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第17章 恋人たちの末路
逢瀬
しおりを挟むそれから、数時間がたち、夜を迎えた屋敷の中は、普段より静かだった。
まるで、昼間のざわめきが夢だったのかと思うほどの、物静かな夜。
だが、それは決して夢ではなく、普段通り、屋敷の業務をすませたレオは、その後、コツコツと靴の音を響かせ、お嬢様の部屋へと向かっていた。
階段を上り、廊下を進む。
すると、その先に、一際、装飾に凝った両開きの扉が見えた。
この屋敷に来てから、何度と出入りした、お嬢様の部屋の扉。だが、見慣れたはずのその扉が、今日は、全く違うものに見えた。
心拍が微かにあがれば、自然と身体は熱を持つ。
なぜなら、やっと思い出したのだ。
結月が、俺のことを──…
──コンコンコン
「……はい」
扉をノックすれば、中から、お嬢様の声が聞こえた。
やわらかく、可愛らしい声。
もう、何度と耳にしたその声を、まるで、咀嚼するように噛み締めた。
結月が、中にいる。
そう理解した瞬間、レオは今一度、呼吸を整え、ゆっくりとドアノブを回した。
この時間、お嬢様は、入浴を終え部屋に戻る。そして、その濡れた髪を乾かすのが、執事としてのレオの日課だった。
毎夜、部屋に訪れては、他愛もない話をした。髪を梳きながら、何度と、思い出して欲しいと、また、俺を愛して欲しいと、心の中で呼びかけた。
だが、その思いも、全て報われた。
できるなら、昼間、抱きつかれた時から、早く二人きりになりたいと思っていた。
だが、いざ二人きりになると思うと、何を話せばいいか、分からなくなった。
それでも扉を開け、部屋に入れば、レオは、普段どおりの所作で、その扉を閉める。
パタン──と扉が閉まった瞬間、結月の香りが鼻孔を掠めた。
お風呂上がりの心地よい香り。まるで、花のようなその香りは、自分がフランスから取り寄せた、入浴剤の香りだ。
執事として仕え、執事として毎夜この部屋に訪れた。
だが、今の自分が、執事として振舞っているのか、はたまた恋人として振舞っているのか、自分でも、よく分からなかった。
部屋の中は、とても静かで、まるで、時間が止まったかのよう。
だが、その心臓は、痛いくらい鼓動を刻んでいて、レオはふと、この屋敷に、初めて訪れた日のことを思いだした。
あの日、レオは、8年ぶりに結月に再会した。
だが、その愛しい人に、レオは「初めまして」と返された。
とても、ショックだった。
忘れられていたことが
なにより、彼女の心の中から、自分が消えてしまったことが。
だけど──…
その後、ゆっくりと振りむけば、レオは、あの日と同じように、結月を見つめた。
だが、レオが目にした時、結月は、もうレオのすぐ側まで来ていた。
あの日は、窓の前に佇み、遠巻きに執事を見つめていたお嬢様。
だが今日は、結月の方から、扉の前まで駆けより、ほんの2メートルほどの近い距離から、レオを見つめていた。
目が合えば、呼吸が止まる。
息もできないくらい、胸の奥から何かが迫り上がってくる。
すると、レオを見て、結月が涙を流した。
まるで、思いが溢れて止まらないというように泣き出す結月をみて、レオは、そっと両腕を広げた。
まるで『おいで』と誘うように
すると、結月は……
「ッ……レオ!」
そう言って、レオの腕の中に飛び込んできた。
何を話せばいいか、分からなかった。
だけど、言葉なんて必要なかった。
レオは、味わい尽くすように結月を掻き抱くと、何も言わず、その熱に溺れた。
髪を撫で、その香りに酔い、ただただ、柔らかな肌に頬を寄せる。
すると、結月は、またレオと名を呼んで、その声を聞いただけで、胸の奥が、熱く震え上がる。
喜びや、愛しさ。
そんな簡単な言葉じゃ言い表させないくらい、火照るような、泣きたくなるような感情。
やっと、思い出してくれた。
やっと、呼んでくれた。
五十嵐ではなく、レオと──
「レオ……ッ、ごめん……ごめんなさい……っ」
だが、その後、結月はレオの腕の中で、何度と謝り始めた。
記憶をなくしていた、8年間の懺悔。
忘れられたくないと泣いといた結月が、レオのことを忘れてしまっていた。
だからこそ、結月は、泣きながら何度と謝った。
だが、レオはそんな結月の身体を、より強く抱きしめると、切なく漏れた、その声を優しく奪う。
「謝らなくて、いい」
「……っ」
そう言って、囁きかければ、結月はまた涙を流し、レオの胸に顔をうずめた。
だが、謝罪なんて必要なかった。
今、こうして思い出してくれた。
だだ、それだけでよかった。
なにより、その姿をみれば、結月がどれほど忘れたくなかったのかが、よく伝わってきた。
忘れたくなかった記憶を
好きな人との大切な約束を
忘れてしまい、思い出せずにいた、この8年間。
きっと、結月も、苦しんでいたのかもしれない。
記憶のない、あの『空っぽの箱』を見つめながら、心の底から、必死に叫んでいたのかもしれない。
忘れないで。
お願い、早く思い出して──と。
✣
ひとしきり抱き合い、その腕を緩めると、レオは濡れた結月の頬に優しく触れ、その涙を拭った。
再び見つめ合えば、少しだけ前かがみになり、顔を近づける。
すると、結月もまた自ら踵を上げ、どちらともなく唇が触れ合わせた。
触れるだけの、優しいキス。
すると、その瞬間、ふと幼い日のことを思い出した。
神様の前で、キスをした、あの日のことを……
病めるときも
健やかなる時も
喜びの時も
悲しみの時も
常に相手を敬い慈しみ
死が二人をわかつまで
愛し抜くことを誓いますか?
そう言って、お互いの中に約束を封じ込めた、あの──別れの日。
だが、まるで子供のようなそのキスは、あの日、別れてから、今日までの苦痛や不安を、全て洗い流してくれるようだった。
甘く、優しく、撫でるように、そっと口づけた、それは、互いの心を癒すように、ゆっくり静かに、二人の中に染み渡る。
「っ……ん」
だが、一度唇を離せば、呼吸をしたあと、また口付けた。
一回では足りないとばかりに、二人は何度と求め合う。
それは、まるで、言葉を交すかのように。
──会いたかった
──うん、私も
──約束覚えてる?
──覚えてる。全部思い出した
──もう、離したくない
──私も離れたくない
──愛してる
──うん。私も、レオを誰よりも愛してる
キスと共に、思いを交わす。
まるで、あの日、閉じ込めた約束を、一つ一つ確認するように。
そして、口付けが止むと、レオは、今一度目をあわせ、結月を抱きしめた。
そして……
「おかえり」
そう言って呼びかければ、結月はレオを見つめて、ほほえんだ。
交わす言葉なんて、その一言で十分だった。
その一言に、全ての思いが込められていた。
「ただいま、レオ……っ」
涙声が響く、静かな屋敷の中。
二人は、8年ぶりの逢瀬を喜んだ。
しばらく肌を寄せ、抱き合えば、結月の瞳からは、また涙が流れ落ちる。
愛しい人を思い出せた、喜びの涙。
そしてレオは、その涙が止まるまでの間、ずっとずっと、結月を抱きしめていた。
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