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第11章 執事の誘惑
食べたいもの
しおりを挟むその後、パン屋から戻ってきた結月は、ベンチに腰掛け、深くため息をついていた。
「ごめんなさい、五十嵐。私ったら、まともに買い物も出来ないなんて……!」
顔を覆い隠し、酷く嘆き悲しむ、お嬢様。
そして、執事とお嬢様の間には、パンが5~6個入った袋が置かれていた。
「つまりは、パン屋の店主に薦められるまま、全て買って来てしまったと」
「だ、だって! 全部美味しそうだったし、それにせっかくオススメしてくれたのに、断るなんてできなくて!」
結月にとっては、物珍しいパンの山。
生クリームたっぷりのパンに、こんがり焼かれたチーズがトッピングされたパン。そして、定番のあんぱんやクロワッサンなど。
結局、どれも美味しそうで、迷ったあげく全て買って来てしまった。
「ご、ごめんなさい。こんなにたくさん買ってきても、食べきらないわよね」
しゅんとする結月をみて、レオはくすりと笑みを浮かべた。それに、こうなることは、ある程度、予測していた。
「大丈夫ですよ。余った分は、屋敷に持ち帰って食べればいいですし……それより、お嬢様は、どのパンを召し上がりますか?」
レオが袋の中を覗きこみながら、問いかける。すると結月は
「あ! まずは、五十嵐が選んで!」
そう言って、パンの袋を差し出してきた。
「……ですが、主人を差し置いて、執事が先に選ぶというのは」
「いいの! これ全部、私が食べたいと思って買ってきたやつだし、私はどれでもいいわ! だから、五十嵐が先にえらんで!」
「…………」
色白の頬を赤くし、恥ずかしそうに"選んで"と見つめてくる結月は、かなり可愛いくて、自然と顔が緩む。
だが、そんな胸の高鳴りを気取られぬように、レオはあくまでも「畏まりました」と冷静に返事を返すと、その後、あっさりと袋の中からパンをひとつ選び出した。
結月が、好きそうなパンを──
「では、私はこれで」
「あ、それね。お店の人が新作だっておすすめしてくれたの。ふわふわのパンの中にクリームチーズとラズベリージャムが入っていて、今、とても人気なんですって!」
「そうなんですね。では、また半分こしましょうか?」
「え?」
そう言って微笑みかければ、結月はまた顔を赤くし、パンに視線を落とす。
「い、いいわ。私はこっちのパンを食べるし、それは五十嵐が食べて」
「ですが、お嬢様も召し上がりたいのでは?」
「だ、大丈夫よ! ほら、食べたかったら、また、次に来た時に買えばいいし」
「でも、また次も、あのパン屋がいるとは限りませんよ」
「え? そうなの?」
「はい、移動しますからね、あのパン屋は……(まぁ、来る時間は、だいたい分かってるけど)」
遠慮する結月に、レオはにこやかにそう言うと、更に追い打ちをかけるように、パンを袋から半分だけ取り出し、それを結月の前へと差し出してきた。
「ほら、美味しそうですよ」
「っ……だから、私は」
「でしたら、せめて一口だけでも」
「え、一口?」
「はい」
差し出されたパンを見つめ、結月は迷う。
まぁ、確かに一口くらいなら、いいかもしれない。
「じゃ、じゃぁ、一口だけ……」
「はい。では、このままかぶりついてください」
「えっ! このまま!?」
「そうです。遠慮すると、中のクリームまで届きませんよ」
「……っ」
かぶりつけなどと言われて、結月は戸惑うが、再び「どうぞ」とにこやかに笑う執事を見て、結月は言われるまま、パンを一口だけ口にする。
「ん……」
「いかがですか? お味は」
「うん、甘酸っぱくて、爽やかで、とても美味しいわ!」
執事が手にしたパンを口にし、結月は素直に感想を述べた。
クリームチーズの上品な味わいに、ふわふわの生地と甘酸っぱいラズベリーの香り。
それは、爽やかな甘さと、どこか包み込むような優しい味がした。
だが、その後、執事をみれば、レオは先程、結月に差し出してきたパンを、そのまま自分の口元に運び──パクリと一口。
「い、五十嵐!?」
「はい。何か?」
「な、な、なにかって!?」
自分が食べたパンを、そのまま口にした執事に、結月は酷く動揺する。
だが、その後、平然と言いかえしてきた執事は、あまりにも普通で──
(え? もしかして、私がおかしいの!? 一般人は、みんなこうして、食べたり、食べられたりしているの!?)
再び執事を見れば、さも当たり前のように、二口目を口にして、結月は顔を真っ赤にして俯いた。
まともに、直視出来なかった。
ただパンを食べているだけなのに、なぜか自分が食べられているかのような、そんな錯覚すら覚えて、さっきパンを食べた唇が自然と熱くなる。
「お嬢様、食べないんですか?」
「あ、た、食べます!」
すると、再び執事が話しかけてきて、結月は慌ててパンを取ると、それを半分だけ袋から取りだした。
目の前にある丸いパンは、何のパンだったか、ドキドキと早まる鼓動のせいで忘れてしまった。
(五十嵐……嫌じゃなかったのかな?)
自分が先に口をつけたパンを食べるのは、嫌ではなかったのだろうか?
それとも、これは一般的に『普通』のことなのだろうか?
分からない。
自分には、世間の常識が、よく分からない。
(普通……か)
手にしたパンを見つめたあと、結月は恐る恐る執事に目を向け
「ねぇ、五十嵐……」
「はい」
「その……私のパンも、一口食べてみる?」
思わずそう言って、執事を見つめた。すると
「……ッ」
(え!?)
瞬間、いつもは冷静な執事が、珍しくいつもとは違う表情をして、結月ははっと我に返る。
あの執事が、珍しく動揺している!!
絶対、困らせた!!
しかも、心做しか頬も赤い気がする!!
「(あ、うそ!? 私、何か変なこと言った!?)あの、ごめんね! 食べたくなければいいの! い、今のは忘れ──ッ!?」
だが、その瞬間、執事に腕を掴まれた。
再び目が合えば、執事の端正な顔が、さっきよりも近づいているのに気づいた。
「食べていいんですか?」
「え……っ」
まるで、許しを乞うように、だが、どこか誘うような艶めいた声と表情に、身体全体が熱くなる。
「ぁ……ど、どうぞ」
恥じらい、ただ、それだけ返事をすれば、今度はイタズラめいた笑みを浮かべて、執事はパンを手にした結月の手を更に引き寄せた。
前かがみになった瞬間、執事の髪がさらりと揺れた。
結月は、あまりこの執事が、なにかを食す所を見たことがなかった。
いつもは優雅で繊細な仕草をするのに、口を開けて食らいつく姿は妙に男らしく、それでいてどこか──色っぽい。
(な、なんか……すごく恥ずかしい……っ)
たかだか、一口パンを口にするだけなのに、そのほんの数秒の出来事が、とてもとても長く感じた。
掴まれた腕から、心臓の鼓動が伝わってしまうんじゃないかと言うほど、ドキドキと胸の奥がうるさい。
すると、それから暫くして
「ん、ありがとうございます、お嬢様。こんなに美味しいパンを食べたのは、初めてです」
「そ……そう」
たかだか、100円そこらのパンに何を言っているのか?
だが、その後、腕を離した執事は、またいつものように微笑んで、結月は改めて執事が食べた、そのパンを見つめた。
考えても見れば、自分は今から、このパンを食べるわけで──
「っ……!」
だが、その食べる姿を、真横でじーっと見つめてくる執事に、結月の羞恥心は頂点に達した。
「あ、あんまり見ないで!!」
「ふふ、如何なさいました? お嬢様が食事をされる姿は、毎日のように見ているのですが?」
「そ、それでも、あっち向いてて!!」
顔を真っ赤にして声を荒げれば、執事はハイハイと呆れたように笑って、そっぽを向いてくれた。
それを確認したあと、結月は手にしたパンを、意を決して口にする。
(っ……やっぱり、一口あげるなんて言わなきゃよかった)
ゆっくりパンを咀嚼しながら、結月は後悔する。
きっと、美味しいはずなのに、あまりにドキドキしすぎて、そのパンの味が、全くわからなかったから。
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