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第13章 誰もいない屋敷の中で
選べない道
しおりを挟む「消毒、しておきますか? 餅津木冬弥に触れられたところ」
「!?」
その言葉に、結月は目を見開き一驚する。
鏡越しに見つめる執事は、どこか妖しい笑みを浮かべていて、その言葉の意味を理解した瞬間、結月の表情は、サッと色をなくしていく。
「な、なんで……あの時、五十嵐は……っ」
「傍にいなかったのに、ですか? お嬢様、私が何の準備もなく、あの男とお嬢様を二人っきりにするとお思いですか? 今日あったこと、全て知っておりますよ。肩に触れられたことも、交際を申し込まれたことも、そして、お嬢様が──それを承諾したことも」
「……っ」
目の前が、真っ暗になった。
五十嵐は、全部知ってる。何もかも──
「な、なんで、どうやって……っ」
振り向き、執事を見上げた。
すると執事は、またにっこりと笑って
「それは、聞かない方がいいかもしれません。それより、いかが致しますか?」
「え?」
「約束しましたよね。指一本触れさせないようにと……それなのに、肩に触れられたのは仕方ないにしても、自ら、あの男の手を取ったのは、どういうつもりでしょう?」
「……っ」
距離が近づけば、耳元で囁かれた。
今にもキスできそうなくらい、近い距離。
「お仕置きをされたくて、わざと手を取ったのですか? それとも、もう『答え』を決めてしまわれたのでしょうか?」
「……っ」
──答え。
その言葉に、結月はきつく唇を噛み締めた。
どちらを選ぶかなんて、もう……っ
「だって、仕方ないじゃない……ッ。あの時、冬弥さんの手をとる以外に、どう出来たって言うの……!」
涙目になって、思わず声を荒らげた。
「私だって、本当は、好きな人と結婚したいわ! でも、ずっと、こうして生きてきたの! ずっと、お父様の言うことを聞いて、生きてきて……私は、この生き方しか、知らない……っ」
「…………」
「知らないの、分からないのッ……外で生きていく自信なんてないわ! 五十嵐だって分かるでしょ、ろくにパン一つ買ったことがなかったの! ポイントカードのことも知らなかった! バスの乗り方も、電車の使い方も! 知ってるのは、本で得た上っ面な知識だけ! こんな私が、駆け落ちなんて出来るわけなじゃない!!」
「…………」
言葉を紡ぐ度に、結月の瞳からは、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
まるで、苦しいとでも言うように静かに頬を伝う涙は、そのまま服の上に流れ落ちる。
選べる道が、あったらよかった。
でも、道なんて、初めからなかった。
阿須加家の娘として生まれた、その瞬間から……
「……阿須加の会社が、経営不振に陥ってること、五十嵐なら、きっと知ってるでしょ……餅津木家との縁談は、会社を救うことにも繋がる。私のこの縁談には、会社の存続と未来がかかってるの……冬弥さんと結婚しなきゃ、ホテルの従業員たちは、みんな職を失ってしまうわ。この屋敷の使用人達だって……っ」
「…………」
「私のせいで、たくさんの人たちが路頭に迷うのよ……なら、他にどうしろっていうのッ……私にはもう、この道しか……選べない……っ」
涙を流しながら話す結月は、全部わかった上で、受け入れようとしていた。
昔から、こうだった。優しい結月は、いつも他人のことばかりで、自分を犠牲にしてしまう。
選びたい道を選ばず、ただ言いなりになって、心を殺していく。
でも、そんなの……
もう、俺が許さない。
「あんな会社、早く潰れてしまえばいい」
「……!」
するとレオは、ハッキリとそう告げ、結月の涙をそっと拭き取った。
「な……なんてこと、言うの」
「お嬢様、先日のワインの件。旦那様は、従業員のミスだと仰っておりましたが……間違って提供したと責められた、そのホテルの従業員達が、その後、どうなったか、ご存じですか?」
「え……?」
「解雇されました。注文を受けた女性スタッフと、ワインを部屋に届けた新人スタッフの二人が……ですが、私が思うに、彼らはミスをおかしてはおりません。従業員を切り捨てることで、餅津木冬弥の意見を正当化しようとしたのでしょう」
「……っ」
その事実に、結月は小さく身を震わせた。
先日のワインの件で、解雇された人たちがいる。そのあまりの仕打ちに、結月の目からは、また涙が溢れ出した。
「うそ……っ」
「嘘ではありません。お嬢様、あなたのご両親の会社は、そんな会社ですよ。従業員を守る気なんて一切ない。そして、そんなことを、もう何年と続けているんです。例え、お嬢様があの男と結婚したとしても、潰れるのは時間の問題です。それに、あの日、なぜ餅津木冬弥が、お嬢様にワインを飲ませたか、分かりますか?」
「え?」
「旦那様が、結婚をするのは、お嬢様との間に子供を授かってからと、餅津木冬弥に条件を出したからです」
「え? こ……子供を?」
「はい。あの日、俺が駆けつけていなかったら、その後どうなっていたか、もう分かりますよね?」
「………」
あの夜のことを思い出して、結月は息を詰め、そして蒼白する。
そんな条件が出されていたなんて、知らなかった。
じゃぁ、あの夜、自分にワインを飲ませたのは、間違いなく冬弥で、そして、跡継ぎさえ産まれれば、娘の気持ちなどどうでもいいのだと、両親の気持ちを、更に思い知らされた。
「そ、んな……っ」
涙は止まらなくなって、心はどんよりと沈み込む。
するとレオは、そんな結月の前に膝まづくと、震える結月の手を、優しく握りしめた。
「そんな男と、本当に結婚するおつもりですか? いずれなくなる会社のために、お嬢様が犠牲になる必要はありません。それに、お嬢様をこれまで守ってきてくれたこの屋敷の使用人たちは、必ず俺が何とかします。お嬢様が、安心して、この屋敷から出て行けるように……」
気がかりなことがないように、この屋敷を、全て"空っぽ"にして──
「だから……俺を選んで」
「……っ」
目を見つめれば、結月の瞳からは、また涙が伝った。
その優しい声に、痛みを発する心が、少しずつ少しずつ、いやされていくのを感じた。
「知らないなら、わからないなら、全部、俺が教えてあげる。一緒に手を繋いで、色々な場所に行って、色んなものを見て回ろう……買い物なんて、すぐできるようになる。バスや電車の乗り方も、一緒に乗って覚えればいい。行きたかった場所も、見たかったものも、やりたかったことも、可能な限り叶えてあげる……生きるために必要なことは、全部、俺が教えてあげるから。だから、何も心配しなくていい」
不安なことは、全て、この屋敷に置いていけばいい。
困ったら、助けてあげる。
わからないことは、教えてあげる。
いつか俺が、君より先に逝くことがあっても、君が、しっかりと生きていけるように、生きるための不安は、根こそぎ、俺が取り除いてあげる。
だから、少しずつ覚えて、慣らして、進んでいこう。例え、裕福じゃなくても、自由に羽ばたける翼なら、いくらでも与えてあげるから。
だから──
「俺を選べ、結月」
「……っ」
目を合わせると、レオは力強く呼びかけた。
その言葉に、結月は、レオの手をきつく握りかえす。
きっとこれは、許されないことだ。
執事を愛するなんて
彼の手を取るなんて
絶対に、許されない。
でも……
「五十嵐……私を、拐って……っ」
震えた声で、そう言えば、レオは、そのまま結月を抱きしめた。きつくきつく、もう離さないとでも言うように……
やっと、言ってくれた。
やっと結月が、俺だけのものになった。
これで、迷うことなく────君を、奪える。
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「あぁ、どこへだって、連れて行ってあげる」
愛おしそうに呟けば、結月が、そっと目を閉じたのを見て、レオは答えるように、その唇に優しく口付けた。
じわりじわりとせり上がってくる感情は、幼い頃の、あの純粋な恋心と、とても、よく似ている気がした。
きっと、この恋は、交わってはいけない恋。
何もかも捨てて、何もかも捨てさせて、ただ一人だけを、選ぶ『恋』
でも、後悔はない。
例え、この先、どんな業を背負ったとしても
君と一生、愛し合って
生きていくことができるのなら……
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