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章1

幕間 【あちらの世界の二人の話:家族】 (2)★

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 酒の場があれ一度きりとなることはなく、それから俺は決まって金曜の夜にトージと酒を飲むことになった。

 日本での仕事を終え、ビザの滞在期間が過ぎても金曜の晩だけ転移で例の酒場に彼を待つ。
 あちこちで行動するならビザの有効期限が切れていると面倒だが、週一の数時間だけである。

 トージは俺が日本語、特に漢字に弱いと知って、酒の席で漢字を教えてくるようになった。

 どこからか引っ張り出してきた小さなメモ帳――単語帳というらしい――に、ネットで調べた常用漢字を書き込んで酒の席に持ち出したのにはさすがに驚いた。
 ただの飲み仲間にそこまで手間をかけるか。

「もう結構読めるようになったんじゃない?」

「どうだろうな」

「分からない言葉をネットで調べるくらいはできると思うよ」

「ネット回線なんざ引いてねえよ」

 世話になっている組織の設備を使わせてもらえればその限りではないのだが、あそこはただでさえ非合法の塊である。
 回線なども他国を何重も経由していて、とても私用に使えるものではない。

 自分には睡眠の必要がなく、身体についた汚れすら一度実体化を解いてしまえば完全にその場に落ちてしまう。
 寝泊まりの必要すらないのだ。どこぞに固定回線など引いているわけがない。

「え? このご時世にネットないの? ていうかウィリーどこに住んで……あ」

 こいつは一度、俺が転移で空から現れたのを見ている。
 そのあたりで何か思うところがあったのだろう、彼が言いかけた言葉を呑み込んだ。

「……そっか、うん」

「おい、おまえまた何か勘違いしてねえか」

「あのさ、ウィリー、うち来ない? 一緒に住もうよ」

 何を言い出すかと思えば、会ったことのないトージの嫁が聞いたら勝手に決めるなと怒りそうな話だった。

 彼の連れ合いの性格や気質など知らないが、さすがにどれだけ亭主を立てる妻でも内心苛立つことだろう。

「また突拍子もないことを……素性も分からないようなやつを家に置いたら、迷惑被るのはおまえじゃなくて嫁の方だろうが」

「そ、そうかもしれないけど」

 ふと昔、仕事仲間の女が「夫が職場の同僚を許可なく家に連れてきて宅飲みをするようになった、予定外のつまみを作らされる身にもなれ」と愚痴をこぼしていたのを思い出す。
 どこの世界でも似たようなものだろう。

「由季がしばらく、海外行くことになってさ」

「ふーん」

 少なくとも嫁に迷惑はかけない、と。

 言いたいことは分かった。が、ひとつ気になっていたことがある。

 この男、数年前に国外で会った時のことを一向に話題にしようとしないのだ。

「その間だけでも。泊まりこない?」

 普通に考えれば分かる。

 もともとそういう趣味はなく、旅先でつい一度限り男に手を出してしまった若気の至りである。
 今は特定の相手を見つけ、その女との間に子供までいる。
 話題にしない方が無難だと思うのも当然だった。

 だが、それならそれでなぜ今になって、自宅に「昔の男」を招こうとするのか。
 それも一晩で後腐れなく別れたはずの相手だというのに。

「あの時みたいに、口八丁手八丁でベッドに誘っちまうかもしれねえぞ?」

 手にしていたグラスを置き、冗談半分で隣に座る彼の体に肩を寄せる。
 確認の意味も込めてのその問いに、トージはぴんときていないようだ。

「え、あの時?」

「……おまえ、昔海外にいただろう。学生だって言ってたな」

 スドウヤクモの代わりに一晩だけ恋人になってやるとかなんとか。

 続けたこちらの言葉で、彼が素っ頓狂な声を上げた。

「……あ! え、ええ!?」

 存外に大声で驚いた彼が、一瞬にして店中から注目を浴びる。
 視線が集まる気配を察して、寄りかかっていた体をさっと離した。

「なんだその反応」

「な……なんか、その、あの時のことは俺、夢か何かかなって思ってて」

「脱童貞が男相手だっての、忘れたいほど嫌だったか。そりゃ思い出させて悪かったな」

「あいや、えっと、違くて、……あんまり綺麗だったから、俺夢でも見てたのかなーみたいな」

 綺麗? つくづく思うがこいつ目は大丈夫なのか。
 一度医者にかかったほうがいいかもしれない。

 ぼそぼそ、だとか、しどろもどろ、といった表現のよく似合う狼狽えぶりで、彼が視線を泳がせている。

「なんかあれからそういうのが性癖になっちゃったっていうか……つんけんした子にばっかり気になるようになっちゃって、ええとね、由季も最初はそういうタイプの不良少女だったんだよ」

「いやおまえ……それ嫁の前で絶対に言うなよ」

「リアルに殺されそうだから言わない」

 トージの動揺はすさまじく、嫁の前で言ったらあっという間に修羅場だろう台詞をぼろぼろこぼしていく。

 念のため釘を刺しておいたが、少々不安が残る。

「それよりほんと、うち来ない? 透も居るから、俺うっかり手出したりなんてしないよ、大丈夫だよ」

 こちらが同性だから良いものの、もし異性だったらこう下手に出て何度も誘い掛けるのはそれだけで浮気と取られかねない行為である。

 こいつもきっと今は、先ほどのように本気で言っているわけではないのだろう。
 取り乱してしまった体面を取り繕うための言葉遊びのようなものだ。

「あー、うっかりで家庭崩壊の引き金にされたくはねえなー」

「しないって、大丈夫だって! コーヒーくらいは出すし」

「くそ不味いコーヒーじゃねえだろうな」

「えっ、なんでわかったの!? 由季にもさんざんまずいって言われる……」

 おまえ、そんなところまであいつと一緒か。

 俺が笑いながら酒を呷ると、トージも大仰にカウンターに突っ伏した。

 あの夜のことを悔いているなら、友人として日中に招かれるくらいはあってもいいかもしれないと思っていたが。

「絶対行かねえ」

 俺なりのけじめだ。

 もう二度と、おまえの未来を奪うようなことはしない。
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