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・第十六話「蛮姫入浴し毒牙と戦い己の内面を考えさせられる事(前編)」

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「ふはあああああ……ぁおぉおおおん……」

 猫が延びをするような、というには少々大きな、さながら正に獅子が欠伸をするような声を挙げて、アルキリーレはその日の兵達への調練を終え帰宅後、入浴した湯の中で手足を伸ばし声を挙げた。

「この浴場テルマエという奴は実に良か。これだけで帝国に来た値打ちがあり申す……」

 何しろカエストゥスの屋敷の浴場テルマエは公衆浴場テルマエの巨大さと宮殿の豪奢さを併せ持つ圧倒的な代物だ。神秘と文明の力を併用し脱衣室アポディテリウム等は総冷暖房可能な上、微温浴室テピダニウムには岩盤を備えレーマリア風蒸し風呂ラコニクムを備え、冷水浴室フリギダリウム高温浴室カルダリウムもある。

 更に加えて今アルキリーレが利用しているのは高温浴室カルダリウムだが、船程の大きさも有ろう湯船が更に複数。鉱泉おんせん、薬草風呂、薔薇風呂、季節の風呂等がある程だ。

「ほぐれる……堕落しそうずっさらしくなりそうな程じゃ……」

 あの程度の手合わせ、アルキリーレからすれば遊びのようなものだが、やはり体を動かした後の風呂は心地よい。あまりに気に入ったものだから、都度肌に残った湯を流しながら、ついつい各湯船を一巡りしてしまう。

 北摩ホクマは水浴びか冬のクソ寒い時用の北摩ホクマ蒸し風呂バーニャだけだった事を思えば天国ヴァルハラも同然というものだ。

「……天国ヴァルハラか」

 天国ヴァルハラ北摩ホクマ多神教ヴィドガムが語るあの世。崇拝の道を全うした……即ち大概の場合勇猛に戦い抜いて死んだ者が辿り着く場所。そこで人はこの世を各々の守る英霊となり、戦う者は永遠の戦士となって生前勇猛故に好んだ戦いを永遠に味わう事が出来るという、他国の者からすれば実に苛烈な天国。

 ふと物思いする。あんな馬鹿らしい死に方をしてたまるかと北摩ホクマを飛び出したが。今、己は何故生きるのか。何故、カエストゥスを助けて戦うのかと。

 何もかも捨てたという意味ではここは天国ヴァルハラで、己は死後の戦いをしているのだろうか。

 それとも、北摩ホクマを投げ出し最早生きる理由も死ぬ理由も無いと思ったが故にこんな事をしているのであれば、天国ヴァルハラに行けなかった者が辿る、完全なる消滅への道筋を辿っているのだろうか。

 そう。成し遂げ全うしなかったものは、誰からも忘れられ、魂一つ残さず消滅する。それが北摩ホクマ多神教ヴィドガムの苛烈な教義だ。何もかもが崇められうるという事は、崇められるに足る事を成し遂げなかった者には言い訳が出来ないという事だ。誰にも崇められない者、誰からも忘れられた死者は存在している

 狼は群れに尽くす。羆は己を貫く。大鷲は高みを目指すというように、象徴トーテムにより戦士も目指す所は違う。……獅子は、己を示すという。己が示すべき何かを見出し、それを示す事を目指す象徴トーテム

おいは、何故なして……」

 一人になればアルキリーレも己の心と向き合う。そうだ。何者にも負けぬ強き蛮姫も心があるのだ。社会の基準に酔い思考と心を自動化した愚かな存在ではない。

 カエストゥスを助けたのは、実質かなり成り行きだ。偶然が恩義を生み、恩返しの連鎖がペルロやレオルロとの出会いの連鎖を生んで。

(俺にとって、あいつらは何なんだろうか)

 助言しようと思ったのは何故だ。退屈紛れか。戦がしたかったのか。それとも。

 この胸に疼く感情は何だ……あいつらを大切に思っているのか? だとしたら、何故だ。故郷で戦乱に虐げられる民を守ると思った時も、何故そう思ったのかもう思い出せない。

俺は、それが、分からない・・・・・・・・・・・・・

 まるで誰もが知っているものを自分だけが知らないような違和感。いや、実際そうなのだろう。……カエストゥスやペルロやレオルロが向けてくる感情も。慈悲、道義、美学、矜持、仁慈、義、友情、尊敬。……それ以外。

 今まで与えられた事の無い感情・・・・・・・・・・・・・・……


「お湯、失礼します……」

 思考を巡らせ湯船でぼんやりしていると、他の女が浴場テルマエに入ってきた。体を流し終えて湯船に入る。実際このどう考えてもカエストゥス一人では持て余すのではという浴場テルマエ、彼に惚れ従う女達皆が好きに使っている。この屋敷に従者はいないが女達が連れてくる従者等は居てそれがこの屋敷や浴場テルマエを維持しているとも言えるのだが、彼等も流石に女性陣が居ない時だが使ってはいるらしい。

 実際アルキリーレは時々この浴場テルマエでカエストゥスの元に集う女達と交流してきた。

 アルキリーレはピンと来ていないとはいえ落ち着いて考えたり改めて考えたりするまでも無くかなりややこしい関係なのだが、そもそもカエストゥスという男が遍く与え来る者を拒まず来る者を皆満たしてきた男である為に、ある意味まあ女達は慣れっことなって何となく問題無い人間関係が成立していた。

 女達は実際貴族から学者から尼僧から平民からまで、失恋の痛手を癒して貰ったものから学術議論をしあった仲から商売を助けられた者からカエストゥスに裁判で弁護して貰い無罪を勝ち取れた者まで色々居て、そこに異郷の蛮族が一人加わろうがまあ大差ないと言うか。アルキリーレからすればそれら女性達の様々なレーマリアにおける人生の多様性は実に興味深く、彼女達から見たアルキリーレも愛する人の命の恩人であり彼の為に戦うという自分達に出来ない事が出来る人である為、相互に大事に思い仲良くする理由と感情の有る関係になっていた。

「ん、おお」

 そう言って湯船に入る女を迎え入れるアルキリーレは新参なのに堂々としすぎではないかという気もしないでもないが、何しろまあ元王様なのだ。王であった頃は誰一人近づける事は無かったがそこは他の女達も分かって容認している。

 恋多き女でありながら情が濃すぎて奉仕しようとしすぎたり逆に手練手管を弄しすぎたりと毎回上手くいかずに居たしっとり柔らかな赤毛と影のある美貌、細身なのに一際胸の大きな貴族の子女カザベラ・ツァルスフォは大人の優しさがある。

 カエストゥスとペルロの活動で教会に新風が吹き旧弊な学舎の論が退けられた事で改革を成し遂げ、幼馴染みでもある二人と議論を交わすようになった結い上げた麦藁色の髪が特徴で細身の女性学者ハイユの知的な在り方は尊敬に値する。

 修道女シスターであると同時に神秘より酒造りが一番の得意でカエストゥスに資金援助を受けて醸造所を創業した茶の短髪で豊満なオルヴァは物腰柔らかで明るく飲み仲間に持ってこいな性格だ。

 西馳ザインの生け贄と黄金を貪る白い肌の征服支配階級とは別の土着在来民族特有の赤銅色の肌をした引き締まった体に何房にも編み上げカラフルなリボンとバンダナで黒髪を飾った陽気で面白い性格の商人のマアリはムードメーカーだ。

 むくつけき武将共と張り合いながら育ち性別がばれるのを恐れて女を近づけなかったアルキリーレからすれば何れも好ましく喜ぶべき同性の友達だ。彼女達からしても、アルキリーレは美しいだけで無く強く凜々しく女性から見ても魅力的な面がある存在だった。

「見慣れん顔ばい。誰ぞ?」

 が、この時浴室に入ってきた女二人は、その誰でも無かった。

「い、イテリーナ・ツァルスフォです。カザベラの妹の。姉に用事があって領地から来て、折角だから泊まっていけって……」
「イテリーナ様にお仕えする侍女のアラミと申します。お嬢様と共々、お世話をさせていただきたく思います」

 二人を長い金の睫を瞬かせ、青空色の瞳が見つめる。イテリーナと名乗った小柄な少女は成る程姉に似ている。姉と違ってやや眉が短く額が秀でて食が細いのか肋が浮く程の胸の薄い細身、困り顔の印象はあるが中々可憐だ。アラミと名乗った女は波打つ暗褐色の髪、アルキリーレよりやや年上で背はイテリーナとアルキリーレの中間、侍女と言うには派手で妖艶な踊り子じみた美女だ。二人とも金の指輪をしていた。

「成る程のう」

 ぺたぺたと足音を立てると、ちゃぽんと小さく湯を揺らしてイテリーナはアルキリーレの隣に入った。アラミは二人と別の湯船に音も立てず入る。

「あ、姉から聞いております。アルキリーレ様。新しくカエストゥス様のお屋敷に入られた方で、強い北の王だと」

 元だがな、とアルキリーレは思ったが、別に訂正はせぬ。

「す、凄いなあ……」

 周囲を見回し、そしてアルキリーレを見て、イテリーナは呟いた。

 小柄で華奢な彼女からすれば、長身で、スタイルが良くて……

 そう思ってアルキリーレの体に近づこうとして、少女は息を呑んだ。

 アラミは短時間で湯船から上がり、二人の背後で体を洗う用具を整え始めた。

「ああ、凄か薔薇風呂じゃ。ここは特に香りが良か故、最後には必ずこん薔薇風呂に入るようにしておる」

 鉱泉や薬湯も体に良いが、都の人間は身だしなみを尊ぶしのう、とアルキリーレは周囲を見回したイテリーナが薔薇風呂に感嘆したものと思ったかの如き様子で、花弁が浮かび薔薇水が香る様子を愛でる。

故郷ホクマにあるのは足を滑らす朽葉の貯まった深く冷たか沼でな。一際森の奥に行けば黒いロトスが咲く沼もあっが、そこは朽葉の貯まった冷たか沼より危険じゃ。黒いロトスには毒があり、近づく者を眠気で溺死させ、沼の養分とすっ。邪知ば持つ者は防毒面ば付けてそんロトスば取り、人ん心を快楽の夢に静める麻薬ば作っと」

 だが次いでアルキリーレが唇に乗せたのは、薔薇風呂を見ながら連想するにはあまりにも殺伐とした話題だ。イテリーナはどきりとする。まるで北の沼に浸かっているように湯の中で身を震わせた。

「毒つ言えば、ロトス以外にも蛇にもあるわい。蛇毒には二種類あっと。肉の毒と神経の毒じゃ。肉の毒は身をねまらせよるで見れば蛇毒と分かるが、神経の毒は急に心臓や肺が止まっとせいで病死わらじにに見えるこつもありもうす」

 獅子の眼光が近づけずに怖じ気づいたイテリーナと、背後に忍び寄ってきていたアラミを振り返って視界に収め射竦めた。

「そいで指輪に仕込んだ毒針は、やはり神経毒かの?」

 イテリーナの自然に見せかけた接近もアラミが奇妙な程水音を立てず背後に回った事も二人がその主従には不自然な揃いの指輪に毒針を仕込んだ刺客である事も、何もかも見抜いて。


 ばっしゃあんっ!
「きゃああああああっ!?」
「ああああああっ!?」

 直後、水音とイテリーナ達の悲鳴が響き渡った。
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