お嬢様と執事は、その箱に夢を見る。

雪桜

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第7章 夢の中の男の子

腕の中

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 一瞬、何が起こったのかわからなかった。

 突然、温かな感触に包まれたかと思えば、執事にきつく抱き締められていた。

 左手が背中に回ると、右手が優しく頭にそえられた。

 まるで、腕の中に閉じ込めるかのように、抱き寄せられて、溢れていた涙が一瞬にしてひっこむと、混乱していた思考は、まるで塗りつぶされたかのように真っ白になった。

「ぃ、がら……し?」
「お嬢様、落ち着いてください」

 涙でいっぱいになった目を大きく見開くと、その瞬間、ひどく穏やかな声が響いた。

 抱きしめるその腕の力とは対照的な、とてもとても優しい声──

「俺の心臓の音が聞こえますか?」
「…………」

 そう言われ、結月は、錯乱していた意識をゆっくりと自身の耳に集中させる。

 すると、その胸の奥で、トクン、トクン……と、穏やかな心臓の音が聞こえてきた。

 規則正しいその音は、鼓膜を伝って脳内に入り込むと、結月はゆっくりと目を閉じた。

 その音は、どこか懐かしい音がした。

 なんだか、泣きたくなるような、そんな優しい鼓動──

「俺の心臓の音に耳を傾けて、ゆっくりと息を吐いてください。……大丈夫、落ち着いて」

「…………」

 そう言って、そっと頭を撫でられると、急に力がぬけて、結月は言われるまま、ゆっくりと息を吐いた。

 その鼓動に呼吸を合わせるように、長く規則的に息を吐く。すると、バクバクと暴れ回っていた心臓は、少しづつ少しずつ、穏やかなものに変わっていく。

「そう、ゆっくり……」

 まるで、子供をあやすように──

「暫く、このままでいましょうか?」

「……しばら……く?」

「はい。お嬢様が、落ち着くまで──」

「…………」

 ──落ち着いたら、離れてしまうの?

 そう思うと、ひどく名残惜しく感じた。

 こうして抱きしめられていると、不思議とさっきまでの恐怖心がなくなって、不安が少しずつ少しずつ和らいでいくのを感じた。

(誰かの腕の中って……こんなに、安心するの?)

 前の執事に抱きつかれた時は、恐怖しか感じなかった。
 それなのに、どうして五十嵐だと、こんなにも、満たされた気持ちになるんだろう。

(……温かい)

 服越しに肌と肌が触れあえば、結月はその熱に安堵して、またゆっくりと息を吐いた。

 五十嵐に抱きしめられていると、不思議と安心する。

 温かくて
 優しくて

 こうしていると、なぜか、涙が出そうになる──





 ✣

 ✣

 ✣


 結月が瞳を閉じると、その瞬間、目尻に滲んだ涙を見て、レオは労わるように優しく髪を撫でた。

 ずっと、こうして、抱きしめたいと思っていた。

 だが、あくまでも自分は

 今だって、お嬢様の身体を労るという名目でしか抱きしめられないし、触れる時は必ず手袋をして、布一枚隔てなくては、触れることすら叶わない。

 それでも、こうして静かに身を委ねる結月を見れば、不謹慎だとは思いつつも、喜びを感じずにはいられなかった。

(このまま、時間が止まればいいのに……)

 もう離したくないとばかりに、隙間なく抱きしめた。

 二人床に座り込んだまま、数分間抱き合っていると、しばらくして、カーテンの隙間から差し込んだ光が、少しだけ明るさを増していることに気づく。

 ふと視線を上げれば、昨日、結月に捧げたヤマユリの花が、机上で誇らしげに咲いていた。

 泣きながら訴えてくる結月を見て、一瞬思い出したのかと思った。

 いや、思い出したのだろう。
 ほんのの記憶だけ。

 だが、中途半端に思い出してしまったが故に、混乱させて、泣かせてしまった。

(……このまま続けて、大丈夫だろうか?)

 自分の胸にぴったりと耳を押し付け、呼吸を整えようとする結月。その姿を見つめながら、レオは迷う。

 ずっと、思い出して欲しいと思っていた。

 だからこそ、二人の思い出を少しずつ与え続けてきた。

 甘ったるいチョコレートも
 二人きりの公園も
 指切りも
 ヤマユリの花も

 全て全て、思い出すきっかけになればと、集めてきた二人の思い出だ。

 だけど、無理矢理、思い出させることは、結月の脳や心に負担をかけるのかもしれない。

 そう思うと──決心が鈍る。

 あの頃の二人の逢瀬を知るものは、誰一人いなかった。

 結月の親はもちろん、使用人たちですら。

 誰にも気づかれないように、こっそりと会い続けたそれは、二人しか知らない秘密の繋がりだった。

 だからこそ、結月が記憶を失ったあと、そのことに触れるものなどいるはずもなく。

 その半年間、ずっと屋敷の中で変わらない生活をしてきたと言われていた結月にとって、いきなり現れた『非現実的な記憶』は、受け入れようとしても、そう簡単に受け入れられるものではなかった。

「五十……嵐?」
「……!」

 すると、不意な結月が声を発して、レオはまた結月を見つめた。

「……落ち着きましたか?」

 我に返り、結月を抱きしめていた腕の力を、すこしばかり緩める。

 これ以上、抱きしめていてはいけない。

 どんなに彼女に触れたいと思っていても、これ以上、執事としての体裁を犯してしまったら、自分はもう、結月の側にいることすら出来なくなるから……

「……!?」

 だが、離れようと手を離した瞬間、結月が、レオの服を掴み、それを阻んだ。

 まるで、離さないで──とでも言うかのように、再び、レオの胸に顔を埋めた結月をみて、レオはとっさに息を詰める。

「……っ」

 そんなこと、しないでほしい。
 そんなことをされたら、期待してしまう──

 もしかしたら、また、俺の事を好きになってくれるんじゃないかって

 たとえ、記憶がなくても
 たとえ、結ばれてはいけない関係だとしても

 また、俺のことを
 愛してくれるんじゃないかって──

(っ……結月)

 一度、離れかけた腕を再び背に回すと、レオは応えるように、またきつくきつく結月を抱きしめた。

 決して届くことのない思いを胸に秘めたまま、二人は、その後しばらく、お互いの熱を感じあっていた。

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