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第3章

エンデュミオーン

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 太陽神ヘーリオスが御する黄金の二輪車が水平線の下へと駆け去り、夜が来た。  
  スファクテリア島の戦士たちは、高台に築き上げた砦に入り、負傷者の手当てや、アテナイ兵の死体から奪った武具の点検に余念がない。  

  見張りを命じられた一部の戦士たち――特に遠目が利き、また夜目も利く男たちだ――は、再び高台に登り、星明かりに照らされる海上にアテナイ艦隊が投錨しているのを見て取っていた。  
  アテナイ艦隊はスファクテリア島の周囲を点々と取り囲んでおり、島から脱出しようとする者があれば、必ず捕らえずにはおかない構えだ。 

 「まあ、あとは、本国に任せるしかないだろうな」  

  フェイディアスが、小さな焚火に枯れ枝を放り込みながら言った。 
  焚火の周囲に集まった男たちの顔が、一斉にフェイディアスのほうを向く。 
  彼は肩をすくめた。 

 「もちろん、島を取り囲んでいるアテナイの連中が明日の朝日と共に上陸し、決戦を挑んでくるというなら、話は別だが」 

 「おお、そのほうが話がはやい!」 

 「来るなら来い。いつでも相手になってやる!」  

  拳を固め、今にも武器を取らんばかりの若い戦士たちに、まあ落ち着け、と手のひらを見せておいて、フェイディアスは続けた。 

 「アテナイ人どもは、陸上で俺たちに戦いを挑むほど馬鹿ではない。 
  ちっぽけな島であっても、ともかく、ここが陸上であることに違いはないからな。
  おまけに、島じゅうが森に覆われているおかげで、アテナイの連中は、俺たちがどこにいるかさえ分からんのだ。
  そんなところへのこのこ上陸してくるほど、奴らの頭も腐ってはいまい。  
  奴らはおそらく、俺たちをこの島に閉じ込め、飢えと渇きで苦しめるつもりだろう。
  そうして、俺たちを人質に、ラケダイモンと交渉する気だ――」 

 「人質だと!?」  

  衝撃を受けたように目を見合わせる戦士たちに、フェイディアスは頷く。 

 「残念ながら、今の状況では、そうと言わざるを得んな。  
  日暮れ前に物見の報告が入ったのを皆も聞いていたと思うが、ピュロスの砦を攻撃していた陸軍は、いったん攻撃を中止し、陣を引いたそうだ。  
  同盟艦隊が壊滅し、俺たちが島に閉じ込められたことで、彼らとしても手の出しようがなくなってしまったのだな。  
  ――だが、手詰まりなのは、アテナイの連中も同じだ。  
  奴らは、ラケダイモンとの陸戦を、徹底して避けようとしている。 
  だから、ピュロスの砦から討って出ることもできないし、この島に上陸してくることもできないのだ」 

 「どちらも、身動きならない状態ってわけですね」  

  熊のように図体のでかい若者が、唸るように言う。 

 「だが、屈辱だな。この俺たちが、人質ですか。こうなったら、いっそ――」 

 「逸るな」  

  若者のフィロメイラクスが、窘めるようにその肩を叩いた。 

 「こちらから討って出る、か? それこそ、アテナイの連中の思う壺だ。 
  癪に障るが、海に出れば、そこは奴らの領域だ。海戦では、我らに勝ち目はない」 

 「勝ち目など!」  

  若者は興奮して立ち上がり、唾を飛ばして力説した。 

 「俺たちは、こんな屈辱を甘んじて受けることに慣れてはいません!  
  たとえ勝ち目のない戦いであっても、名誉のために――」 

 「他の道があるかもしれぬ時に、それを探しもせず、急いで破滅の道に飛び込む奴は馬鹿だぞ、パルティオス」  

  若者のフィロメイラクスが怒鳴りつけるよりも早く、フェイディアスが穏やかに言った。 

 「我らが勝ち目のない戦いに挑むのは、それより他に道のない時だ。
  それは……まだ、先のこと。  
  今回の戦争は、ちょっとばかり長く続き過ぎた。そろそろ潮時だ。
  これが、休戦の良いきっかけになるかもしれん」  

  うん、と自分の言葉に自分で頷いておいて、フェイディアスは、まだありありと不満を顔に浮かべている若者ににやりと笑いかけた。 

 「本国がアテナイとの交渉をうまく進めてくれれば、このちっぽけな島ともおさらばだ。今回の屈辱は、しっかりと心に留めておいて、しかるべき時に十倍、百倍にして返してやればいい! 
  こちらとしても、どうせ戦うなら、こんな木だらけで狭苦しい島の上よりも、もっとのびのびと武器を振るえる場所のほうがずっといいからな。そうは思わんか?」  

  フェイディアスのおどけた口振りに、不満げだった若者の表情も、ようやく和らいだ。 

 「……ところで」  

  緊張しながら成り行きを見守っていた若者のフィロメイラクスが、ほっとしたように話題を変える。 

 「隊長殿は?」 

 「ああ――」  

  そこへ、従卒たちが革袋に入れた葡萄酒を運んで来たので、会話は一時中断した。  
  彼らは革袋の中身を順に回し飲みし、順に、おえっという顔をした。 
  塩分まじりの泉の水で割ったためにうっすらと塩辛い葡萄酒は、たとえ渇き死にする直前まで追い込まれたとしても、美味いとは思えそうにない代物だ。 
  だが、彼らは黙って最後まで飲み干した。 
  アテナイの――ラケダイモン人に言わせれば気違いじみた――美食家たちには想像もつかないことだったが、どんな味であっても、飲めるものなら飲み、食えるものなら食うのがラケダイモン人の流儀だ。 

 「……不味いな」 

 「吐きそうだ」  

  だが、一応、正直な感想だけは述べる。 

 「そう、隊長殿の話だが」  

  フェイディアスが、まったく何の脈絡もなく話を戻した。 

 「隊長殿は今、美少年の――つまり、クレイトスの見舞いに行っておられるようだ」 

 「クレイトス!」  

  周囲の戦士たちが顔を輝かせ、手を叩く、 

 「彼の手柄は大きかった。彼のおかげで、我らの艦を奪われずに済んだのだ」 

 「艦をそっくりそのまま持ち逃げされるなど《獅子隊》の恥だからな!」 

 「アテナイの艦隊の運動を見て、敵の狙いを、いちはやく見抜いたということだ。さすがは《半神》のメイラクスだ!」 

 「……で、大丈夫だったのか? あいつは」  

  気遣いの言葉が一番後回しになるあたりが、揃いも揃って人並み以上に頑健なつわもの揃いの彼ららしい。 

 「ああ。パイアキスが手当てをした。今も、看護についている」  

  フェイディアスの言葉に、ああなるほど、道理で、と男たちが頷く。  
  普段は光と影のように常に共にいるはずのふたりだが、今夜、焚火のそばにフェイディアスひとりしかいなかったので、皆、内心で訝しんでいたのだ。 

 「腹の傷は、内臓まで達してはいないそうだ。あいつが倒れたのは、身体に熱がこもったせいだ。明日には本調子に戻るだろう」  

  一同が、ほっとしたように顔を見合わせる。  
  だが、フェイディアスは眉根を寄せ、首を伸ばして様子をうかがうような動きをした。 

 「それにしても、遅いな、あいつ……」 

 「あいつ? 誰のことだ?」 

 「パイアキスの奴だ。気配りの行き届く男だから、まさか、隊長殿が美少年とふたりきりになるのを邪魔するような野暮は、するはずがないと思うんだが――」 

  男たちは、再び顔を見合わせた。  
  今度は、全員、妙に楽しそうな目つきをしている。 

 「つまり……なにか」 

 「とうとう、あれか?」 

 「おそらくは、な」  

  重々しく腕組みをして、フェイディアス。 

 「クレイトスを追ったときの、隊長殿の顔を見ただろう?  
  隊長殿は無口な方だから、これまでは、何も仰らなかったようだが―― 
 あのときの表情にこそ、真の思いが表れていたと俺は思う。 
  それを今夜、伝えるのでなければ、いつ伝えるというんだ?」 

 「隊長殿のほうから、その、何だ、そういうふうに行動なさるとすれば、願ってもないことじゃないか。
  クレイトスは、ここのところ、ずっと思い悩んでいるようだったからな」  

  別の男が言う。 

 「自分は隊長殿のメイラクスに相応しくない、とか何とか言ってな。
  俺は、逆に、隊長殿のメイラクスが務まるのはあいつしかいないと思うんだが」 

 「こういうのは当人たちよりも、傍から冷静に見ているほうが、よく分かるんだよなあ」  

  しみじみと頷きあう男たち。 

 「そうだ。だが、傍からいくら言ったところで、悩んでいる当人にとっては、気を引き立てようとして励ましているようにしか聞こえんものだからな。 
  あいつが欲しがっているのは、ただ、隊長の言葉だけなんだ……」  

  大真面目にそう言ってしまってから、フェイディアスは自分の言葉に全身がむず痒くなり、うおう、と唸りながら身をよじった。 
  だが、一同はまったく同感とばかりに静かに炎を見つめ、揃って、ふうう、と大きな溜め息をつく。 
  パルティオスと呼ばれた先ほどの若者が感じ入ったように深く頷き、荘重な調子でしめくくった。 

 「愛、ですな……」 



  絶えることのない波の音が、高くなり、低くなり、響き続けている。 
  暗い海原に点々と見える灯りは、島を囲んで投錨するアテナイ艦隊の舳先に掲げられたものだ。 
  先ほどまでは物見の戦士たちがここにいたのだが、レオニダスがふらりと姿をあらわし、しばらくひとりになりたい、と告げると、顔を見合わせ、静かに立ち去っていった。  

  月もない夜の中にひとり立ち尽くし、波の音にただ耳を傾けていると、じきに、自分が立っているのか横たわっているのかさえも定かではなくなってくる。 
  やがて、全身の輪郭が曖昧になってゆくような――己自身の存在が、無限の波音と闇の中に溶け込み、全て一体となってゆくかのような、奇妙な感覚に支配される―― 

「レオニダスよ」  

  不意に背後から呼びかけられ、立ち尽くしていたレオニダスは、振り向きざまに膝をついた。  
  星明かりの下で、相手の姿はぼんやりとした輪郭程度しか見分けることができなかったが、声で判別がついたのだ。 

 「エピタダス将軍……」 

 「こんなところで、《半神》が自ら、不寝番か?」  

  今ふたりが立っている場所は、まさに今日、彼らが同盟海軍の壊滅を見届けることになった、あの高台だった。  
  この暗さである。万が一にも足を踏み外せば、命はない。  
  レオニダスは、小さくかぶりを振った。 

 「その名は、返上しなければ」  

  あの時、自分自身がとった行動が、レオニダスには信じられなかった。  
  クレイトスを追って駆け出した瞬間の記憶が、彼にはなかった。 
  何かを考え、判断しての動きではなかったのだ。 
  まるで、獣が本能に導かれるように。 

 「あのとき……」  

  レオニダスは言葉の続きを飲み込み、唇を噛んだ。  
  クレイトスにはやや遅れをとったものの、アテナイ艦の運動を見て、敵が島の入江に侵入し、こちらの三段櫂船を奪うつもりであることにレオニダスも気付いていた。  
  そうだ、気付いていた――  
  にも関わらず、それを仲間たちに告げることも、将軍に報告することもせずに、彼はひたすら、クレイトスの背中を追った。  

  斜面を駆け下りてゆくクレイトスの足はおそろしく速かった。 
  まるでヘルメス神の化身が駆けてゆくようだった。 
  レオニダスはどうしても追い付くことができず、その背が木々のあいだをだんだんと遠ざかってゆくのを見て、気も狂わんばかりになった。 

 (クレイトス――) 

  次第に小さくなるその背中に、初めて顔を合わせた頃の細っこい少年の面影はどこにもなかった。 
  深紅のマントを翻し、翼ある足で駆けるラケダイモンの戦士がそこにいた。 
  焼けつくように肺が痛み、喉の奥に血の味がした。 
  呼ぶ声は出ず、そのかわりに、胸の内で百万回も繰り返し響き続ける叫びがあった。 

 (クレイトス、俺は、お前を――) 

 「失いたくなかったのじゃろう?」  

  不意にそう告げられて、レオニダスは百年の眠りから覚めた者のように瞬きをし、顔を上げた。  
  声の主、エピタダス将軍の表情は、闇に隠されて見えない。 

 「お前があんな顔をするのを、初めて見た。なかなか人間らしいところもあるではないか」  

  揶揄めいた言葉だったが、声の調子を聞く限りでは、真面目に感心しているようだ。 

 「それだけ、あの若者が大切なのじゃろう。なぜ、今、行ってやらぬ?」  

  問われて、レオニダスは、ただ木偶の坊のように将軍の姿を見上げているだけだった。  
  波の音ばかりが、終わりを知らず響く。  
  思考が空転していた。 

  今、クレイトスと顔を合わせたとして、何を言えばいいというのだろう?  
  よくアテナイ軍の動きを読んだ、と誉めるべきだろうか?  
  なぜ勝手な行動を取った、と叱責するべきだろうか?  

  だが、そのどちらも、最も大切なことではない、という気がした。  
  最も大切なことは、決して、伝えるべきではなかった―― 

「レオニダスよ」  

  長すぎる沈黙の後、頭上から降ってきたエピタダス将軍の声には、鋭さが混じっていた。 

 「お前は、腰抜けか? それこそ《半神》の名に恥じるとは思わんのか?  
  こんなときに側にいてやらんで、何がフィロメイラクスか!  
  レオニダスよ、お前がそのような意気地では、クレイトスが哀れというものじゃ。  
  わしが若い頃は、お前のように愛人メイラクスを寂しがらせたりなぞ、決してせなんだわい。  
  いいや、今でも、老いたりとはいえ、わしの方がまだ甲斐性がある。  
  お前に、それだけの腹がないのならば――あの若者、わしが貰い受けるが、それでも良いか?」  

  レオニダスは、目を見開いた。 

 (渡さない)  

  声にならない声が、はっきりと胸の中で響いた。  
  同時に、我知らず、レオニダスは立ち上がっていた。 
  まるで、将軍に挑みかかり、威圧するように。 

 「そう……それが、お前の真情じゃ」  

  微かに笑みを含んだエピタダス将軍の声は、すでに元の穏やかさを取り戻している。  
  かまをかけられたのだ、と悟ったレオニダスは愕然としたが、不思議と怒りはなかった。  
  先ほどの一瞬、澄み切った水面に映して見るように、自分の心がはっきりと見えた。  

  もしもエピタダス将軍が、本気でクレイトスを奪おうとしたならば―― 
 自分は、この人に剣を向けただろうか。  

  きっと、そうしただろう。 
  今ならば、その確信を持つことができた。 

 (俺は、クレイトスを……渡したくない。他の、誰にも) 

 「レオニダスよ」  

  エピタダス将軍の手が伸びてきて、強く肩を掴み、叩く。 

 「心は、伝えなければ、伝わらぬ。  
  我らはラケダイモンの戦士。いつ戦いに果ててもおかしくはない。  
  なればこそ、短い生のうちで通い合う絆は、いっそう貴いものじゃ……」  

  将軍が力強く頷いたのが、気配で分かった。 

 「ゆけ」  

  軽く肩を押されて、将軍の手が離れる。  
  レオニダスは拳を胸に当て、その場で踵を返した。  
  暗い坂を一歩ずつ下りてゆきながら、まるで、夢を見ているような気がした。  
  下りてゆく。  
  今から、クレイトスのもとへ。 
  そして―― 



 建造中の砦には、まだ屋根のある箇所のほうが少なかった。  
  個室などという気の利いたものも当然存在しておらず、防壁の内側で野営をしていると言ったほうがあたっている。 
  負傷兵たちでさえも、星空の下で地面にマントを敷き、雑魚寝で休んでいる状態だ。  

  クレイトスは、少し離れた物陰に寝かされて、静かな寝息を立てていた。  
  小さな焚火のあかりに照らされたその寝顔をしばらく眺めてから、パイアキスは、ふううと大きく息を吐き、手にした器を地面に置いた。 
  器の底にわずかに残る茶色の液体は、神経を休める作用のある薬草を煎じた汁の残りで、痛みの強い負傷者たちに飲ませて回ったものだ。 

  パイアキスは立ち上がり、ぐっと腰を反らし、肩を回した。  
  目覚めたクレイトスを落ち着かせ、手当てをするのは大仕事だった。  
  気を失っているあいだはよかったのだが、意識を取り戻してからというもの、彼は涙を流して自分を責め、命令も待たずに勝手な行動をとった自分はラケダイモンの戦士である資格はないとさえ言い出して、機転をきかせたパイアキスが武器を遠ざけておかなかったら自死を選びかねない剣幕だった。  

  取り乱すクレイトスを宥め力づけようとして、周囲にいた負傷兵たちが口々に励ましの言葉をかけることが、ますます事態を複雑にした。  
  彼らの賞讃と激励は、今のクレイトスにとって神経を切り刻む刃に他ならないようだった。  

  結局、集まってきた男たちには丁寧かつ強引にお引き取り願い、パイアキスはクレイトスを少し離れた場所へ連れて行って、葡萄酒に混ぜた濃いめの薬草の煎じ汁を飲ませ――  
  ようやく落ち着いてきたクレイトスが眠りに落ちたのが、つい先程のことだ。  

  パイアキスはもう一度膝をついて、クレイトスの額に載せてある濡れた布の具合をなおすと、また立ち上がり、腰に手を当て、ゆっくりと首を回した。 
  先ほどまで長く屈んだ姿勢でいたために疲労がたまった筋が心地好く伸びるのが感じられる。  

  そして大きく仰け反った姿勢になったとき、すぐ側に誰かが立っていることに気付いたパイアキスは、慌てて身構えようとして、もう少しで首の筋を違えるところだった。 

 「! ……隊長殿……」  

  上げかけた叫びを噛み殺し、ひそめた声で相手を呼んだのは、束の間の安らぎの中にいるクレイトスや戦士たちの眠りを妨げないようにという配慮のためだ。 
  だが、暗がりの中から現れたレオニダスは、パイアキスの方を見ていないようだった。  
  レオニダスの視線が、横たわるクレイトスに向けられていることを見て取ったパイアキスは、常々フェイディアスが褒め称えている細やかな心配りを即座に発揮し、 

 「でしたら、私はこれで」  

  と、何が「でしたら」なのか全く分からないが、とにかく笑顔でそう断言すると、レオニダスが何か言う前に、すばやく姿を消した。 

 「………………」  

  物言いたげにパイアキスの方へと差し出しかけていた手を、諦めて下ろし、レオニダスはその場に立ち尽くした。  

  額に布を載せ、腹に包帯を巻かれたクレイトスは、それ以外はほとんど裸同然の姿でいた。 
  あまりにも無防備な姿に込み上げるものがあったが、それを押さえ込み、目をそらす。  

  クレイトスは今眠っているかもしれぬという、当然予想してしかるべき事態を想定していなかったレオニダスは、既に、どうすればいいのか分からなくなっていた。  
  せっかく眠っているものを起こして話しかけるのは気が引ける。 
  いや、そもそも自分は一体何を言おうとして、ここまで来たのだったか……? 
  出直そうといったん踵を返したレオニダスは、だが、そこで再び立ち止まった。 

 (俺は……恐れている、のか)  

  クレイトスと――自分自身の心と、向き合うことを恐れているのだ。  
  怯えて背を向けるなど、ラケダイモンの戦士にあるまじきことだ。 
  それに……ここで引き返してしまえば、明日からも今までと何一つ変わることなく、何一つ前進することなく時が過ぎてゆくであろうことが容易に想像できた。 
  それはできない。  
  もう、できない――  

  レオニダスはゆっくりと向き直ると、クレイトスの方へと三歩、近付いた。 
  そこでまた立ち止まる。  
  わざと足音を消さなかったというのに、クレイトスが目を覚ます様子はなかった。  
  せめて目覚めてくれれば、何なりと――いや、何とか、何か、何らかの――話の運びようがあるというのに。 
  これではまるで、寝込みを襲うようなものではないか。 

 (……駄目だ。やはり、明日……明日の朝、夜明けに)  

  そう決めて立ち去りかけた、その時、クレイトスが低く呻いて身動きをした。 
  彫像のように動きを止め、気配を殺してレオニダスが見やると、クレイトスは何事かを苦しげに呟きながら首を振り、片手をわずかに動かしていたが、やがて、再び深い眠りの淵へと沈んでいった。  

  レオニダスは足音を殺し、クレイトスの傍らに歩み寄ると、その額から落ちた布を拾い、そっと元の通りに載せてやった。 

 (明日……夜が、明けたら)  

  そう思いながら、レオニダスは、間近にあるクレイトスの顔から視線が離せなくなっていた。
 立ち上がり、その場を去るつもりが、身体が動かなかった。  

  踊るように揺らめく小さな炎に照らされて、クレイトスはあまりにも美しく、その肌はかすかに輝くように見えた。 
  わずかに眉を寄せ、唇を開いたその表情は、見る者から抑制を奪い去るのに充分だった。 

 (エンデュミオーン……)  

  伝説に、その寝姿が月の女神セレーネーの心を奪ったと語られる美貌の青年の名をレオニダスは思い出した。 
  今、己の胸を焦がすこの感情は、女神でさえも抗うことのかなわなかったそれと、きっと同じものなのだろう。  

  いや、違う。 
  感情などと、そんな、生易しい言葉で名付けられるものではない――  

  レオニダスは手を伸ばした。 
  蜜や炎に引き寄せられる虫のように、彼はどうしようもなく、クレイトスに惹きつけられていた。 
  その魂に。その器である美しい肉体に。  
  もはや理性は彼の助けとなってはくれなかった。  

  指先がクレイトスの唇に触れ、そのやわらかさを感じた瞬間に、レオニダスは衝動的に若者に覆い被さってその肩を押さえつけ、口づけをした。  
  クレイトスが苦しげに呻いて、目を覚ます。 
  それを感じ取ったレオニダスは、反射的に抗う腕を捕らえて地面に縫い止め、より深くその口を塞いで声を奪い、全身で乗りかかって易々と身動きを封じた。 

  一体これまで何を躊躇っていたのかとおかしくなるほどに、簡単だった。 
  まるで、大人の獅子が仔牛を打ち倒すようなものだ。 
  後は、本能のままに征服し、喰らい尽くすだけ―― 
 だが、一瞬混乱したように焦点を失った青い目が自分の顔をとらえていっぱいに見開かれるのを見たとき、レオニダスの動きは止まった。 

  同じだ。 
  あの時と、同じ。 
  あの時の自分と、同じだ――  

  絶望したようなアンテオンの顔が脳裏に浮かび、消えていった。  
  レオニダスは跳ね起き、信じられないというように首を振りながら後ずさった。  
  見つめてくるクレイトスの青い目が、恐ろしかった。 

 「すまない……」  

  その声は、果たして、声になったかどうか。 

 「お待ち下さい!」  

  身を翻し、駆け出そうとしたレオニダスは、クレイトスの悲鳴のような声に立ち止まった。 

 「レオニダス様……」  

  背中でその声を聞きながら、レオニダスは、このまま立ち去るべきだと考えていた。  
  何ひとつ、説明することができない。釈明もできない。  
  だが、それでもなお、彼の足をその場に留めるものがあった。  
  背中越しに、クレイトスの擦れた声が聞こえる。 

 「あの……あのとき、御命令も待たず……どうか、お許し下さい」  

  一瞬、クレイトスが何のことを言っているのか理解できなかったのだが、すぐに思い出した。 

 「ああ」  

  もう、何も考えられない。 

 「お前は、よくやった」 

 「あの」 

 「今夜は、よく眠れ」  

  自分は一体、何を言っているのだろうか?  
  これ以上、ここにいるべきではない。  
  レオニダスは振り向こうとして、クレイトスの顔を見る勇気を持てず、わずかに首を捻っただけで呟いた。 

 「すまなかった。忘れてくれ」 

 「レオニダス様!」  

  クレイトスの声には、血を吐くような響きがあった。 

 「やはり……やはり、僕では……不足、なのでしょうか?」  

  レオニダスは、ゆっくりと振り返った。  
  身を起こしたクレイトスの青い目が、食い入るようにまっすぐに見つめてくる。  

  彼は、泣いていた。  
  身体の両側できつく拳を固め、ぼろぼろと涙を零してこちらを見上げていた。  
  レオニダスは、口を半分開いたまま、ぽかんとした。  
  遠い記憶の中から、風の音が聞こえた。  
  ずっと前に、一度、こんなことがあったような気がした―― 

「も、申し訳、ありません」  

  クレイトスはすぐに顔を背けると、きつく目を瞑り、流れ落ちる涙を手で拭った。 

  先ほどの一瞬は、強すぎる望みが見せた、夢だったのだろうか? 
  あまりにも遠い《半神》の背中を追って、ここまで来た。  
  隣にいても遥かに隔たっているような気がして、自分には、果たしてここにいる意味があるのか、レオニダス様はそれを望んでおられるのだろうかと、ずっと心許なかった。 

 (やはり……レオニダス様にとって、僕は)  

  ふと、頬にあたたかいものが触れた。  
  目を開いたクレイトスの頬に、レオニダスが指の背を当て、涙を拭っていた。  

  青い空が見えて、風の音が聞こえたような気がした。  
  そうだ、ずっと前に、一度、こんなことがあった。 

 「クレイトス」  

  初めて、この名を呼ばれた時――  
  あの時はすぐに離れていった手が、今は、そっと頬に当てられ、耳のそばの髪を撫でた。 
 《半神》の無表情な眼差しが見下ろしてくる。 
  それがすぐに視界いっぱいに広がって、唇が押し付けられる感触と共にクレイトスは目を閉じた。
  背に腕が回され、強く引き寄せられて、脇腹の傷が痛んだがそんなことは何でもなかった。  
  耳元で、声がする。 

 「クレイトス、俺は……あの日から、ずっと」 

  もしもこれが夢であるなら、目覚めるよりも、死を選びたいと感じた。 
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破天荒な将軍 吉宗。民を導く将軍となれるのか ――― 将軍?捨て子? 貴公子として生まれ、捨て子として道に捨てられた。 その暮らしは長く続かない。兄の不審死。 呼び戻された吉宗は陰謀に巻き込まれ将軍位争いの旗頭に担ぎ上げられていく。 次第に明らかになる不審死の謎。 運命に導かれるようになりあがる吉宗。 将軍となった吉宗が隅田川にさくらを植えたのはなぜだろうか。 ※※ 暴れん坊将軍として有名な徳川吉宗。 低迷していた徳川幕府に再び力を持たせた。 民の味方とも呼ばれ人気を博した将軍でもある。 徳川家の序列でいくと、徳川宗家、尾張家、紀州家と三番目の家柄で四男坊。 本来ならば将軍どころか実家の家督も継げないはずの人生。 数奇な運命に付きまとわれ将軍になってしまった吉宗は何を思う。 本人の意思とはかけ離れた人生、権力の頂点に立つのは幸運か不運なのか…… 突拍子もない政策や独創的な人事制度。かの有名なお庭番衆も彼が作った役職だ。 そして御三家を模倣した御三卿を作る。 決して旧来の物を破壊するだけではなかった。その効用を充分理解して変化させるのだ。 彼は前例主義に凝り固まった重臣や役人たちを相手取り、旧来の慣習を打ち破った。 そして独自の政策や改革を断行した。 いきなり有能な人間にはなれない。彼は失敗も多く完全無欠ではなかったのは歴史が証明している。 破天荒でありながら有能な将軍である徳川吉宗が、どうしてそのような将軍になったのか。 おそらく将軍に至るまでの若き日々の経験が彼を育てたのだろう。 その辺りを深堀して、将軍になる前の半生にスポットを当てたのがこの作品です。 本作品は、第9回歴史・時代小説大賞の参加作です。 投票やお気に入り追加をして頂けますと幸いです。

西涼女侠伝

水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超  舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。  役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。  家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。  ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。  荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。  主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。  三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)  涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。

蒼雷の艦隊

和蘭芹わこ
歴史・時代
第五回歴史時代小説大賞に応募しています。 よろしければ、お気に入り登録と投票是非宜しくお願いします。 一九四二年、三月二日。 スラバヤ沖海戦中に、英国の軍兵四二二人が、駆逐艦『雷』によって救助され、その命を助けられた。 雷艦長、その名は「工藤俊作」。 身長一八八センチの大柄な身体……ではなく、その姿は一三○センチにも満たない身体であった。 これ程までに小さな身体で、一体どういう風に指示を送ったのか。 これは、史実とは少し違う、そんな小さな艦長の物語。

ステンカ・ラージン 【軍神マルスの娘と呼ばれた女 5】 ―コサックを殲滅せよ!―

kei
歴史・時代
帝国は北の野蛮人の一部族「シビル族」と同盟を結んだ。同時に国境を越えて前進基地を設け陸軍の一部隊を常駐。同じく並行して進められた北の地の探索行に一個中隊からなる探索隊を派遣することとなった。  だが、その100名からなる探索隊が、消息を絶った。 急遽陸軍は第二次探索隊を編成、第一次探索隊の捜索と救助に向かわせる。 「アイゼネス・クロイツの英雄」「軍神マルスの娘」ヤヨイもまた、第二次探索隊を率い北の野蛮人の地奥深くに赴く。

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