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第17章 華の憂鬱
第236話 溝と修復
しおりを挟むリビングを離れたあと、蓮は一度自室に戻り荷物を置いた後、すぐさま華の部屋に向かった。
コンコンと2回ノックをし、返事を待たず扉を開けると、部屋の中には、ベッドに向かって座り込み、突っ伏している華の姿があった。
(……泣いてんのかな?)
涙目で、出ていった華。
きっと、今見えない目元は真っ赤なのだろう。
そう思い、蓮は華の横にあぐらをかいて座り、そっと声をかける。
「華、お前、何でそんな面倒臭いことになってんだよ」
ここ最近、おかしいとは思っていた。
兄とよそよそしいというか、なんというか……
まぁ、あんなところ(兄が女の子を抱きしめた)を見てしまったのだから、気持ちは分からなくはない。
だけど、今、華がこうなっている原因は、もっと、別のところにある気がした。
「あの人……あかりさんて、どんな人だった?」
蓮が小さく問いかける。
きっと、今日あったのだろう。その「倉色 あかり」さんに──
「…………」
すると、ずっとうつ伏せていた華が、やっと顔をあげた。
目が合うと、その瞳は案の定、真っ赤で……
昔から泣き虫だったけど、双子だからなのか、自分は泣いている華に、酷く弱いと思った。
「あかりさん、すっごく……いい人だった……っ」
すると、華は朝のことを思い出しながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
朝、スーパーで見かけたこと。
気になって、尾行してしまったこと。
自転車にぶつかって、袋が破れて困ったこと。
そんな時、あかりさんが、声かけてくれたこと。
「この前のことも、お兄ちゃんに相談に乗ってもらってたんだって……大学で話さないのは、あかりさんを揉め事に巻き込まないようにするためで……別に、私たちが思ってたような不純な関係じゃ、全くなくて……むしろ、疑ってたのが申し訳なくなるくらい……優しい人だった」
細々と紡がれた言葉は、とても弱々しかった。
涙が流れる度に、言葉は震えていて
「だから……あかりさんだったら、お兄ちゃんが好きになっても、おかしくないなって思った」
「……」
シーツの上に、ポタポタと涙が落ちた。
あの時──
『好きなの? 倉色さんのこと』
そう、確認した華。
唐突なことで驚いたけど、きっと華にとっては、確認しなくてはならないことだったのだろう。
「だから、兄貴に、あんなこと聞いたのか?」
「うん……でも、あかりさんは、お兄ちゃんのこと『絶対に好きにならないから、安心して』って」
「………」
「なんでかな……私、あの時『嫌だ』と思ったの。お兄ちゃんのこと『取られたくない』って思ったの……だから、あかりさんから、友達だって聞いて安心したはずなのに……それなのに、もし、お兄ちゃんが、あかりさんのこと好きだったら……お兄ちゃん、フラれちゃうのかなって思ったら、なんだか凄く……胸が痛くなって」
「………」
「私、お兄ちゃんが離れていくのが嫌なのに、でも、お兄ちゃんが傷つくのも嫌で……なんかもう、心の中ぐちゃぐちゃ……っ」
唇を噛み締めると、華はぎゅっとシーツを握りしめ、再びベッドに突っ伏した。
兄の幸せを願う気持ちと
兄を手離したくない気持ち
早く大人になりたい自分と
子供のままでいたい自分の気持ちが
ぶつかって
せめぎ合って
ぐちゃぐちゃになって
心の整理がつかないんだと思った。
いつか来るかもしれない『未来』
自分たちの大好きな『兄』が
いつか、他の『誰か』のものになる
そんな『未来』──
出来るなら、来て欲しくないと思った。
手を伸ばせば、必ず握り返してくれた『兄』が
自分たちの手を振りほどいて、他の誰かの手をとるのが
寂しくて
悲しくて
でも、そんなことを考えてしまうからこそ
自分たちは、まだ『子供』なんだろう……
「……華」
手を伸ばし、ベッドに突っ伏した華の頭を撫でると、同じ色の髪が肩をサラリと流れた。
(誰かの幸せを願うって、どうしてこんなに、難しいんだろう……)
きっと、自分以外の誰かの幸せを願うには
まず、自分自身が『幸せ』でなきゃダメで
今ある自分の幸せを壊してまで
兄の幸せを願うことが
こんなにも、難しいことだとは思わなかった。
でも──
「大丈夫だよ。今はぐちゃぐちゃでも、お前は兄貴の幸せ、ちゃんと願えるよ。兄貴が傷つくのが嫌だって思ってる華なら、ちゃんと応援できる」
「……っ」
きっと華は、今、自分のことを"最低な妹"だと思っているのかもしれない。
口では『幸せになって欲しい』なんていいながら、それを望んでないことに──
でも、それでも華は、いつだって、家族のために一生懸命だった。
たとえ、本心では『嫌』だとおもっていても。
『離れたくない』と思っていても
それでも、いつか本当に、兄貴に好きな人ができたら、きっと兄貴の幸せを"優先"できる。
そんな気がした。
嫌なことから目を背けてばかりの自分なんかよりも
ずっとずっと
兄貴のことを考えてやれるって──…
「ほら、言いたいことあるなら全部きいてやるから、もう泣くな」
優しく撫でていた華の髪を、わしゃわしゃとかき乱す。
すると、顔をあげた華は、痛いと言わんばかりの表情で蓮を見つめた。
「ちょっと、女の子の髪になんてことすんの」
「悪かったな。てか、兄貴もあかりさんのこと友達だって言ってただろ? 兄貴が友達だって思ってる以上、フラれることもないって」
「……そうかもしれないけど。じゃぁ、なんで、その友達を抱きしめたりするの?」
「そ、それは、ほら……突発的に可愛いと思ったとか、慰めたいと思ったとか?」
「だから、そういう気持ちになるのが、好きってことなんじゃないの?」
「わかんねーよ。てか、兄貴がフラれるとか想像つかないんだけど」
「私も想像出来ないよ! でも、あかりさん、本当に『脈なし』って感じなんだもん」
確かに、あの兄と『友情』が成立する女の子は珍しいかもしれない。
あれだけ整った容姿に、その上、かなりの人たらし。
兄に優しくされたら、大抵の女の子ならコロッと落ちてしまう。
それが、そのあかりさんは、兄と部屋で二人っきりになろうが、抱きしめられようが『絶対に好きにならない』などと断言出来るわけで、それを考えたら、どれだけ鋼の精神を持っているのだろう。
「大体、本当に好きなら、名字知らないとか、ありえないだろ?」
「でも、名前、呼び捨てにしてたし」
「なんでそんなに、兄貴があかりさんのこと好きかも、なんて思うんだよ?」
「……なんでだろう? 女の勘的な」
(ただの勘で、あんなに……)
さすがにちょっと、兄貴が可哀想だと思った。
「まぁ、隠しごとが多い兄貴も悪いけど、今回は華も悪いよ。人の気持ち勝手に決めつけて、鬼みたいに責めて」
「鬼!?」
「あー、なんか彼氏の浮気問いただしてる、彼女みたいだった。怖ぇーし、兄貴もびっくりしてたし、ちゃんと仲直りしろよな。謝りづらいなら、俺も一緒にいてやるから」
「うん……ありがとう。あとで、ちゃんと謝る」
目を赤く晴らした華が袖で涙を拭いながらそう言うと、蓮は少しだけ安堵の表情を浮かべた。
人はちょっとしたことで、相手を信じられなくなることがある。
昔、父がそう話していたことがあった。
どんなに、仲が良くても
どんなに、信じていても
どんなに、愛していても
些細な亀裂から、綻びが生じる。
それは
喧嘩したり、隠し事したり
はたまた、ただの勘違いだったり
でも、自分たちは、絶対にそうならないように
小さな亀裂や綻びが生まれたら
それを、繋いで縫い合わせて
何度と結び治してきた。
『兄貴、昔から俺達に、隠し事ばかりだよね……』
別に、家族だからって
全て話してほしいわけじゃない。
誰だって、隠し事の一つや二つ
あるのは、あたり前で
話したくないなら、話さなくてもいい。
そう、思ってたから、今までずっと追求はしなかった。
でも──
『飛鳥兄ぃ……私達に、なにか謝らなきゃいけないことが、あるのかな?』
前に、兄が熱を出した時。
自分と華に、魘されながら何度と「ごめん」と謝っていた兄の話を聞いて
その「隠し事」が、どうしても知りたくなった。
なんで、謝らなきゃいけないのか?
なにを、そんなに隠そうとしているのか?
兄が隠そうとすればするほど、それが深い『溝』に変わっていくようにも感じて、不安だったから……
「ねぇ……今は、あんなふうに言ってるけど、もし本当に、お兄ちゃんが、あかりさんのこと好きになったら、蓮はどうする?」
「……」
すると、先程の話を蒸し返されて、蓮は口篭る。
もし、兄が、本当にあかりさんのことを好きになったら、自分は素直に応援できるだろうか?
そんなことが、漠然とよぎる。
「さぁな。そんなのただの勘だろ? もし、そうなったら……その時考えればいい」
考えたくないばかりに、いつも先送りにする。
だけど
この時言った華の勘が
この先『本当』のことになるなんて
この時は、まだ知る由もなく。
いつか来るかもしれない『未来』が
もう、そこまで迫っていたことに気づくのは
これより、もう少し
先の話だった───
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