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14 ウォルター(2)
しおりを挟むベルフィーナがいなくなって、どのくらい経っただろうか。
爛れた生活は徐々に落ち着き、日常となり始めた。背徳感というスパイスはなくなり、徐々に、いやでもウォルターの視界に現実が入り込んでくる。
すなわち、家令の冷たい視線に耐えかねて、嫌々妻の実家に手紙を出したのだ。
『妻は元気にしていますか、何か不便はありませんか。』という丁寧な文言で。
そうすると、恐らく手紙が届いた翌日。
来訪の一時間前に突然前触れが訪れ、ブランドン先代伯爵と夫人は上品に乗り込んできた。
丁度サティアスと繋がっていたウォルターは、慌てて身支度を整え、サティアスを寝室に隠して出迎えた。
「ようこそ、ブランドン先代伯爵、夫人。」
「やぁ、随分久しぶりだね、ウォルター殿。」
おかしいな、と思ったのは、穏やかで有名なモーティス先代伯爵のこめかみに、隆々とした青筋をたてているのを発見したからだ。
よく見ると、夫人も、その白い額にうっすらと血管を浮かばせ、どちらも恐ろしいほど笑っている。
二人とも、ウォルターの両親より少し上の年齢。しかし貫禄と存在感はその比ではなかった。
「そ、そして本日は……?」
「ああ、随分と娘が世話になったようだからな。そんなに持て余しているというのなら、引き取ろうと思ったのだ。」
「引き取る……?」
「これを見て、心当たりは?」
そうして応接室のローテーブルに投げ渡されたのは、一通の手紙。……ブランドン伯爵家に宛てた、ベルフィーナの筆跡。文官の自分よりも、腹立たしいほど流麗な文体は、見間違えることはない。
『お父様、お母様。
私は、知ってしまいました。夫は、上官のデリック・ラウザー様と深い仲になっているようで……、夫の苦悩を知りもせず、私は、妻を続けることは出来ません。結婚二年目から、恥ずかしながら閨は拒否されており……一度として訪れはありませんでしたから、いつかはこんな日がくると、どこかで思っておりました。
こんな不肖な娘が太々しく出戻るのは大変心苦しいので、せめてもの償いとして修道院へ参ろうと思います。
どうか、離縁の手続きをお願い致します。きっと、夫は私と話すらしたくないでしょうから。』
「……っ、な、ち、ちが、」
「私たちも目を疑ったよ。君たちは政略でもなく、恋愛結婚だったからな。何かの間違いかと。……よぉーーく、しっかりと調べさせてもらった。」
その言葉に、ウォルターは顔を青褪めさせていく。
「事実は残酷だな。ベルフィーナは一人だけだと書いていたが、他にも沢山相手がいるようだな?」
ベルフィーナの父親は、スッと笑いを消した。
その表情の変化だけでちびりそうな程に怖い。
ギロリとウォルターを睨む、熊をも射殺せそうな鋭い視線。
「あ、あの、僕はベルフィーナを愛しているんです。こんな、誰かが僕を妬んで、捏造を」
「それなら今すぐ寝室を確認しようか?……居るんだろう?お前の男が。」
立ち上がろうとする先代伯爵に、必死に縋り付いて止める。バレている。潔く認めた方がまだ傷は浅い……かもしれない。
「申し訳ありません!その、好奇心だったのです!出来心で……!」
それは嘘ではなかった。
元々、自分の性に対する欲は薄いと感じながら結婚した。
男は女を愛するもの。ベルフィーナは誰がなんと言おうと美しいし、優秀な女性。母親も父親も賛成してくれたし、誇らしかった。こんな女性を落とせた自分が。
初夜を迎えて初めて行為を知っても、ウォルターはただ面倒だな、としか思えなかった。
周りの男はベルフィーナを妻としたウォルターをしきりに羨ましがり、またそれはウォルターの自尊心を満たしたが、体力も使うし、仕事に就いたばかりで忙しく、それどころではなかった。
新婚の時期はまだ子供は作らない。そうベルフィーナと話していたからきちんと避妊していた。
だから、数回練習したら、あとは子供が欲しくなった時にすればいい。わざわざ避妊してまで疲れることなどしたくない。
ベルフィーナもそれに関する知識は無く、痛そうに眉を下げられる度、『自分は何もしなくていいくせに』と不満が募っていった。
だから――抱かれる側になってのめり込んだ。感じるだけでいいなんて。身を任せるだけで気持ち良い。
もうすっかりベルフィーナを抱く気持ちになどなれないことには、蓋をして目を背けていた。
「私たちの、かわいい、かわいい、娘。ベルフィーナを、」
奥歯をギリギリと噛み締め唸るような声と共に、ウォルターの身体に重圧がかかる。
「お前は、たったそれだけの、理由で、蔑ろにし、傷付け、虐げたのか。」
ドンッ。
天井に押し潰されるように、ウォルターは床に這いつくばった。
ブランドン先代伯爵の、空間魔術。
あまりに強い重力に、骨格すらひしゃげそうになる。瞳孔の開いた先代伯爵が、遥か頭上から見下ろしている。
「アナタ、娘を未亡人にする気ですか。」
「……っ、」
「……はぁ。ウォルター殿。ここへ署名を。ベルフィーナは戸籍ごと返してもらう」
フッ、と軽くなって顔を上げれば、目の前には一枚の紙。離縁の申請書だった。
「……離縁、だなんて……っ、話し合えば!話し合えば分かります!どれだけ僕が彼女を愛しているか……ッ、」
「ここに、お前の調査結果がある。相手の男の奥方達に送ってやろうか?」
「そ、それは……、」
「それにな。ベルフィーナは修道院に行くと言った途中の道で、盗賊に出会ったらしい。まさか……謀った訳ではないだろうな?」
「まさか!ベルが……!?」
「世間はどう思うかは、知らん。もし事実を知られるのが嫌なら、……今すぐに、書け。」
老いても尚整った顔を怒りに凄ませた男の前では、ウォルターはなす術もなく、離縁届に書かれた内容を恐る恐る確認していく。
「慰謝料、金貨八千枚、なんて……っ!」
この家にある訳がない。しかし家の資産をベルフィーナに任せきりにしていたウォルターは署名していいものか分からず、彷徨う視線で家令に助けを求めた。
冷ややかな無表情で、置物のように立っていた家令は失礼します、と小声で囁く。
「旦那様。ベルフィーナ様のご活躍で領内は潤っており、旦那様の私財も増えております。数年贅沢をしなければ十分賄える額です。」
「……そ、そうか……。……サインします。」
家令のその言葉には、悪意があった。『平民同等レベルで』贅沢をしなければ賄える額。つまり、この支払いでウォルターの懐はほぼ空になるのだが、管理できていないウォルターは知らなかった。
震える手をなんとか動かし、のろのろと書き上げると、ずっと恐ろしい形相で睨みつけていた先代伯爵が取り上げた。
サッと確認すると、離縁届を一撫でして――煙のように消えていく。
「!今のは……!」
「王宮に向かわせた息子の元へ転移させた。安心しろ、本日中に離縁は成立する。」
話は済んだとばかりに先代伯爵と夫人は席を立ち、脱力して動けないウォルターを残して部屋を出ようとして――
「ああ、忘れておった。相手の男らの奥方達は、既に粗方知っておる。社交界で一躍有名人になれるな。はっはっ。」
「何だと!嘘をついたのか?!」
「……勘違いしてもらっては困るな。ウォルター殿。」
ゆっくりと、幼子に言い聞かせるように。
「ベルフィーナを侮辱したのだ。灰になろうが塵になろうが、叩き潰す。最後の一粒すら残さないようにな。」
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