい。血液の浄化プログラムを受けてきます。何か不都合なことがあれば、ラリーを呼んでください」
「ええ、そうするわ。ありがとう」
「朝食は、ジェネレーターの2994番にセットしてあります。自分でできますね?」
「ええ、心配いらないわ」
「それから……」
「ターシャ、心配いらない。全部自分でできるわ」全部と言っても、部屋でのルーティンに複雑なものなど何もない。
「わかりました。それでは安心して行ってきます」
ターシャはリナがいつも眠るグラビティコントロールベッドに横たわり、目を閉じた。やがて装置から微かな振動音が鳴り、ターシャはラリーの元へ転送されていった。
「ターシャはあなたのことを心配していたわ」ソフィが言った。
「心配、と言うのは、心が不安になることね」
「ええ、そうよ」
アンドロイドに使われている人工の培養脳は、小さなネズミの脳と同じ程度の大きさだった。それにコンピューターを連動させ、知識は元より、判断基準、行動指針など複雑な思考を可能にしていた。けれども2000年代初頭から開発の始まった培養脳に、どの時点で意識が宿るのか、どの程度の思考や発達が可能なのか、600年以上もたった今でも、生命科学や心理学の分野で議論に終着点が見えなかった。
「私には、不安と言う心の動きがよくわからない」リナは言った。
「経験したことがないからよ」
「ソフィが今まで出会ってきた人たちは、不安を経験した?」
「ええ、とてもたくさん」
「私には、知らない心の動きがたくさんあるわ」
「それは仕方のないことよ」
「経験をしないから?」
「ええ」
「心を失ったと言っていいのかしら」
「間違った表現ではないと思うわ」
「では、心を失った人間と、心を得たアンドロイドと、どちらがたくさんの心を持っているのかしら」
「比べることなんてできないわ」
「では、ターシャはいったい、どんな心を持っているのかしら」
「それは、ターシャにしかわからない」
リナは落ち着かなかった。
これが不安と言うものなのだろうか、とふと思った。
部屋の外の夜の森は、いつもの通り闇に包まれ静まり返っている。
待ち望んだ夜のはずだった。
今夜、私はこの部屋を出るのだ。
風と言うものを感じてみたい。そこに含まれる匂いを嗅いでみたい。土に触れてみたい。森の向こうにあるものを見てみたい。
リナは生まれて初めて感じる不安をなんとか心から消し去ろうとした。
けれど不思議なことに、それを意識すればするほど、闇の中で明かりに照らされるように不安はその形を露わにしていった。
「部屋の外に出れば、もう中には戻れません」ターシャの言葉が思い出された。
この部屋に戻れないと、私はいったいどうなるのだろう。
ミルの話を思い出した。
飢えと寒さに苦しみ、何日も歩き続け、汚染された空気を吸い、未知の人工ウィルスに肺を侵されるかもしれない。
そこに「死」と言うものを想像してみた。
目を閉じ、その苦しみを想像してみた。
けれど、「恐怖」と言う心をうまく頭の中に作りだすことはできなかった。
きっとそれは、経験したことがないからだと思った。
「恐怖」とは、いったいどうすれば経験することができるのだろう。
この部屋の外に出れば、土に触れることができるように、「恐怖」もこの手の平に掬うことができるのだろうか。
そんなことを考えているうちに、不安は心の中から消えて行った。
「行くわ」リナはそう言って立ち上がり、ソフィを抱き上げた。
フィグツリーにアクセスし、部屋の構造を読み取り、床にあるハッチを探した。
「これね」リナはいつもターシャが食事を用意するジェネレーターの横の床にハッチを見つけた。
「いままでこんなものがあるなんて気づかなかった」けれどそれを見つけるのも、開けるのも、あっけないほど簡単なものだった。
明かりは自動で点いた。
小さな階段があり、そこはオレンジ色の壁の小さな部屋になってるようだった。
リナはまるで怯える自分を抱きしめるようにソフィを抱え、短い階段を一段ずつ慎重に下りた。
部屋に入るとハッチは締まり、空気が密閉され、気圧が変わったのか目の奥に締め付けられるような痛みを感じた。
「大きな気圧の変化を感知しました。圧平衡を行います」と頭の中にフィグツリーからの声が聞こえ、耳の奥の筋肉が動き、痛みが引いて行った。
目の前には両開きの扉があった。あとはこれを開けて、一歩踏み出すだけだ。
「外に出るのって、こんな簡単なことだったのね」
「けれど……」
「そう、戻れないわ」リナはそう言ってそっと目の前にある扉に触れた。
すると「ビビビッ!」と警告音がなり、合成された女性の音声が流れた。「警告です。あなたには、『全ての人間は自由で、その決断、行動を制限されるものではない』と言う原理原則により、部屋の外に出る権利が認められています。しかしながら、外部の汚染物質や病原体の部屋への侵入を防ぐため、再度部屋への立ち入りはできなくなります。それはあなたの生命を脅かす行為であり、推奨されません。繰り返します……」
リナはその威圧的な言葉に動きを失った。
けれども今さら決心を変えるには至らない。
リナはまるで何かの儀式を執り行うように神妙な面持ちで扉の左右にある安全装置を解除した。
「さあ、行くわ」リナはそう言うと、扉の中央にあるパネルに手のひらを押し付け、横にスライドさせた。
外の空気を中に入れないためか、部屋の空気が轟音とともに外に吐き出され続けた。
「警告です」再び合成された女性の音声が警告を発した。さっきよりも大きな声だった。「扉が開かれました。扉が開かれました。扉は十秒後に自動閉鎖されます。それまでに適切な措置を取ってください。繰り返します……」
リナは背後から吹き付ける強風と、警告の言葉に肩を強張らせながら、ソフィを抱きしめ、部屋の外へと踏み出していった。
「ラリーのところへ行くのね」
「はい。血液の浄化プログラムを受けてきます。何か不都合なことがあれば、ラリーを呼んでください」
「ええ、そうするわ。ありがとう」
「朝食は、ジェネレーターの2994番にセットしてあります。自分でできますね?」
「ええ、心配いらないわ」
「それから……」
「ターシャ、心配いらない。全部自分でできるわ」全部と言っても、部屋でのルーティンに複雑なものなど何もない。
「わかりました。それでは安心して行ってきます」
ターシャはリナがいつも眠るグラビティコントロールベッドに横たわり、目を閉じた。やがて装置から微かな振動音が鳴り、ターシャはラリーの元へ転送されていった。
「ターシャはあなたのことを心配していたわ」ソフィが言った。
「心配、と言うのは、心が不安になることね」
「ええ、そうよ」
アンドロイドに使われている人工の培養脳は、小さなネズミの脳と同じ程度の大きさだった。それにコンピューターを連動させ、知識は元より、判断基準、行動指針など複雑な思考を可能にしていた。けれども2000年代初頭から開発の始まった培養脳に、どの時点で意識が宿るのか、どの程度の思考や発達が可能なのか、600年以上もたった今でも、生命科学や心理学の分野で議論に終着点が見えなかった。
「私には、不安と言う心の動きがよくわからない」リナは言った。
「経験したことがないからよ」
「ソフィが今まで出会ってきた人たちは、不安を経験した?」
「ええ、とてもたくさん」
「私には、知らない心の動きがたくさんあるわ」
「それは仕方のないことよ」
「経験をしないから?」
「ええ」
「心を失ったと言っていいのかしら」
「間違った表現ではないと思うわ」
「では、心を失った人間と、心を得たアンドロイドと、どちらがたくさんの心を持っているのかしら」
「比べることなんてできないわ」
「では、ターシャはいったい、どんな心を持っているのかしら」
「それは、ターシャにしかわからない」
リナは落ち着かなかった。
これが不安と言うものなのだろうか、とふと思った。
部屋の外の夜の森は、いつもの通り闇に包まれ静まり返っている。
待ち望んだ夜のはずだった。
今夜、私はこの部屋を出るのだ。
風と言うものを感じてみたい。そこに含まれる匂いを嗅いでみたい。土に触れてみたい。森の向こうにあるものを見てみたい。
リナは生まれて初めて感じる不安をなんとか心から消し去ろうとした。
けれど不思議なことに、それを意識すればするほど、闇の中で明かりに照らされるように不安はその形を露わにしていった。
「部屋の外に出れば、もう中には戻れません」ターシャの言葉が思い出された。
この部屋に戻れないと、私はいったいどうなるのだろう。
ミルの話を思い出した。
飢えと寒さに苦しみ、何日も歩き続け、汚染された空気を吸い、未知の人工ウィルスに肺を侵されるかもしれない。
そこに「死」と言うものを想像してみた。
目を閉じ、その苦しみを想像してみた。
けれど、「恐怖」と言う心をうまく頭の中に作りだすことはできなかった。
きっとそれは、経験したことがないからだと思った。
「恐怖」とは、いったいどうすれば経験することができるのだろう。
この部屋の外に出れば、土に触れることができるように、「恐怖」もこの手の平に掬うことができるのだろうか。
そんなことを考えているうちに、不安は心の中から消えて行った。
「行くわ」リナはそう言って立ち上がり、ソフィを抱き上げた。
フィグツリーにアクセスし、部屋の構造を読み取り、床にあるハッチを探した。
「これね」リナはいつもターシャが食事を用意するジェネレーターの横の床にハッチを見つけた。
「いままでこんなものがあるなんて気づかなかった」けれどそれを見つけるのも、開けるのも、あっけないほど簡単なものだった。
明かりは自動で点いた。
小さな階段があり、そこはオレンジ色の壁の小さな部屋になってるようだった。
リナはまるで怯える自分を抱きしめるようにソフィを抱え、短い階段を一段ずつ慎重に下りた。
部屋に入るとハッチは締まり、空気が密閉され、気圧が変わったのか目の奥に締め付けられるような痛みを感じた。
「大きな気圧の変化を感知しました。圧平衡を行います」と頭の中にフィグツリーからの声が聞こえ、耳の奥の筋肉が動き、痛みが引いて行った。
目の前には両開きの扉があった。あとはこれを開けて、一歩踏み出すだけだ。
「外に出るのって、こんな簡単なことだったのね」
「けれど……」
「そう、戻れないわ」リナはそう言ってそっと目の前にある扉に触れた。
すると「ビビビッ!」と警告音がなり、合成された女性の音声が流れた。「警告です。あなたには、『全ての人間は自由で、その決断、行動を制限されるものではない』と言う原理原則により、部屋の外に出る権利が認められています。しかしながら、外部の汚染物質や病原体の部屋への侵入を防ぐため、再度部屋への立ち入りはできなくなります。それはあなたの生命を脅かす行為であり、推奨されません。繰り返します……」
リナはその威圧的な言葉に動きを失った。
けれども今さら決心を変えるには至らない。
リナはまるで何かの儀式を執り行うように神妙な面持ちで扉の左右にある安全装置を解除した。
「さあ、行くわ」リナはそう言うと、扉の中央にあるパネルに手のひらを押し付け、横にスライドさせた。
外の空気を中に入れないためか、部屋の空気が轟音とともに外に吐き出され続けた。
「警告です」再び合成された女性の音声が警告を発した。さっきよりも大きな声だった。「扉が開かれました。扉が開かれました。扉は十秒後に自動閉鎖されます。それまでに適切な措置を取ってください。繰り返します……」
リナは背後から吹き付ける強風と、警告の言葉に肩を強張らせながら、ソフィを抱きしめ、部屋の外へと踏み出していった。
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