古代スパルタ戦記 スパルティアタイ

キュノ・アウローラ

文字の大きさ
7 / 43
第1章

戦士たちの休息

しおりを挟む
 最も暑くなる真昼には、休憩となった。

 「あの方が生きながらにして《半神》と呼ばれる理由が、よーく分かったよ」

  フェイディアスは独り言のように呟き、小川の水を両手ですくって頭からかぶった。
  右の二の腕に、くっきりと青痣がついている。
  レオニダスに打たれたのだ。

  手加減された、と、彼ははっきり悟っていた。
  本気でやられていたら、間違いなく骨が砕けていただろう。

 「ほんとうに誰ひとりとして敵わんとはな、まったく! 稲妻のごとき剣だった! ラケダイモン人は、あの方が味方であることを神々に感謝しなければならんな」

 「フェイディアス、これを」

  彼の愛人メイラクスであるパイアキスがやってきて、布を差し出した。
  消炎効果のある薬草をすり潰した軟膏が塗りつけてある。
  フェイディアスは黙って腕を差し出し、布を巻いてもらった。
  彼よりも四歳年下のパイアキスは模範的な主婦のように気配りが行き届く性格で、豪放磊落なフェイディアスとは正反対と言ってよかった。

 「おまえは?」

  問うと、パイアキスは黙って、腿に巻いた布を指した。
  彼も、やはり新しい指揮官にはまったく歯が立たなかったのだ。

 「何だ。俺が手当てをしてやろうと思っていたのに」

 「あなたに、手当てをする、なんて発想があるとは思えませんね」

  パイアキスは苦笑した。
  かつて戦場で、二時間以上も最前線で槍と剣とを振り回して敵を斬りまくり、ようやく戦闘が終結してみれば、背中に矢が二本も刺さっていた(しかも気づいていなかった)というフェイディアスである。
  身体をひねりながら「本当か? 見えないぞ」と大真面目に言った彼の言葉が、パイアキスには忘れられなかった。

 「なかなか言うようになったな、パイアキス」

  フェイディアスは濡れた手を伸ばして愛人メイラクスの顎を撫でた。
  その手つきはひどく優しく、パイアキスは思わずうろたえて目尻を染めた。
  それをごまかそうと、彼は早口で言った。

 「あの少年は、なかなかのものですね」

 「どの少年?」

 「我らが隊長のメイラクスですよ」

 「ああ」

  フェイディアスは髪から滴り落ちるしずくを指先で払いのけながら言った。

 「俺の目に狂いはないさ。あいつは強くなるぞ。顔は可愛いが、根性は相当なものだ」

 「早速、噂になっていますよ。隊長殿は、あの少年に手をおつけになるだろうか、と……」

 「おまえはどう思う?」

 「さあ、どうでしょう」

  パイアキスは首をひねった。

 「レオニダス様はとても愛妻家で、奥様ひとすじだとか。確かに、その手の話は全然聞いたことがありませんね」

 「さて、どうなるかな」

  フェイディアスは意味ありげに言った。

 「黒髪に乳色の肌、海を思わす瞳――あの少年を初めて見たとき、海神ポセイドンが手すさびにお創りになったかと思ったくらいだ。俺なら、とても我慢できんな」

  パイアキスが顔色を変えたのを見て、フェイディアスは意地悪く笑った。

 「ははは! 何だ、その顔は? 嫉妬か」

 「フェイディアス……!」

 「安心しろ、俺には、おまえだけだ」

  フェイディアスはあっさりと言い放った。
  パイアキスは不機嫌そうな顔を崩さなかったが、眼差しが表情を裏切っていた。

  血の絆よりも濃く、友情と呼ぶにはあまりにも強すぎる想い――



 その頃、彼らの指揮官は、黙々と堅パンをかじり、黒スープをすすっていた。
  ひさしのように張られた天幕が涼しい日陰を生み、その下にいくつかの長椅子が置かれている。
  幾人かの兵士たちが、その下で食事をとっていた。

  少年たちのなかには、厳しい訓練に消耗してスープもほとんど喉を通らない様子の者もいたが、彼らのフィロメイラクスが強引に食事をとらせた。
  とにかく、腹に何か物を入れておかないことには、身体が持たない。

  クレイトス少年は、それほど重症ではないようだった。
  彼は自分の手と口とを動かすことも忘れ、目を丸くして、レオニダスがあっという間に食事を片付けていく――という表現が適切な――様子を見つめていた。

 「何だ」

  最後の無花果いちじくまでを食べ終わり、気づかないふりをするのもとうとう限界だ。
  レオニダスはあきらめて、少年に視線を向けた。

 「も、申し訳ありません!」

  クレイトスは慌てて目を逸らし、だが、すぐにまた視線を戻してきた。

 「あの、レオニダス様は、食べるのがとてもお早いのですね」

  そうだろうか。
  特に意識したことはなかった。
  戦場での暮らしが長ければ自然とこうなる。
  突撃を控え、完全武装で、わずかな食事を立ったままとったことも何度もあった。

  この少年も、これから何度となく経験するだろう。
  死と向き合う瞬間。
  これが、この世で最後の食事になるかもしれないという思いを噛みしめる、あの瞬間――

「早く食え」

  口から出たのは、そんな一言だった。
  少年は驚いたような顔をし、それから、慌てて食べ始めた。
  残っていたパンのかけらを黒スープに浸し、口に押し込む。
  それから皿を持ち上げて、中身を一気に飲み干した。

  レオニダスは、ぼんやりとその様子を眺めていた。
  そらされた喉ははっとするほど白く、とがった喉仏が少し苦しげに上下する。

  何となく、見てはならないものを見たような気がした。
  理由も分からぬまま目を逸らしたが、どうしても視線が引き寄せられる。

  クレイトスが無花果に噛み付いた。
  白く濁った果汁が少年の唇からこぼれて口元を汚した。
  皮に包まれていた赤い果肉が剥き出しになり、そこに白い歯が立てられる。
  唇ですすり、舌で舐め取り、味わう――

「!」

  不意に、白昼夢のように目の前の光景が揺らいだ。
  暗闇。
  月の光。
  濡れたような乳色の肌。
  赤い果肉――

「レオニダス様?」

  青い目が、見上げている。

  周囲からも驚いたような視線が集まっていることに、レオニダスは不意に気付いた。
  彼は、いつの間にか、立ち上がっていたのだ。

 「申し訳ありません、僕が、何か……」

  少年からの呼びかけに、レオニダスは答えられなかった。
  あまりにも生々しく、みだらな夢想。

  なぜだ。
  少年に対して――自分を敬愛している少年に対して、こんなことを考えるなど。
  クレイトスに対しても、そしてリュクネに対しても、裏切りではないか。
  自分は、急に愛神エロースの矢にでも当てられたのだろうか?

 「次の訓練まで、休んでいていい」

  それだけ低く言って、レオニダスは天幕から出た。
  これ以上、クレイトスを前にしていたら、自分が何を考えてしまうか、それが恐ろしかった。

  取り残されたクレイトスは途方に暮れて、周囲の兵士たちと顔を見合わせた。
  だが、彼らもまた首を傾げるばかりだった――
 物静かな彼らの指揮官が何を考えているのか、皆、少しも分からなかったのである。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【アラウコの叫び 】第1巻/16世紀の南米史

ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。 マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、 スペイン勢力内部での覇権争い、 そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。 ※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、 フィクションも混在しています。 また動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。 HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。 公式HP:アラウコの叫び youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス insta:herohero_agency tiktok:herohero_agency

熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)

MisakiNonagase
現代文学
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ 嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。 離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。 月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。 おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。 されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて—— ※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

改造空母機動艦隊

蒼 飛雲
歴史・時代
 兵棋演習の結果、洋上航空戦における空母の大量損耗は避け得ないと悟った帝国海軍は高価な正規空母の新造をあきらめ、旧式戦艦や特務艦を改造することで数を揃える方向に舵を切る。  そして、昭和一六年一二月。  日本の前途に暗雲が立ち込める中、祖国防衛のために改造空母艦隊は出撃する。  「瑞鳳」「祥鳳」「龍鳳」が、さらに「千歳」「千代田」「瑞穂」がその数を頼みに太平洋艦隊を迎え撃つ。

処理中です...