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第13章 誰もいない屋敷の中で
二つの未来
しおりを挟む次の日の朝──結月が目を覚ますと、そこには、いつもより明るい日の光が射し込んでいた。
気持ちよく晴れた朝。だが、日の高さからすれば、普段起きる時間より、少しだけ遅いのがわかる。
「う……っ」
軽く身じろぐと、結月は気だるい体をムクリと起き上がらせた。
いつもの部屋の、いつものベッドの上。そこから、うつらうつら辺りを見回せば、ふと机の上に目が向いた。
そこに置かれえいるのは、大切にしている、あの"空っぽの箱"と、"ルナ"と名付けた猫のぬいぐるみと、有栖川からかりた文庫本。
だが、その文庫本を目にした瞬間、結月は、昨夜のことを思い出した。
「……ッ」
顔は、無意識に赤くなって、それと同時に体が熱を持ちはじめた。
(あ……私、昨日……五十嵐と……っ)
──コンコンコン。
「!?」
瞬間、扉をノックする音が響いた。
びくりと肩を弾ませ、反射的に返事をすれば、その後、一礼して入ってきたのは──執事の、五十嵐 レオ。
「おはようございます。お嬢様」
「……っ」
いつもと変わらず、平然と挨拶をする執事を見て、結月は信じられないとばかりに目を見開いた。
昨晩、あんなことをしたばかりなのに、どうして、こんなにも普通に振る舞えるのだろう。
「お加減は、いかがですか?」
「……い、いかがって」
「昨晩は、少々無理をさせてしまいましたから、お疲れなのではないかと」
「……っ」
ベッドの側まで歩み寄った執事は、その後、結月の頬に触れ、また微笑みかけてきた。
その手には、昨夜とは違い、しっかりと白い手袋をしている。それなのに、頬に触れたその仕草が、昨夜のそれと同じで、熱く求めるあの姿を鮮明に思い出してしまう。
「ッ……それは、あなたが、あんなことするから」
「そう、怒らないでください。私はキスをしただけですよ」
「っ……だけって」
「むしろ、キスだけで我慢したことを褒めていただきたいくらいです。まぁ、それだけでも十分、熱い夜にはなりましたが」
「ッ……」
その言葉に、結月はより一層頬を赤らめた。ベッドの上に二人でいるせいか、昨夜されたことを、今の自分たちに照らし合わせてしまう。
昨夜、結月は、このベッドの上で、五十嵐に幾度となく口付けられた。
始めは、触れるだけの優しいもの。だけど、それは次第に激しくなって、唇だけでなく、頬や額、首筋など、いたる所に口付けられた。
それは、まるで、身体中に刻みこもうとでもするように……
(ダメ、思い出しちゃ……っ)
距離が近づけば、キスをされた場所が、まるで反応でもするかのように熱くなってくる。
恥ずかしすぎて、どうにかなってしまいそう。
だが、何よりも恥ずかしいのは、執事にキスをされて、いけないことをしていると分かっていたはずなのに、拒絶するどころか『やめないで欲しい』と思ってしまったこと──
「お嬢様」
「……っ」
すると、また執事が話しかけてきて
「そんなに可愛らしい顔をなさらないでください。また、押し倒してしまいそうです。それとも、今からまた続きを致しますか? まだ、しばらく相原たちも戻ってこないでしょうし」
「ッ……続き」
ドン──!!
その後、結月は反射的に執事を突き放すと、慌ててベッドから抜け出した。
窓際まで駆け出し、できる限り距離を取ると、結月は、涙目になりながら、激しく執事を威嚇する。
「五十嵐、あなた、自分が何をしているか分かってるの!? こんなこと、お父様たちに知られたら……!」
「知られたら、なんですか?」
「なんですかってッ……解雇されるに決まってるじゃない! 私は、あなたの主人よ! それに婚約者だっているの! 大体、五十嵐だって、ルイさんという大切な」
「あー、ルイは彼女ではありませんよ」
「──え?」
瞬間、結月は目を見開いた。
「な……なに、言ってるの?」
「ですから、ルイは私の彼女ではありません」
「か、彼女じゃないって……でも、先日」
「あれは、お嬢様が私の彼女に会いたいとおっしゃったので、代役をたのんだだけです」
「だ……代役?」
あまりの出来事に、結月は小さく肩を震わせた。
言葉の意味が、上手くのみ込めない。
「どういう、こと……だって、言ってたじゃない。とても大切な人がいるって……自分を救ってくれた、世界で一番愛しい人だって言ってた相手は、ルイさんじゃないっていうの!」
「違いますよ」
「……っ」
だが、それは、あまりにもハッキリと。
それどころか、寸分の迷いすらなく吐き捨てられたその言葉に、結月は息を詰めた。
ルイさんは、五十嵐の──彼女じゃない?
「……じゃぁ、五十嵐に、彼女はいないの? どうして、そんな……嘘をつくの?」
「…………」
疑心や不安が押し寄せると、目尻に軽く涙が浮かんだ。今まで信じていた人が、まるで別人のように見えた。
あんなにも、彼女のことを愛おしそうに語っていた五十嵐は、何だったのだろう。
五十嵐とルイさんの幸せを、本気で願った自分はなんだったのだろう。
「彼女ならいますよ」
「……え?」
だが、その後、執事はいっそう柔らかな声を放つと、再び、結月の側まで歩み寄る。
「ですが、本当の彼女の名前をいってしまったら、私はこの屋敷に居られなくなりますから」
「本当の……彼女?」
「はい。昨日もお伝えしましたよね。お嬢様とキスをするのは初めてではないと。私の彼女は──お嬢様、あなたですよ」
「え……?」
目線を合わせ微笑む執事は、とても愛おしそうに自分を見つめていて、結月はただ立ち尽くした。
「私が……彼女?」
「はい」
「……あ、頭、大丈夫?」
「ふふ、別に狂ってなどおりませんよ?」
だが、そのあまりにもな回答に、結月が疑惑ありげな視線を向ければ、執事は、これまたにっこりと微笑んだ。
「まぁ……今は、なにを言っても信じて頂けないかもしれませんが、私のこの言葉に、嘘や偽りは、一切ありません。ただ、お嬢様が忘れているだけです。それに、旦那様たちにはバレませんよ」
「え?」
「昨夜のことを知っているのは、私とお嬢様だけです。お嬢様が話さない限り、誰にもバレることはありません」
「……それは、そうだけど」
「お嬢様、私は執事です。私を、この屋敷に残すのもクビにするのも、全ては、お嬢様の手の内にあります。強引に唇を奪った執事の顔など、二度と見たくないと仰るなら、すぐにでも切り捨てて構いませんよ。お嬢様が、もう会いたくないと仰るなら、私は二度と、お嬢様の前には現れません」
「……え?」
もう、二度と──?
「……では、私は、朝食の準備をしてきますので。お嬢様も身支度を整えてください」
そう言うと、執事はあっさりと踵《きびす》を返し、結月の元をさっていく。だが、その姿をみて、不思議と焦りのようなものを感じた結月は、とっさに執事の腕にしがみついた。
「ま、待って! ねぇ、私は何を忘れているの!?」
確かに自分の中には、まだ分からない時間がある。思い出せない──何か。
だが、その質問に、執事は表情を変えぬまま
「話せば、私を選んでくださいますか?」
「……え?」
「全て話したあと、お嬢様は、餅津木 冬弥ではなく、私を愛してくださいますか?」
「それは……っ」
「……どうやら、お嬢様に、まだそのような覚悟はないようですね。ならば、私も話せません」
「……どうして? あなたは、私に思い出して欲しいのでしょう?」
「思い出して欲しいですよ。この屋敷に来て、お嬢様が記憶をなくしているとわかった時から、ずっと、そう願っておりました。ですが、話した上で、お嬢様が、私を選んでくださらなかったら……もう、立ち直れそうにありませんから」
悲しげに囁けば、執事は、また結月の頬に触れ、柔らかく微笑む。
「ですから、どうしても気になるというなら、自力で思い出してください」
「……っ」
優しく触れた手が、また離れていく。それが、何故か無性に寂しく感じてしまうのは、何故だろう。
自分はもっと、警戒しなくてはいけないはずなのだ。この男を──
それなのに……っ
「……もし、私が思い出せなかったら、あなたはどうするの?」
再び、背を向け歩き出した執事に向けて、結月は、再度問いかけた。すると
「……どうもしませんよ。選ぶのは、お嬢様です。この先、餅津木 冬弥と結婚して、好きでもない男の子供を産む人生を選ぶか。はたまた、素性も知れない執事と駆け落ちして、一生束縛された人生を選ぶか──自分の人生を決めるのは、お嬢様ですよ」
「…………」
そう告げた執事は、今度こそ部屋から出ていって、結月は一人残された部屋の中で、ぼそりと呟いた。
「私の、人生……」
駆け落ち──それは、結月だって知っていた。
親も家もなにもかも捨てて、好きな人と逃げる。
まるで夢物語のような、現実離れした提案。
「そんなこと……私に、出来るわけ……っ」
頭の中が、ぐちゃぐちゃだ。
だけど、これだけはわかった。
きっと自分は、これまで五十嵐のことを、たくさん、傷つけていたのだと──
(夕べ……泣いてた)
口付けの合間に目にした、執事の悲しげな表情。
昨夜、五十嵐は、泣きながら自分にキスをしていた。狂おしいくらいの口付けと同時に、涙が頬を伝って、彼の切ないくらいの感情が、キスを通じて流れ込んで来るようだった。
思い出して──と。
もう、忘れないで──と。
(でも……どうして?)
わからなかった。自分が昔、好きだったのはモチヅキ君で、そして、そのモチヅキ君は、あの餅津木 冬弥で──
「っ……何が、どうなってるの?」
上手く、記憶が繋がらない。
分からない。思い出せない。
ねぇ……五十嵐、あなたは誰?
私は、本当に────あなたの恋人だったの?
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