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第18章 巫山の夢
触れたい気持ち
しおりを挟む夜の帳は、すっかり下りて、窓の外には月が優しく輝いていた。
冷えた冬の空は、星がよく見える。
結月は、一人窓辺に立ち、しばらく物思いにふけっていた。
先程まで本を読んでいたが、今日は、あまり集中できなかった。どれだけ文字を追っても、内容が頭に入ってこない。
それでも、普段通りの執事にあわせようと、結月も普段通りを心がけた。
普段通り、食事をして
普段通り、お風呂に入り
普段通り、本を読む
変わらない日常は、あっという間に過ぎ去り、気づけば、もう就寝の時刻。
これが、普段通りなら、このまま眠りにつくのだろう。
だが、胸の奥に巣食う不安が、それを良しとはしてくれない。
「お嬢様」
「……!」
不意に扉が鳴って、声をかけられた。
結月が目を向ければ、慣れた手つきで扉を開けた執事が、一礼して部屋の中に入ってきた。
コツコツと靴の音を響かせて、執事が部屋の中を移動する。すると、少しだけ距離を置いて、主人の前に立った執事は、柔らかく微笑み、また結月を見つめた。
「そのような所にいらっしゃると、お風邪を召されてしまいますよ」
あくまでも執事としての体裁は崩さず、お嬢様として扱われる。
部屋の中は、いつも快適だが、やはり窓辺は少し肌寒い。しかも、今の結月は、真っ白なナイトドレス一枚。だから、余計にそう見えたのだろう。
でも、これが執事ではなく、恋人としてなら、きっと抱き寄せて、直接、温めようとしてくれる。
つまりレオは、このまま執事として、一日を終えるつもりなのだろう。
「お仕事は、もう終わったの?」
そんなレオの意思に沿うように、結月もお嬢様として返事を返せば、レオはまた丁寧に返した。
「はい。先程、全て終えて参りました。あとは、屋敷の戸締りを確認するだけです」
「そう、ご苦労様」
明るい調子で答えれば、その後レオは、結月の視界から去り、部屋のカーテンを一つ一つ閉め始めた。
シャッとレールが滑る音が、窓の前に立つたびに響く。
すると、それを何度か繰り返したあと、再び結月の元に戻ってきたレオは、外を見つながら、結月に問いかけた。
「月を、見てらっしゃったのですか?」
「えぇ、今日は、月がとても綺麗よ」
最後のカーテンを閉める前、名残惜しそうにまた月を見上げれば、レオも、同じように視線をあげ、言葉を返した。
「そうですね。このまま、死んでもいいくらいです」
「…………」
それが、遠回しに、愛してると言っていることに、結月は気づいた。
お嬢様と執事のいう秘めた関係なら、隠語を使うのは、当然だろう。
だけど、今は、その返しをする必要はないはずなのだ。この屋敷には今、自分たちしかいなから。
むしろ、今欲しいのは
そんな遠回しの、愛の言葉ではなくて──…
「ねぇ、執事さん」
「?」
不意に、結月が呼びかければ、レオは驚き、結月を見つめた。
普段とは違う言い回しに、軽く違和感を覚える。なぜなら、いつもは『レオ』か『五十嵐』と呼ぶから……
「はい、如何なさいました」
だが、それでも普段通り返せば、結月は、そのまま話し続けた。
「執事なら、私のお願いは、どんなことでも聞いてくれるのよね?」
「はい。お嬢様のご命令とあらば、どんなことでも」
当たり前のことを、当たり前に返す。
いや、例えお嬢様じゃなくても、結月の願いなら、どんなことでも叶えてやりたい。
俺が、今こうして生きているのは、全て結月のおかげだから。
結月が、俺に『夢』を与えてくれた。
生きる『希望』を与えてくれた。
だからこそ、全身全霊で彼女を守り
愛し抜きたい。
「じゃぁ……私を抱いて」
「……え?」
瞬間、月夜に風が流れた。
微かに窓を揺らす風の音は、掻き消えるくらいのその言ノ葉を、あっさり飲み込んで、結月は聞こえなかったのかと、再度、レオを見つめて、またはっきりと告げた。
「私を、抱いて」
二度目の声は、風にかき消されることなく、冬の夜に溶け込んだ。
凛として、穏やかに。
だけど、どこか、切なげに──…
「……結月?」
予想だにしていなかった言葉に、執事としての装いがあっさり崩れる。
昼間は、声をかけただけで、あんなにビクついていた。きっと、自分の言った言葉に、怯えているのだと思った。
それなのに……
「執事なら、お嬢様の頼みは、なんでも聞いてくれると言ったわ」
「そうだけど……」
同じことを繰り返されて、レオは酷く狼狽する。
予期せぬ望みに、心が震えた。
眠らせていた感情が、まるで火を灯したように熱を持つ。
触れていいなら、すぐにでも
触れてしまいたい。
髪を撫でて、その唇に口付けて、一晩中、彼女を愛し尽くすことは、きっと自分には容易いことだ。
だけど、その触れたい気持ちを抑え、躊躇しといると、結月は酷く不安げな表情で、また話し始めた。
「私、この前言ったわ。冬弥さんには、指一本触れさせないって、必ず無事に、この屋敷に戻ってくるって……あの言葉は、嘘じゃないの。負けるつもりはないし、彼の手篭めにされるつもりもない。でも……っ」
掠れぎみの声と同時に、結月の瞳に、じわりと涙が浮かんだ。
「でも、もしも、上手くいかなかったら……私は、後で絶対……後悔するわ」
どうして、レオに
捧げてしまわなかったのだろう。
どうして、私の初めては
好きな人ではなかったのだろう。
どうして、あの時
私は、言わなかったのだろう──…
きっと、そう後悔する。
「ごめんなさい……こんなこと言ったら、レオが不安になるのは、わかってるの……レオは、私を信じてくれているから、焦らなくていいっていってくれた。それも、ちゃんとわかってる。だから、こんな弱音、吐きちゃダメだって、ずっと思ってた……だけど……万が一を想像したら、やっぱり……怖いの……っ」
「…………」
「だから、お願い……執事のままでもいいから……今夜私を、貴方だけのものにして」
「……っ」
切実な訴えに、レオは胸を痛めた。
自分との間に、子を切望している一族の元に、単身乗り込むことが、どれほど恐ろしいことか、レオだって、それはよく分かっていた。
できるなら、行かせたくない。
だけど、それでも結月は『行く』と言った。
この計画を、無事に遂行するため。
あの両親に、気づかれないため。
なんの不満もない従順なお嬢様を演じ、そして、新たな証拠を手に入れるため。
その身をかけて、結月は今、自由を手に入れようとしてる。
なら、信じて待つしかないと思った。
できる限りの備えをさせて、送り出すしかないと思った。
彼女の覚悟に、水は差したくなかったから……
「結月──」
一日、触れるのを我慢していた手を伸ばせば、結月の真っ白な寝着の裾が、ふわりと揺れて、レオの腕の中に収まった。
抱き寄せた体は、細く、柔らかく。
射干玉《ぬばたま》の髪に顔を埋めれば、甘い香りが、鼻腔をかすめる。
この世界で、一番好きだと思う香り。この世で最も、落ち着く香り。
それを堪能し、もう我慢することのなくなった体を強く抱きしめれば、レオは、結月の耳元で、静かに囁いた。
「愛してる」
さっきは遠回しに告げた言葉を、今度ははっきりと紡げば、結月は、ほっとしたように微笑み、レオの背に腕を回してきた。
月の下で、密かに愛し合う
誰もいない屋敷の中
誰も知らない、初めての夜の始まり
「俺も、結月の全てが、欲しい──」
そして、甘く囁く声は、次第に夜に溶けて、二人見つめ合い、思いが通じ合えば、その唇に口付ける寸前、最後に残されたカーテンを、ゆっくりと閉めた。
まるで、月にすら見せないとでも言うように、愛しい女の姿を覆い隠す。
そして、それは、これから訪れる甘く焦がれるような夜の、始まりを意味していた。
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