248 / 289
最終章 箱と哀愁のベルスーズ
箱と哀愁のベルスーズ ⑥ ~ 妻 ~
しおりを挟む「今のは、れっきとした犯罪ですよ」
清廉な男の声が響けば、辺りはシンと静まり返った。
引き離され、床に座り込む長次郎は、邪魔をされたのが気に食わないのか、酷く不機嫌そうにしていて、私は、その姿を震えながら見つめていた。
見ず知らずの男の背に隠れ、義兄の様子を必死にうかがう。すると『犯罪』と言われ、流石に臆したのか、長次郎は、軽く舌打ちした後、その場から逃げ出した。
「待て!」
そして、逃げた長次郎を、男が追いかけようとする。だけど、そんな男の背広を掴むと
「ま、まって……いか、ないで……っ」
震える手で、私は必死にすがりついた。
一人になるのが怖かった。
誰かにいてほしかった。
すると、そんな私を見て、ほっとくわけにはいかないと思ったのか、男は義兄を追いかけるのを諦め、私の前に静かに膝をついた。
「お怪我は、ありませんか?」
「な……ないわ……でも、どうして……っ」
「どうして、気づいたのかと仰りたいのですか? 先ほど、部屋の前で、揉めていらしたのを見たもので」
「で……でも、それだけで?」
たった、それだけで、わざわざ部屋に押し入ってきてくれたのだろうか?
私が不思議そうにしていると、男は苦笑しながら
「そうですね。それだけ──と、言いたいところですが、正直に言うと、あなたが、私の妻に、よく似ていたからです」
「……妻?」
「はい。一年前、息子を産んだ次の日に亡くなくなりました。でも、先ほで廊下ですれ違った時、貴女の背格好が、あまりにも妻に似ていたので、思わず、生き返ったのかと思ってしまって……」
そう言って、悲しそうに目を伏せた男は、先程、義兄を威嚇していた男とは別人のようだった。
妻を亡くし、その傷が、まだ癒えてないのか、その表情は、酷く寂しそうで、そして、それと同時に、生き返ったのだと錯覚してしまうほど、彼はその妻のことを愛していたのだと、初対面の私でも、よく分かるほどだった。
(じゃぁ、その妻に似ていたから、私は助かったのね……っ)
理由はどうであれ、助けてくれたことに感謝した。知り合いに似ているなどしなくては、きっと、気にかけてはくれなかっただろう。
「ありが、とう……っ」
そして、改めてお礼をいうが、それと同時に、先程の恐怖がまた舞い戻ってきて、私は震える身体を強く抱きしめた。
何もかもが、絶望的だった。
乱暴に組み敷かれて、抵抗すらできず、あのまま犯されていたら、今頃どうなっていただろう?
「ぅ……っ」
「大丈夫ですか?」
すると、再び怯えだした私を見て、男が、また話しかけてきた。
「先ほどの男は、知り合いですか?」
「し……知り合い」
「そうですか……では、今から警察を呼びますので、あの男のことを詳しく話してください。そうすれば、すぐに捕まりますよ」
「え?」
すぐに捕まる──それは、私を安心させようとして言ってくれだのだと思った。
あんなことをされたのだ。
警察に届けた方がいいに決まってる。
だけど私は──
「やめて……警察には言わないで!!」
そう言って、男の服を掴み、必死に訴えた。
「お願い、警察はやめて……!」
「何故ですか、貴女は、先程」
「そうだけど、それでもダメなの! お願い……警察沙汰には……しないで……っ」
一族から、犯罪者を出すわけにはいかなかった。
なぜなら、阿須加一族の誰かが不祥事を起こせば、それは、同時に会社のイメージも悪くする。
なにより、長次郎は、洋介の兄だ。
社長の兄が、自分たちの経営するホテルで、女性に乱暴したなんて噂が広まったら、ホテルの信用も阿須加家の名も、一気に地に落ちる。
そして、それは、同時に洋介の首を絞めることに繋がる。
ただでさえ、洋介が跡を継いでから、ホテルの業績は右肩下がりで、一族にもよく思われてなかった。
それなのに、これ以上、洋介の立場が悪くしたら?
それに、例え訴えたところで、嫁としてよく思われていない私の言葉なんて、簡単にねじふせられる。
相手は、あの阿須加一族だ。
敵に回せば、私だけじゃなく、私の親兄弟も、そして、助けてくれたこの人も、きっとタダでは済まない。
それどころか、下手をすれば、子供欲しさに、私から義兄に迫ったなどと言われて、もっと傷つくだけだと思った。
なら、このまま誰にも知られずに、終わらせた方がいい。
洋介にも、誰にも──
「お願い……こんなこと、誰にも知られたくないの……それに、私がいけないの……私が、いつまでたっても、子供を授からないから……っ」
全部、私のせいだと思った。
私が、順調に跡取りを産めていたら、義兄も、ここまでしようとは考えなかったかもしれない。
この10年で、一族の対立は、更に増した。
そして、それも全て、私たちに子供ができないせいだった。
当主でありながら、跡取りがいない。
だからこそ、一族のほとんどの人間が、長次郎の方が当主に相応しいと、今でも言っていて、月日がたてばたつほど、洋介の立場は、悪くなるばかり。
その癖、当主しての重圧ばかりが重くのしかかり、順調とは言えない会社の経営と、子供を早く作れとはやしたてる周りの声に、心身をすり減らしていた。
私が、子供を産めていたら、洋介に、あそこまでの苦労を背負わせることもなかったかもしれない。
「わたしの……せいで……っ」
そう思うと、また涙が溢れてきた。
なんで、来てくれないの?
こんなにも、待ち望んでるのに?
どうして、私と洋介の元には、いつまで経っても、子供が来てくれないの?
「ふ、……ぅう……っ」
まるで、もう限界だとでも言うように、大粒の涙が、頬を伝い流れ落ちる。
乱れた服を、ろくに整えることすらできず、ただ呆然と産めない自分を呪い、謝り続ける。
すると、そんな私を見兼ねたのか、男は一度立ち上がると、シーツを手にして、また戻ってきた。
そして、そのシーツで、私の身体を優しく包みこむと
「どのような事情があるのかは存じませんが、子供を授からないのは、あなたのせいではないですよ」
「……っ」
それは、思っても無い言葉だった。
そして、その瞬間、また涙が溢れた。
「わたしの……せいじゃ……ない……?」
そんなこと、誰も言ってくれなかった。
子供を産めないのは、全部、嫁のせいで。
跡取りを産めない私は、ただの役立たずで。
10年間、否定され続けて来た心は、今にも砕けそうで。
だけど、その優しい言葉は、その砕けそうな心を全て包み込んでくれて、私は、その場に泣き崩れた。
「うぅ……あ、あぁぁああぁぁ……っ」
まるで、壊れた玩具のように、ひたすら声を上げて、泣きじゃくる。
そして、そんな私の傍を、男は片時も離れることなく、静かに見守っていた。
0
お気に入りに追加
58
あなたにおすすめの小説

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。
下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。
またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。
あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。
ご都合主義の多分ハッピーエンド?
小説家になろう様でも投稿しています。

愛する殿下の為に身を引いたのに…なぜかヤンデレ化した殿下に囚われてしまいました
Karamimi
恋愛
公爵令嬢のレティシアは、愛する婚約者で王太子のリアムとの結婚を約1年後に控え、毎日幸せな生活を送っていた。
そんな幸せ絶頂の中、両親が馬車の事故で命を落としてしまう。大好きな両親を失い、悲しみに暮れるレティシアを心配したリアムによって、王宮で生活する事になる。
相変わらず自分を大切にしてくれるリアムによって、少しずつ元気を取り戻していくレティシア。そんな中、たまたま王宮で貴族たちが話をしているのを聞いてしまう。その内容と言うのが、そもそもリアムはレティシアの父からの結婚の申し出を断る事が出来ず、仕方なくレティシアと婚約したという事。
トンプソン公爵がいなくなった今、本来婚約する予定だったガルシア侯爵家の、ミランダとの婚約を考えていると言う事。でも心優しいリアムは、その事をレティシアに言い出せずに悩んでいると言う、レティシアにとって衝撃的な内容だった。
あまりのショックに、フラフラと歩くレティシアの目に飛び込んできたのは、楽しそうにお茶をする、リアムとミランダの姿だった。ミランダの髪を優しく撫でるリアムを見た瞬間、先ほど貴族が話していた事が本当だったと理解する。
ずっと自分を支えてくれたリアム。大好きなリアムの為、身を引く事を決意。それと同時に、国を出る準備を始めるレティシア。
そして1ヶ月後、大好きなリアムの為、自ら王宮を後にしたレティシアだったが…
追記:ヒーローが物凄く気持ち悪いです。
今更ですが、閲覧の際はご注意ください。


セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

魔性の大公の甘く淫らな執愛の檻に囚われて
アマイ
恋愛
優れた癒しの力を持つ家系に生まれながら、伯爵家当主であるクロエにはその力が発現しなかった。しかし血筋を絶やしたくない皇帝の意向により、クロエは早急に後継を作らねばならなくなった。相手を求め渋々参加した夜会で、クロエは謎めいた美貌の男・ルアと出会う。
二人は契約を交わし、割り切った体の関係を結ぶのだが――
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる