お嬢様と執事は、その箱に夢を見る。

雪桜

文字の大きさ
上 下
252 / 289
最終章 箱と哀愁のベルスーズ

箱と哀愁のベルスーズ ⑩ ~ 懺悔 ~

しおりを挟む

 スイートルームを出たあと、私は、一階のロビーに向かった。

 あの後、私は部屋でシャワーを浴び、髪を乾かし、身なりを完全に元に戻した。

 泣きじゃくった顔も、化粧をしなおしたおかげで、少しはまともになったと思う。 

 終わってしまえば、あっけないもので、男と別れたあとは、一気に冷静さを取り戻した。

 もともと愛のない交わりだった。
 一度限りの後腐れのない関係。

 男との行為は、決して悪くはなかったけど、身体は満たされても、心までは満たされなかった。

 結局、愛がなければ、どんな交わりも、虚しいだけなのだと思った。

 例え、どんなにいい男に抱かれようが、私が、心から愛してるのは、洋介だけなのだと──

 そして、それは、あの男も同じだったのだろう。

 私を抱きしめながら、消え入るような声で呟いたのは

紗那さな……っ』

 という、女の名前だった。

 きっと妻の名前だろう。

 今にも、泣きだしそうな声で、噛み締めるように、女の名を呼んでいた。

 会いたいと、戻ってきてくれと、必死に最愛の人を求める姿に、酷いことをしてしまったと思った。

 人の弱みに漬け込んで、無理やり関係を迫るなんて、なんて酷い女だろう。

 妻の代わりになんて、なれるわけもないのに……

 でも、今日助けてくれたこと、そして、私の望みを叶えてくれたことに関しては、とても感謝していた。

 だって、これで、やっと終われるかもしれない。

 やっと、この苦しみから、逃れられるかもしれない。


 ✣

 ✣

 ✣


「奥様!」

 なにごともなかったように、ロビーに足を運べば、ずっと待たせていたメイドの戸狩が、酷く心配そうな顔で、駆け寄ってきた。

 時間にすれば、大体2時間ほど。

 とても長い時間のようにも感じたが、そこまで経っていなかったことに驚いた。だけど、戸狩を待たせてしまったことには変わりなく

「ごめんなさい、待たせてしまって」

「いえ、構いません。それより、長次郎様は、どのようなご要件で?」

 戸狩の話に、私は、また義兄のことを思い出した。

 有難いことに、義兄に触れられた時の不快な感触は、男が全て、奪い取ってくれた。

 だけど、それで、義兄への恐怖心が、なくなったわけじゃなかった。

「奥様、大丈夫ですか? お顔の色が優れないようですが……」

「大丈夫よ。それに、大した話しじゃなかったわ。また、嫌味を聞かされただけよ」

 平然とした態度で、戸狩の横を通り過ぎた。
 すると、戸狩が

「あの、奥様」

「なに?」

「その……香水の香りが、変わっていらっしゃる気がして、ご入浴でもされたのですか?」

「……っ」

 微かな動揺が生まれる。

 身なりは完全に整えたが、香水は持参していなかった。そのため、今、私をつつんでいる香りは、スイートルームの浴室に置かれていた、シャンプーの香り。

「そんなわけないでしょ」

「……そう、ですよね」

「それと、今日、お義兄様に呼び出されたことは、内緒にしておいて」

「内緒に、ですか?」

「そうよ。洋介にも、屋敷のみんなにも、誰にも言わないでちょうだい」

「……か、畏まりました」

 戸狩は、なにかしらの違和感に気づいたかもしれない。だけど、私は必死に誤魔化し、口止めをした。

 不貞を働いたなんて、知られるわけにはいかなかった。

 これは、箱の中にでも閉じ込めて、一生、隠していかなくてはならないことだ。

 だけど、夫を裏切ってしまったことに関しては、酷く罪悪感を抱いていた。


 ✣

 ✣

 ✣


「美結、大丈夫か?」

 でも、そんなことがあった夜も、私たちは、変わらず営むことになった。

 妊娠しやすいタイミングを計るために、私は毎朝、基礎体温をつけていた。

 そして、今日から3日間は、もっとも妊娠しやすい時期で、そのようなタイミングでは、必ずと言っていいほど、洋介と交合った。

 まるで、義務みたいに──

 だけど、その日は、昼間のことがあったからか、酷く疲れた顔をしていて、洋介が心配して、私の体をいたわってきた。

「体調が悪いなら、今日はやめておこう。明日でも」

 洋介は、自分の妻が兄に襲われたなんて、想像もしていないだろう。

 そして、その後、妻が見知らぬ男に身体を許したことも……

(知られたら、さすがに捨てられちゃうわね)

 別に、後悔してる訳じゃなかった。

 今の地獄のような日々から抜け出すには、こうするしかなかったから。

 だけど、できるなら、洋介の子が欲しかった。

 愛する人の子を妊娠して、幸せな生活を送りたかった。

「……大丈夫、出来るわ」

 だけど、そんな気持ちを押し殺して、私は普段通り振る舞った。でも、洋介は

「ムリするな。戸狩が言ってたぞ、少し休ませてやってはどうかと」

「……戸狩が?」

「あぁ、なかなかお節介なメイドだな。僕にそんな指図をしてきたのは、戸狩が初めてだ」

「……ごめんなさい。私から、また指導しておくわ」

「いや、別に怒ってるわけじゃなくてだな。その、ずっと跡取りを望まれ続けて、お前も辛いだろう。だから、休みたいなら休んでいい」

「………」

 その優しい言葉に、胸の奥がじわりと熱くなる。

 辛くて仕方なかった。
 だから、私は道を踏み外した。

 この苦しみから、逃れるためだけに──

「っ……ごめん……なさい……っ」

 すると、急に涙が溢れてきた。

 ベッドの上に座り込み、しくしくと泣き出した私に、洋介は困惑しながら声をかけてくる。

「な、なにを謝ってるんだ。別に、休んでいいと言ったのは、美結を捨てるとか、そういう意味じゃ……っ」

「違う、ちがうの……わかってる……でも…ごめんなさい…っ」

 何に謝ってるかなんて、洋介は一生、気づくことはないだろう。

 むしろ、気づかせちゃいけない。

 この秘密は、何があっても隠し通さなくちゃならない。

「ごめん……なさい……ッ」

 でも、私が不貞をはたらいたことに間違いはなく、例え、この秘密を墓場まで持っていったとしても、洋介を裏切ったことに変わりはなかった。

 だからか、何度、謝っても足りない気がした。

「ごめん、なさい……ごめん……なさぃ……っ」

「美結、やっぱり、今日はやめとこう」

「でも……っ」

「いいから。今日は、もう休みなさい」

「……っ」

 優しく抱きしめられると、また涙が溢れた。

 そして、洋介は、私を抱きしめたまま、またゆっくり話し始める。

「明日、二人で出かけるか?」
 
「でかける?」

「あぁ、久しぶりに休みが取れたんだ。気分転換にもなるだろう、お互い」

「……」

 そういえば、ここ数年、二人きりで出かけることはなかった。

 洋介が当主になってからは、多忙な毎日だったし、基本的に、どこに行くにも、秘書やメイドが同行していたから。

「うん……」
 
 洋介の気持ちが嬉しくて、その後、素直に「行きたい」と頷けば、泣き止んだ私を見て、洋介は、ほっとしたように微笑んだ。

 そして、その次の日。
 私たちは、数年ぶりにデートをした。

 海の見える別荘に行って、二人だけで、一晩過ごした。

 まるで、普通の恋人同士みたいに──

 だからか、その日の夜は、とても穏やかで、満ち足りた夜だった。

 跡取りとか、当主とか、阿須加家のことなんてなにも考えず、ただ心を満たすためだけに愛し合った。

 胸の奥に秘めた罪は、決して消えずとも。

 それでも、夏の夜空に浮かぶ月は、いつも以上に鮮やかに、そして、悠々と輝いていた。


しおりを挟む
感想 18

あなたにおすすめの小説

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…

しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。 高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。 数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。 そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。

下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。 またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。 あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。 ご都合主義の多分ハッピーエンド? 小説家になろう様でも投稿しています。

愛する殿下の為に身を引いたのに…なぜかヤンデレ化した殿下に囚われてしまいました

Karamimi
恋愛
公爵令嬢のレティシアは、愛する婚約者で王太子のリアムとの結婚を約1年後に控え、毎日幸せな生活を送っていた。 そんな幸せ絶頂の中、両親が馬車の事故で命を落としてしまう。大好きな両親を失い、悲しみに暮れるレティシアを心配したリアムによって、王宮で生活する事になる。 相変わらず自分を大切にしてくれるリアムによって、少しずつ元気を取り戻していくレティシア。そんな中、たまたま王宮で貴族たちが話をしているのを聞いてしまう。その内容と言うのが、そもそもリアムはレティシアの父からの結婚の申し出を断る事が出来ず、仕方なくレティシアと婚約したという事。 トンプソン公爵がいなくなった今、本来婚約する予定だったガルシア侯爵家の、ミランダとの婚約を考えていると言う事。でも心優しいリアムは、その事をレティシアに言い出せずに悩んでいると言う、レティシアにとって衝撃的な内容だった。 あまりのショックに、フラフラと歩くレティシアの目に飛び込んできたのは、楽しそうにお茶をする、リアムとミランダの姿だった。ミランダの髪を優しく撫でるリアムを見た瞬間、先ほど貴族が話していた事が本当だったと理解する。 ずっと自分を支えてくれたリアム。大好きなリアムの為、身を引く事を決意。それと同時に、国を出る準備を始めるレティシア。 そして1ヶ月後、大好きなリアムの為、自ら王宮を後にしたレティシアだったが… 追記:ヒーローが物凄く気持ち悪いです。 今更ですが、閲覧の際はご注意ください。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

セレナの居場所 ~下賜された側妃~

緑谷めい
恋愛
 後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

魔性の大公の甘く淫らな執愛の檻に囚われて

アマイ
恋愛
優れた癒しの力を持つ家系に生まれながら、伯爵家当主であるクロエにはその力が発現しなかった。しかし血筋を絶やしたくない皇帝の意向により、クロエは早急に後継を作らねばならなくなった。相手を求め渋々参加した夜会で、クロエは謎めいた美貌の男・ルアと出会う。 二人は契約を交わし、割り切った体の関係を結ぶのだが――

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

処理中です...