お嬢様と執事は、その箱に夢を見る。

雪桜

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第19章 聖夜の猛攻

愛の夢

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「五十嵐君。私たちは先にあがるね」

 戸締りをしようと執務室から出ると、通りすがりの冨樫に声をかけられた。

 今日は、お嬢様が不在のため、普段よりも早く業務を終えた。

 通常、主人を中心として行動する執事やメイドたち。

 だが、主人がいないとなれば、その業務も簡略化できるため、まだ8時という異例の早さではあるが、今後の準備かねて、今日は早めに休むことになった。

「五十嵐君は、もうあがれる? まだ仕事のこってるなら手伝うけど」

「いいえ。私も本館の戸締りを終えれば、執事の仕事は終わります。それより、冨樫さんは屋敷を出たあとは、そのまま雅文まさふみさんにアパートに行くと言っていましたが、準備は整いましたか?」

「うん。私は、もう終わってる。必要なものはあらかた運び出したし。ただ、恵美の方は、まだ目途が立ってないみたい。両親に話してみると言ってたけど」

「……そうですか」

 夕食前、恵美と話した時のことを思い出し、レオは一考する。

 両親に電話をし、正月は実家に帰ることにしたようだが、その後の話し合いが、上手くいくとは限らなかった。

 親と子の確執というものは、第三者の目からは、分からないことも多い。

 恵美から歩み寄ることで、円満に解決できれば、それでいい。だが、両親の出方次第では、また実家をでる可能性もあった。

 そして、そうなれば、彼女はどうなるだろう。

(都合よく、住み込みの仕事が見つかるとは限らないし、もう一つくらい、手を打っておいた方がいいかもな?)

 たとえ、自分たちの駆け落ちが上手くいっても、恵美が犠牲になってしまったら、結月は心を痛めてしまだろう。そうなったら、元も子のない。

「じゃぁ、私は先に別館に戻るね。五十嵐くんも早く休みなよ」

「はい。お疲れ様でした」

 その後、冨樫と別れると、レオは屋敷内の戸締りを始めた。廊下の窓を一つ一つ施錠し、普段お嬢様が一人で食事を摂る大広間まで進む。

 広く優美なその空間は、シンと静まり返っていた。今日は、あるじがいないから、よりそう感じるのかもしれない。

(今頃、結月は、冬弥にバイオリンを聞かせている頃か……)

 広間に飾られた大時計を目にし、レオは今の結月の状況を想像する。

 時刻は、午後8時。餅津木家の晩餐を終えた結月は、そのまま冬弥の部屋に招かれていることだろう。

 そして、バイオリンを手に、一人で戦っている。
 誰一人として味方のいない、あの屋敷の中で……


 コツン──と、靴の音を響かせると、レオは燕尾服を揺らしながら、広間の奥へと進んだ。

 窓辺で、堂々と鎮座するグランドピアノ。

 その前まで歩み寄れば、ピアノの屋根を上げ、白い手袋を脱ぎすてた。

 レオの長い指先が、優しく鍵盤を撫で、その後、静かに腰かけたレオは、ゆっくりとメロディーを奏で始めた。

 ~~♪

 まるで、湖のほとりにいるような穏やかなピアノの音。それが、バイオリンを弾く結月に寄り添うように重なっていく。

 一音一音、結月の姿を思い浮かべながら、レオの奏でる甘美なメロディーが、誰もいない屋敷の中に、ひたすら響き渡る。

 決して一人ではない──と、遠くにいる彼女に伝えるように。

 そして、鍵盤の上で踊るレオの指先は、その後、流れるように加速し、力強い旋律を奏でた。

 響くのは、狂おしいくらいの愛の詩。
 
 フランツ・リスト『愛の夢』第3番 変イ長調。

 幼う頃に、よく結月が聴かせてくれた──思い出の曲だった。



 ✣

 ✣

 ✣



 ──♫

 優雅なバイオリンの音色が、餅津木家の屋敷の中に響き渡る。

 冬弥の前に立った結月は、あれからずっと、バイオリンを弾いていた。

 幼い頃から慣れ親しんだこの曲は、よくレオに聞かせてあげていた曲。

 だからか、この曲を弾いていれば、不思議とレオが傍にいてくれるような気がした。

『それ、なんて曲だっけ?』

 そして、ふいに思い出したのは、幼い頃の記憶だった。

 まだ、枯れ果てる前の美しい温室の中で、レオと二人だけで過ごした、あの頃の記憶。

『この曲は「愛の夢」。フランツ・リストの曲よ。前にも言わなかった?』

 それは、別れの期限が迫った、初夏の昼下がり。

 いつもの温室で、使用人たちに隠れて、こっそりレオと会っていた時のこと。

 忘れていた、その空白の時間は、閉じていた記憶の解放と共に、はっきりと思い出した。
 
『あー。そうだった、フランツの曲だった』

『フランツなんて言う人いないわよ。みんなリストっていうのに』

『……っ』

『ふふ、珍しい。レオに、分からないことがあるのね!』

『仕方ないだろ。俺、音楽は得意じゃないんだ』

 いつもは、なんでも教えてくれる物知りなレオが、少し恥ずかしそうにする姿が新鮮だった。

 そして、そんな姿に気を良くした私は、レオに教えて上げた。

『フランツ・リストはね、愛に生きた人だったのよ』

『愛に?』

『うん。とてもハンサムで、恋多き人だったの。生涯に二人の女性を本気で愛したのだけど、その二人は、どちらも既婚者だったの』

『え? 既婚者って、不倫てこと?』

『うん。夫のいる女性に恋をしてしまったの。一人目の女性は、マリー・ダグー伯爵夫人。不倫関係になった二人は、駆け落ちまでしてしまったのよ。でも、うまくはいかなかったみたい。次第に不仲になって別れてしまったの』

『駆け落ちまでしたのにか?』

『そうよ。やっぱり駆け落ちなんてしても、うまくはいかないのかもしれないわ。で、その次の愛した人が、カロリーネ・ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人。彼女とは、結婚を考えるほど深く愛し合ったの。でも、カロリーネの夫が離婚を許してはくれなくて、結局、結婚することはできなかった。そして、リストは愛した人を二人も失って、のちに、この曲を作曲したの』

『つまり、失恋ソングってこと?』

『そんなに悲しい曲じゃないわ。この曲はね、もっと壮大な愛の詩よ。親でも、子でも、恋人でも、あなたの愛しい人たちは、いつか必ず死を迎える。別れの時を迎える。その人のお墓の前で嘆き悲しむ時がくるから、愛せるうちに、愛し尽くしなさいと歌っているの』

『愛せるうちに?』

『うん。愛する人が死んでしまえば、そこで愛はおしまい。きっと夢のように儚く消えてしまうわ。だから、もし、レオが戻ってきた時に、私が結婚していたら、私は、もう死んだものだと思って』

『え?』

『私は、離婚はできないわ。だから、その時は、死んだものだと思って、私のことは諦めてほしいの。レオは、また別の愛を探せばいいのよ。別の人と家族を作って、幸せになればいいの。だって、あなたは、私と違って自由なんだから』

 自由に憧れる私は、自由なレオに憧れていた。

 でも、私のその恋心は、同時にレオから、自由を奪ってしまったのかもしれない。

『愛は、死んでもなくならない』

『え?』

『じゃなきゃ、この箱の中にあるモノは、なんだっていうんだ』

 隣に座るレオは、そう言って空っぽの箱を握りしめた。レオのお父様が残した、あの空っぽの箱を……

『ぁ……ごめんなさい。そんなつもりで言ったんじゃ』

『わかってるよ。つまり結月は、俺に不倫も略奪もするなって言いたいんだろ』

『そうよ。だって私は、レオを悪者にしたくないもの。それに、実際にどうすることも出来ないでしょ。結婚したら、私は婚約者の物になるの。人の物をとっちゃダメって、学校でも教わったわ』

『結月は、俺の家族だろ。なら、奪われた家族を、奪い返すだけだ』

『レオ……』

『結月、俺は結月が結婚していたとしても諦めるつもりはない。不倫だろうが、略奪だろうが、なんだってやって、絶対に結月を、この屋敷から救い出す。だから、そんなこと言うな。俺のことを思うなら、死ぬ前に足掻《あが》け。俺が戻ってくるまで、絶対に結婚するな」

『っ……そんな無茶言わないで。私、もうすぐ婚約者が出来るかもしれないのに』

『婚約者ができても、結婚してなきゃそれでいい。結月、弱者は、奪われるだけだ。戦わなきゃ、守れない。俺はもう失いたくない。家族を、結月を、失いたくない……っ』

 そう言って、抱きしめてくれたレオは、少し震えていた。まるで、一人ぼっちは嫌だとでも言うように。

 ねぇ、レオ。
 きっと、あなたは、愛にとらわれていたのね。

 お父様を失って、あの"空っぽの箱"に、愛が入っていると言い聞かせなきゃ生きていけなくなるくらい、心が哀しんでいた。

 そして、私は、そのレオの心につけ込んで、あなたから自由を奪った。

 『約束』という『鎖』に繋いで『愛』という『箱』の中に、あなたを閉じ込めた。

 私も、あなたを、誰にも奪われたくなかったから。

 だって、嬉しかったの。
 あなたが『諦めない』といってくれて。

 自分の手を悪に染めてまで、私を救い出そうとしてくれるあなたが、欲しくてたまらなかった。

 例え、父親の代わりでも、これほどまでに私を愛してくれる人は、後にも先にも、レオしかいないと思ったから。

 だから、私は──足掻いた。

 レオの言うとおり。
 誰の物にもならないように。
 レオだけのものでいられるように

 だけど、その結果


 私は──記憶を失ってしまった。



 記憶をなくした8年間
 私は、人形のように生きてきた。

 レオは一人で戦っていたのに
 何も思い出せず、空っぽな時を過ごした。

 それが、とても──悔しい。
 
 だけど、今ではそれも
 無駄ではなかったと思う。

 だって、記憶をなくしたから

 私は、今ここで、冬弥かれと戦って





 ──ことができる。



 


 ♪──

 ずっと鳴り響いていたバイオリンの音が、ピタリととまった。

 優雅な音色は、ため息が出るほどの甘美な調べ。そして、その演奏の終わりと同時に、冬弥が盛大な拍手を送り始めた。

「素晴らしい! 初めて聴いたけど、プロとして通用するほどの腕前だ。こんなに美しい演奏なら、毎日でも聞きたいくらいだ」

 歓喜する冬弥の声は、とても軽やかだった。

 初めて聞く結月の演奏を、とても気に入ったように見える。だが、そんな冬弥に結月は

「初めてでは、ないはずですよ」

「え?」

「私、この曲を、何度も弾いてあげたんです。結婚の約束をした方に」

「……っ」

 その言葉に、冬弥はゴクリと息を呑んだ。

 結月には、幼い頃、好きな人がいた。結婚の約束した想い人。そして、その好きな人に、冬弥は今、成りすましているから。

「あ……あぁ、そうだった。あまりに昔のことで、つい。何度も聞いていたはずなのに、おかしいな」

「そうですよね。あの頃、私たちは、色々な話をしました。そうだ、私の好きなお花は、覚えてらっしゃる?」

「あ、あぁ、それはしっかり覚えてるよ! 真っ白なユリの花だろ」

「いいえ……白ユリは、私の大嫌いな花です」

「え?」

「幼い頃、よく父にいわれたんです『白ユリのようになりなさい』と。私はそれがとても窮屈で、真っ白なユリの花を見る度に、気が滅入りました。ねぇ、冬弥さん、もう嘘をつくのは、おやめになったら?」

「え?」

「だって、あなたは、私の愛したモチヅキくんではないもの」

「……っ」

 バイオリンを手にした結月が、冬弥を見つめた。

 その表情は、とても穏やかで、まるで女神のよう。だが、その声は、どこかひんやりと冷たく、鋭い氷のように突き刺さる。

「私の想い人に成りすますのは、楽しかったですか? 私を騙して結婚しようなんて、酷い人」

「ち、違う! 俺は確かに君の初恋の相手だ! きっと事故の後遺症で、記憶が混乱しているんだ! だから」

「冬弥さん、私はあの日、足掻いたんです」

「え?」

「8年前、両親に婚約者として、あなたを紹介された時、私は『結婚したくない』と、初めて親に逆らいました。そして、部屋から飛び出した私を、あなたは追いかけてきた」

「っ……」

 その瞬間、冬弥の表情がくずれた。
 血の気が一気に引いて、蒼白した冬弥は、次第に声を震わせる。

「まさか……思い出したのか?」

「はい。全て思い出しました。あなたが、私の初恋の人ではないことも。そして、あの日、あなたが──私をことも」


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