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正人の話 其の伍
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空腹になると山を下りて人を襲った。
人の肉は若ければ若いほどうまかった。
けれど子供の肉は食わなかった。
それがなぜだか自分でも説明はできなかった。
ただ、子供の肉は食う気にはなれなかった。
己が何者であるか思い出すことができなかった。
記憶の片隅にその答えがあるような気がしたが、もはやそれを見つける術を持たなかった。
ある日街に出て物陰に隠れ、人の来るのを待った。
暗くはなっていたが、まだ日が沈んで時間が経っていないせいか、いくらか人の気配を感じることができた。
しばらくすると、遠くに足音がした。
耳で聞いたのではなく、腹の下に微かな振動を感じたのだ。
やがて匂いも届いた。
己が何者であるかと言う自らへの問いかけは、空腹の前に忘れ去られていった。
足音は耳にも届いた。
二つあった。
そのうちの一つは子供のようであった。
足音の主が視界に入った。
小さな女の子と、その母親のようであった。
母親は、不安そうな顔で空を一瞥し、小さな娘の手を引いて足早に近づいてきた。
俺は食うのをあきらめた。
母親を食っても良かったが、その後に残される子供の姿を想像すると、なんだか食欲が失せた。
俺は母娘が通り過ぎるのを待った。
次の獲物を待つことにした。
息を潜め、じっとただ待つことは、それほど苦になることでもなかった。
奇妙な着物を着た男が現れ、目の前を通り過ぎていった。
現れるまで、気配も匂いもしなかった。
いつどこから現れたのか、気味の悪い奴だと思った。
だが向こうもこちらに気付いた様子はない。
妙に頭のでかいやつだった。
五頭身ほどしかない。
そして顔が無かった。
目も鼻も口もなく……、いや、頭のてっぺんに大きな口だけが開いていた。
見たこともない化け物だった。
裸足で歩き、さっきの母娘のあとを追っているようだった。
しばらくすると、悲鳴が聞こえた。
化け物が母娘に追いつき、襲い掛かったのだろう。
気にすることではなかったが、なんだか癪にさわった。
母娘の逃げる足音が、微かな振動となって腹の下に感じた。
酷く嫌な気分だった。
足音が方向を変え、再びこちらに近づいてきた。
顔のない化け物はどうやら、母娘を食う前に、追いかけまわして遊んでいるようだった。
胸糞が悪い。
母娘は目の前を通り過ぎようとしたが、脚を絡め転んでしまった。
それにつられるようにして娘の方も転び、泣き声をあげた。
母親は怯え、もう動くことも悲鳴を上げることもできない。
化け物は頭の上に開いた巨大な口を母娘に見せつけるようにして大きく開けた。
母親は娘を抱きしめ、目を閉じた。
その顔は、何かにすがっているようにも見えたし、祈っているようにも見えたし、あきらめているようにも見えた。
化け物は、母娘もろとも一飲みにしようかとでもいうように、さらに口を大きく広げ飛び掛かった。
その瞬間、自分でもなぜだかわからないのだが、俺は母娘の前に飛び出し、その化け物を頭で打ち払った。
化け物は建物の壁に激突し、「ぐへえ……」と言って口を閉じた。
首がねじ曲がり、力が入らず、頭を持ち上げることができない様子だった。
へたへたと歩きながら、何度も「ぐへえ……」「ぐへえ……」と言って同じところをぐるぐると回り、やがてばったりと倒れて手足をばたつかせると、そのまま動かなくなって消えてしまった。
今までずっと地を這っていたので気づかなかったが、俺はかなり巨大になっていた。
頭をもたげると、家の二階の高さほどになった。
振り向くと、母娘はやはりまだ倒れたまま怯えたような顔をしていた。
だが今怯えているのは、さっきの化け物のせいではなく、今度は俺がいるからだとわかった。
「そりゃそうだよな」俺は言った。だが言葉の意味がわからなかった。「そりゃそうだよな」の意味がわからなかった。意味がわからないのに、どうして俺は「そりゃそうだよな」などと言ったのかわからなかった。心の中に何度も「そりゃそうだよな」と繰り返してみた。「そりゃそうだよな」「そりゃそうだよな」「そりゃそうだよな」「そりゃそうだよな……」それは本当に自分が言ったことなのかどうかすらわからなくなってきた。
まあ、どうでもいいことだった。
俺は母娘に背を向け、再び物陰を探して地を這った。
俺は母娘を助けたかったのだろうか。
なぜだ……。
自分でもなぜだかわからない。
けれどその理由を知ることができれば、俺は忘れてしまった何かを思い出せるような気がした。
人の肉は若ければ若いほどうまかった。
けれど子供の肉は食わなかった。
それがなぜだか自分でも説明はできなかった。
ただ、子供の肉は食う気にはなれなかった。
己が何者であるか思い出すことができなかった。
記憶の片隅にその答えがあるような気がしたが、もはやそれを見つける術を持たなかった。
ある日街に出て物陰に隠れ、人の来るのを待った。
暗くはなっていたが、まだ日が沈んで時間が経っていないせいか、いくらか人の気配を感じることができた。
しばらくすると、遠くに足音がした。
耳で聞いたのではなく、腹の下に微かな振動を感じたのだ。
やがて匂いも届いた。
己が何者であるかと言う自らへの問いかけは、空腹の前に忘れ去られていった。
足音は耳にも届いた。
二つあった。
そのうちの一つは子供のようであった。
足音の主が視界に入った。
小さな女の子と、その母親のようであった。
母親は、不安そうな顔で空を一瞥し、小さな娘の手を引いて足早に近づいてきた。
俺は食うのをあきらめた。
母親を食っても良かったが、その後に残される子供の姿を想像すると、なんだか食欲が失せた。
俺は母娘が通り過ぎるのを待った。
次の獲物を待つことにした。
息を潜め、じっとただ待つことは、それほど苦になることでもなかった。
奇妙な着物を着た男が現れ、目の前を通り過ぎていった。
現れるまで、気配も匂いもしなかった。
いつどこから現れたのか、気味の悪い奴だと思った。
だが向こうもこちらに気付いた様子はない。
妙に頭のでかいやつだった。
五頭身ほどしかない。
そして顔が無かった。
目も鼻も口もなく……、いや、頭のてっぺんに大きな口だけが開いていた。
見たこともない化け物だった。
裸足で歩き、さっきの母娘のあとを追っているようだった。
しばらくすると、悲鳴が聞こえた。
化け物が母娘に追いつき、襲い掛かったのだろう。
気にすることではなかったが、なんだか癪にさわった。
母娘の逃げる足音が、微かな振動となって腹の下に感じた。
酷く嫌な気分だった。
足音が方向を変え、再びこちらに近づいてきた。
顔のない化け物はどうやら、母娘を食う前に、追いかけまわして遊んでいるようだった。
胸糞が悪い。
母娘は目の前を通り過ぎようとしたが、脚を絡め転んでしまった。
それにつられるようにして娘の方も転び、泣き声をあげた。
母親は怯え、もう動くことも悲鳴を上げることもできない。
化け物は頭の上に開いた巨大な口を母娘に見せつけるようにして大きく開けた。
母親は娘を抱きしめ、目を閉じた。
その顔は、何かにすがっているようにも見えたし、祈っているようにも見えたし、あきらめているようにも見えた。
化け物は、母娘もろとも一飲みにしようかとでもいうように、さらに口を大きく広げ飛び掛かった。
その瞬間、自分でもなぜだかわからないのだが、俺は母娘の前に飛び出し、その化け物を頭で打ち払った。
化け物は建物の壁に激突し、「ぐへえ……」と言って口を閉じた。
首がねじ曲がり、力が入らず、頭を持ち上げることができない様子だった。
へたへたと歩きながら、何度も「ぐへえ……」「ぐへえ……」と言って同じところをぐるぐると回り、やがてばったりと倒れて手足をばたつかせると、そのまま動かなくなって消えてしまった。
今までずっと地を這っていたので気づかなかったが、俺はかなり巨大になっていた。
頭をもたげると、家の二階の高さほどになった。
振り向くと、母娘はやはりまだ倒れたまま怯えたような顔をしていた。
だが今怯えているのは、さっきの化け物のせいではなく、今度は俺がいるからだとわかった。
「そりゃそうだよな」俺は言った。だが言葉の意味がわからなかった。「そりゃそうだよな」の意味がわからなかった。意味がわからないのに、どうして俺は「そりゃそうだよな」などと言ったのかわからなかった。心の中に何度も「そりゃそうだよな」と繰り返してみた。「そりゃそうだよな」「そりゃそうだよな」「そりゃそうだよな」「そりゃそうだよな……」それは本当に自分が言ったことなのかどうかすらわからなくなってきた。
まあ、どうでもいいことだった。
俺は母娘に背を向け、再び物陰を探して地を這った。
俺は母娘を助けたかったのだろうか。
なぜだ……。
自分でもなぜだかわからない。
けれどその理由を知ることができれば、俺は忘れてしまった何かを思い出せるような気がした。
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