月(ルナ)は笑う――幻想怪奇蒐集譚

浦出卓郎

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第一部

第三十八話 人魚の嘆き(4)

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「これまで彫ったことがないからわからん」

「じゃあ、お任せってことか」

「ちょっと待て、そういうわけにもいかない。まず、考えさせてくれ」

 さすがに変なものを彫られても、迷惑この上ない。

「めんどくさい子ね」

 シンサンメイは顔を顰めた。

「後から直すことは出来ないんだから、俺だって迷うさ。どんな図柄があるんだ?」

「直す方法もないではないけどねー。そうだねえ……蝶とかポピュラーだよ」

「俺は男だ。らしくない」

 俺が言下に否定した。

「そんなことないよ。蝶柄は結構男性にも人気でね」

 いかにも楽しそうにシンサンメイは話続ける。

「そうか、だが俺がいらんのだからいらん」

 俺は頑固に言い張った。

 当時は一度言ったことは曲げん性格でな。

 今もそうだと?

 うるさい黙ってろ。

「そうか……じゃあ人魚ならどう?」

「人魚か……弱そうだな」

 もっとこう、狼とか熊とか、想像上なら龍とか、強そうな生き物じゃないと、わざわざ彫るんだから割が合わない気がした。

「いやいや、人魚は強いんだよ。大海を漂流する船の乗組員を歌で誘惑して沈めたりする。古の英雄だって苦戦したようだよ」

「自分の力を使うわけじゃないから卑怯だ」

「なんつーか凄いね。そんな風に考えちゃうんかい」

 シンサンメイは呆れたように髪に挿した櫛を弄った。

「じゃあ、俺の彫る人魚に纏わる謂われを訊く?」

「そんな謂われがあるのか」

「ある。この墨にはね。実在の人魚の力が込められているんだ。そしてね、この墨では人魚しか描けないようになっている」

 俺は信じなかった。

「墨に何で力が籠もってるんだ」

「さあ、この世の中には幾らでも不思議なものがあるからね。でも、ある人から渡されたものなんだとは言っておこうか」

「ある人から?」

「不思議な人だったね。いや、人と呼んじゃうと悪いか。だって人魚だったもの」

 シンサンメイは訳のわからないことを話す。

「詳しく話せ」

「故郷にいた頃だったね。海岸に傷ついた人魚が横たわっているのを目にしたんだ。手当をしてやったら少し話せるようになったんだ。なんでも人魚は海で死んだら泡に変わるけど、陸で死んだら墨になる。その墨を俺にやると言うんだ。俺が刺青師だって、瞬時に見抜いたようだ」

 シンサンメイは滔々と述べ立てる。

「その墨がつまり」

「そう、今俺が持っている墨なんだよ。人魚の身体は段々乾涸らびて砕けて、黒い粉になった。それをまとめて溶かしたものを今も持っている。相手を選べ、決して純粋ではないやつに使うなと言っていたからね」

「つまり、俺が純粋だと?」

 気恥ずかしかった。だが、同時に眉唾でもあった。

「俺の見立てだとそうだね。まだ若いから、将来性もある」

「その墨を使ったらどうなるんだ?」

「人魚の加護を得るみたいなことを長々と言っていたなぁ。メモしてないからあんま覚えてない」

 シンサンメイはいい加減だ。

「人魚の加護か」

 何とも納得しがたくはある。

 だが。

 ここで急に俺の中に冒険心が湧き起こった。

「やってみよう」

「ほう、良いねえ少年。それでこそ漢《おとこ》だ」

「力を得られるって言うんならな。他にはそんな墨はないんだろ?」

「まあね。そう簡単に手に入ったら、今頃俺はこんなとこで刺青なんて彫っちゃいない」

 シンサンメイは気怠そうに言った。
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