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最終章 箱と哀愁のベルスーズ
箱と哀愁のベルスーズ ⑩ ~ 懺悔 ~
しおりを挟むスイートルームを出たあと、私は、一階のロビーに向かった。
あの後、私は部屋でシャワーを浴び、髪を乾かし、身なりを完全に元に戻した。
泣きじゃくった顔も、化粧をしなおしたおかげで、少しはまともになったと思う。
終わってしまえば、あっけないもので、男と別れたあとは、一気に冷静さを取り戻した。
もともと愛のない交わりだった。
一度限りの後腐れのない関係。
男との行為は、決して悪くはなかったけど、身体は満たされても、心までは満たされなかった。
結局、愛がなければ、どんな交わりも、虚しいだけなのだと思った。
例え、どんなにいい男に抱かれようが、私が、心から愛してるのは、洋介だけなのだと──
そして、それは、あの男も同じだったのだろう。
私を抱きしめながら、消え入るような声で呟いたのは
『紗那……っ』
という、女の名前だった。
きっと妻の名前だろう。
今にも、泣きだしそうな声で、噛み締めるように、女の名を呼んでいた。
会いたいと、戻ってきてくれと、必死に最愛の人を求める姿に、酷いことをしてしまったと思った。
人の弱みに漬け込んで、無理やり関係を迫るなんて、なんて酷い女だろう。
妻の代わりになんて、なれるわけもないのに……
でも、今日助けてくれたこと、そして、私の望みを叶えてくれたことに関しては、とても感謝していた。
だって、これで、やっと終われるかもしれない。
やっと、この苦しみから、逃れられるかもしれない。
✣
✣
✣
「奥様!」
なにごともなかったように、ロビーに足を運べば、ずっと待たせていたメイドの戸狩が、酷く心配そうな顔で、駆け寄ってきた。
時間にすれば、大体2時間ほど。
とても長い時間のようにも感じたが、そこまで経っていなかったことに驚いた。だけど、戸狩を待たせてしまったことには変わりなく
「ごめんなさい、待たせてしまって」
「いえ、構いません。それより、長次郎様は、どのようなご要件で?」
戸狩の話に、私は、また義兄のことを思い出した。
有難いことに、義兄に触れられた時の不快な感触は、男が全て、奪い取ってくれた。
だけど、それで、義兄への恐怖心が、なくなったわけじゃなかった。
「奥様、大丈夫ですか? お顔の色が優れないようですが……」
「大丈夫よ。それに、大した話しじゃなかったわ。また、嫌味を聞かされただけよ」
平然とした態度で、戸狩の横を通り過ぎた。
すると、戸狩が
「あの、奥様」
「なに?」
「その……香水の香りが、変わっていらっしゃる気がして、ご入浴でもされたのですか?」
「……っ」
微かな動揺が生まれる。
身なりは完全に整えたが、香水は持参していなかった。そのため、今、私をつつんでいる香りは、スイートルームの浴室に置かれていた、シャンプーの香り。
「そんなわけないでしょ」
「……そう、ですよね」
「それと、今日、お義兄様に呼び出されたことは、内緒にしておいて」
「内緒に、ですか?」
「そうよ。洋介にも、屋敷のみんなにも、誰にも言わないでちょうだい」
「……か、畏まりました」
戸狩は、なにかしらの違和感に気づいたかもしれない。だけど、私は必死に誤魔化し、口止めをした。
不貞を働いたなんて、知られるわけにはいかなかった。
これは、箱の中にでも閉じ込めて、一生、隠していかなくてはならないことだ。
だけど、夫を裏切ってしまったことに関しては、酷く罪悪感を抱いていた。
✣
✣
✣
「美結、大丈夫か?」
でも、そんなことがあった夜も、私たちは、変わらず営むことになった。
妊娠しやすいタイミングを計るために、私は毎朝、基礎体温をつけていた。
そして、今日から3日間は、もっとも妊娠しやすい時期で、そのようなタイミングでは、必ずと言っていいほど、洋介と交合った。
まるで、義務みたいに──
だけど、その日は、昼間のことがあったからか、酷く疲れた顔をしていて、洋介が心配して、私の体をいたわってきた。
「体調が悪いなら、今日はやめておこう。明日でも」
洋介は、自分の妻が兄に襲われたなんて、想像もしていないだろう。
そして、その後、妻が見知らぬ男に身体を許したことも……
(知られたら、さすがに捨てられちゃうわね)
別に、後悔してる訳じゃなかった。
今の地獄のような日々から抜け出すには、こうするしかなかったから。
だけど、できるなら、洋介の子が欲しかった。
愛する人の子を妊娠して、幸せな生活を送りたかった。
「……大丈夫、出来るわ」
だけど、そんな気持ちを押し殺して、私は普段通り振る舞った。でも、洋介は
「ムリするな。戸狩が言ってたぞ、少し休ませてやってはどうかと」
「……戸狩が?」
「あぁ、なかなかお節介なメイドだな。僕にそんな指図をしてきたのは、戸狩が初めてだ」
「……ごめんなさい。私から、また指導しておくわ」
「いや、別に怒ってるわけじゃなくてだな。その、ずっと跡取りを望まれ続けて、お前も辛いだろう。だから、休みたいなら休んでいい」
「………」
その優しい言葉に、胸の奥がじわりと熱くなる。
辛くて仕方なかった。
だから、私は道を踏み外した。
この苦しみから、逃れるためだけに──
「っ……ごめん……なさい……っ」
すると、急に涙が溢れてきた。
ベッドの上に座り込み、しくしくと泣き出した私に、洋介は困惑しながら声をかけてくる。
「な、なにを謝ってるんだ。別に、休んでいいと言ったのは、美結を捨てるとか、そういう意味じゃ……っ」
「違う、ちがうの……わかってる……でも…ごめんなさい…っ」
何に謝ってるかなんて、洋介は一生、気づくことはないだろう。
むしろ、気づかせちゃいけない。
この秘密は、何があっても隠し通さなくちゃならない。
「ごめん……なさい……ッ」
でも、私が不貞をはたらいたことに間違いはなく、例え、この秘密を墓場まで持っていったとしても、洋介を裏切ったことに変わりはなかった。
だからか、何度、謝っても足りない気がした。
「ごめん、なさい……ごめん……なさぃ……っ」
「美結、やっぱり、今日はやめとこう」
「でも……っ」
「いいから。今日は、もう休みなさい」
「……っ」
優しく抱きしめられると、また涙が溢れた。
そして、洋介は、私を抱きしめたまま、またゆっくり話し始める。
「明日、二人で出かけるか?」
「でかける?」
「あぁ、久しぶりに休みが取れたんだ。気分転換にもなるだろう、お互い」
「……」
そういえば、ここ数年、二人きりで出かけることはなかった。
洋介が当主になってからは、多忙な毎日だったし、基本的に、どこに行くにも、秘書やメイドが同行していたから。
「うん……」
洋介の気持ちが嬉しくて、その後、素直に「行きたい」と頷けば、泣き止んだ私を見て、洋介は、ほっとしたように微笑んだ。
そして、その次の日。
私たちは、数年ぶりにデートをした。
海の見える別荘に行って、二人だけで、一晩過ごした。
まるで、普通の恋人同士みたいに──
だからか、その日の夜は、とても穏やかで、満ち足りた夜だった。
跡取りとか、当主とか、阿須加家のことなんてなにも考えず、ただ心を満たすためだけに愛し合った。
胸の奥に秘めた罪は、決して消えずとも。
それでも、夏の夜空に浮かぶ月は、いつも以上に鮮やかに、そして、悠々と輝いていた。
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