346 / 526
第一部
第三十三話 悪魔の舌(4)
しおりを挟む
「お前の妻と娘を甦らせてやろうか」
驚きました。私はその所内では過去のことを何も話していなかったから。おそらく瞬時にして私の頭の中を読みとったのでしょう。薄気味が悪くなりました。
「いえ」
私は即答していました。この世ならぬ存在からの誘いであるとすぐにわかったからです。
「酷い殺され方をしたのだろう。昔に戻りたくはないのか? お前は心の裡でそれを望んでいるはずだ」
悪魔は上を向きながら喋っています。
天井を見詰めて。
牛の口から舌が大きく伸びて、梁を舐めていました。それは記憶にある牛の舌とは全く長細いものでした。
応じませんでした。
あまり会話を続けると、そちらのたくらみに飲まれてしまうと思ったからです。
周りを見回しました。牛の肉を断つ包丁が一本ありました。木製の俎板に突き刺さっています。
私は素早くそちらへ寄り、包丁を抜きました。
舌はどんどん長くなって天井の隅で曲がり、二重三重に囲んでいきました。
気味が悪くなった私は机の上に飛び乗り、素早く近付いて、背中を伸ばし、舌を断ちました。幸い身長が高かったもので、難なく届いたのです。
空気を裂く叫び声が部屋中に轟き渡りました。耳が聾されたかと思いましたが、私はなおも包丁を振るいます。
寸断された舌がハラハラと床や机の上に落ち、その欠片が牛と牛がずらずらと吊り下げられている列の間にも飛び散りました。
悪魔はやがて姿を消しました。それは詰まり吊られていたただの牛に戻ったということです。
私はその舌を何枚か拾って、懐へと隠しました。
あれだけ大きな音を立てたのに、所内の人は誰も気付いていませんでした。なので幸いにも叱責されることはありませんでした。
おそらく私の頭の内でだけ響いた音なのかも知れません。
その後はとくに不思議な出来事は起こりませんでした。
しかし、数日して夢を見たのです。
先日と同じ場所に、私はまた立っていました。血まみれの牛の頭が、今度は真正面から見詰めてきました。
「会いたくないのか。妻と娘に」
牛の瞼にはどす黒い血がこびり付いています。
薄く開いた口から細い舌が見えていました
「嫌だ」
私は断りました。
「なぜだ?」
「死んだ者は甦らない」
収容所でそれは痛いほど知りました。
甦ったとして、死んだ時の姿のままだったとしたら、私は妻と娘を直視することができないでしょう。
「甦るさ。悪魔の力なら」
「お前の力は頼らない」
「残念な奴だ」
悪魔は私を罵りました。
「幾ら罵ろうが悪魔の力は借りないぞ」
私は掌を合わせ、神に祈りました。
すると牛の口から血を含んだ泡がこぼれ落ち、その姿は徐々に闇の中へ埋没していきました。
そこで目が覚めたのです。
自分が呪われているに違いないと信じた私は教会に足を運び、神に祈りを捧げる毎日を送りました。以前は日曜日にたまに足を運ぶぐらいだったのに。
ほうぼうを回って、身の上話をし、悪魔に魅入られてしまった場合、どうしたらいいのか訊きました。
でも、具体的な答えを言ってくれる方は見つかりませんでした。
悪魔の夢を見る回数はますます増えていきました。
驚きました。私はその所内では過去のことを何も話していなかったから。おそらく瞬時にして私の頭の中を読みとったのでしょう。薄気味が悪くなりました。
「いえ」
私は即答していました。この世ならぬ存在からの誘いであるとすぐにわかったからです。
「酷い殺され方をしたのだろう。昔に戻りたくはないのか? お前は心の裡でそれを望んでいるはずだ」
悪魔は上を向きながら喋っています。
天井を見詰めて。
牛の口から舌が大きく伸びて、梁を舐めていました。それは記憶にある牛の舌とは全く長細いものでした。
応じませんでした。
あまり会話を続けると、そちらのたくらみに飲まれてしまうと思ったからです。
周りを見回しました。牛の肉を断つ包丁が一本ありました。木製の俎板に突き刺さっています。
私は素早くそちらへ寄り、包丁を抜きました。
舌はどんどん長くなって天井の隅で曲がり、二重三重に囲んでいきました。
気味が悪くなった私は机の上に飛び乗り、素早く近付いて、背中を伸ばし、舌を断ちました。幸い身長が高かったもので、難なく届いたのです。
空気を裂く叫び声が部屋中に轟き渡りました。耳が聾されたかと思いましたが、私はなおも包丁を振るいます。
寸断された舌がハラハラと床や机の上に落ち、その欠片が牛と牛がずらずらと吊り下げられている列の間にも飛び散りました。
悪魔はやがて姿を消しました。それは詰まり吊られていたただの牛に戻ったということです。
私はその舌を何枚か拾って、懐へと隠しました。
あれだけ大きな音を立てたのに、所内の人は誰も気付いていませんでした。なので幸いにも叱責されることはありませんでした。
おそらく私の頭の内でだけ響いた音なのかも知れません。
その後はとくに不思議な出来事は起こりませんでした。
しかし、数日して夢を見たのです。
先日と同じ場所に、私はまた立っていました。血まみれの牛の頭が、今度は真正面から見詰めてきました。
「会いたくないのか。妻と娘に」
牛の瞼にはどす黒い血がこびり付いています。
薄く開いた口から細い舌が見えていました
「嫌だ」
私は断りました。
「なぜだ?」
「死んだ者は甦らない」
収容所でそれは痛いほど知りました。
甦ったとして、死んだ時の姿のままだったとしたら、私は妻と娘を直視することができないでしょう。
「甦るさ。悪魔の力なら」
「お前の力は頼らない」
「残念な奴だ」
悪魔は私を罵りました。
「幾ら罵ろうが悪魔の力は借りないぞ」
私は掌を合わせ、神に祈りました。
すると牛の口から血を含んだ泡がこぼれ落ち、その姿は徐々に闇の中へ埋没していきました。
そこで目が覚めたのです。
自分が呪われているに違いないと信じた私は教会に足を運び、神に祈りを捧げる毎日を送りました。以前は日曜日にたまに足を運ぶぐらいだったのに。
ほうぼうを回って、身の上話をし、悪魔に魅入られてしまった場合、どうしたらいいのか訊きました。
でも、具体的な答えを言ってくれる方は見つかりませんでした。
悪魔の夢を見る回数はますます増えていきました。
0
お気に入りに追加
9
あなたにおすすめの小説
その転生幼女、取り扱い注意〜稀代の魔術師は魔王の娘になりました〜
みおな
ファンタジー
かつて、稀代の魔術師と呼ばれた魔女がいた。
魔王をも単独で滅ぼせるほどの力を持った彼女は、周囲に畏怖され、罠にかけて殺されてしまう。
目覚めたら、三歳の幼子に生まれ変わっていた?
国のため、民のために魔法を使っていた彼女は、今度の生は自分のために生きることを決意する。
愚者の哭き声 ― Answer to certain Requiem ―
譚月遊生季
ホラー
※この作品は「敗者の街」第一部のネタバレを含みます(どちらから読んでも楽しめる作品にしたいとは思っています)
敗者の街はこちら↓
https://www.alphapolis.co.jp/novel/33242583/99233521
これは、死者たちの物語。
亡者だらけの空間に、青年は迷い込んだ。
……けれど、青年は多くのものを失いすぎていた。名前も、記憶も、存在も不安定なまま、それでも歩みを進める。
混ざり合う自我、終わらない苦痛、絡みつく妄念……
「彼ら」は砕け散った記憶を拾い集め、果たして何を見つけたのか。
……なぜ、その答えを紡いだのか
《注意書き》
※ほか投稿サイトにも重複投稿予定です。
※「敗者の街 ― Requiem to the past ―」のスピンオフ作品です。ネタバレを多分に含みますので、ご容赦の上お読みください。
※過激な描写あり。特に心がつらい時は読む際注意してください。ちなみに敗者の街よりグロテスクです。
※現実世界のあらゆる物事とは一切関係がありません。ちなみに、迂闊に真似をしたら呪われる可能性があります。
※この作品には暴力的・差別的な表現も含まれますが、差別を助長・肯定するような意図は一切ございません。場合によっては復讐されるような行為だと念頭に置いて、言動にはどうか気をつけて……。
※特殊性癖も一般的でない性的嗜好も盛りだくさんです。キャラクターそれぞれの生き方、それぞれの愛の形を尊重しています。
※段落での字下げをしていませんが、なろうのレイアウトだと字下げをした文章が読みにくく感じるという私の感覚的な問題です。
勇者一行から追放された二刀流使い~仲間から捜索願いを出されるが、もう遅い!~新たな仲間と共に魔王を討伐ス
R666
ファンタジー
アマチュアニートの【二龍隆史】こと36歳のおっさんは、ある日を境に実の両親達の手によって包丁で腹部を何度も刺されて地獄のような痛みを味わい死亡。
そして彼の魂はそのまま天界へ向かう筈であったが女神を自称する危ない女に呼び止められると、ギフトと呼ばれる最強の特典を一つだけ選んで、異世界で勇者達が魔王を討伐できるように手助けをして欲しいと頼み込まれた。
最初こそ余り乗り気ではない隆史ではあったが第二の人生を始めるのも悪くないとして、ギフトを一つ選び女神に言われた通りに勇者一行の手助けをするべく異世界へと乗り込む。
そして異世界にて真面目に勇者達の手助けをしていたらチキン野郎の役立たずという烙印を押されてしまい隆史は勇者一行から追放されてしまう。
※これは勇者一行から追放された最凶の二刀流使いの隆史が新たな仲間を自ら探して、自分達が新たな勇者一行となり魔王を討伐するまでの物語である※
ユイユメ国ゆめがたり【完結】
星乃すばる
児童書・童話
ここは夢と幻想の王国。
十歳の王子るりなみは、
教育係の宮廷魔術師ゆいりの魔法に導かれ、
不思議なできごとに巻き込まれていきます。
骨董品店でもらった、海を呼ぶ手紙。
遺跡から発掘された鳥の石像。
嵐は歌い、時には、風の精霊が病をもたらすことも……。
小さな魔法の連作短編、幻想小説風の児童文学です。
*ルビを多めに振ってあります。
*第1部ののち、番外編(第7話)で一旦完結。
*その後、第2部へ続き、全13話にて終了です。
・第2部は連作短編形式でありつつ、続きものの要素も。
・ヒロインの王女が登場しますが、恋愛要素はありません。
[完結しました。応援感謝です!]
真巨人転生~腹ペコ娘は美味しい物が食べたい~
秋刀魚妹子
ファンタジー
お腹が直ぐに空く女子高生、狩人喰は修学旅行の帰り道事故に合い死んでしまう。
そう、良くある異世界召喚に巻き込まれたのだ!
他のクラスメイトが生前のまま異世界に召喚されていく中、喰だけはコンプレックスを打開すべく人間を辞めて巨人に転生!?
自称創造神の爺を口車に乗せて、新しく造ってもらったスキル鑑定は超便利!?
転生先の両親祖父は優しいけど、巨人はやっぱり脳筋だった!
家族や村の人達と仲良く暮らしてたのに、喰はある日とんでもない事に巻き込まれる!
口数は少ないけど、心の中はマシンガントークなJKの日常系コメディの大食い冒険物語り!
食べて食べて食べまくる!
野菜だろうが、果物だろうが、魔物だろうが何だって食べる喰。
だって、直ぐにお腹空くから仕方ない。
食べて食べて、強く大きい巨人になるのだ!
※筆者の妄想からこの作品は成り立っているので、読まれる方によっては不快に思われるかもしれません。
※筆者の本業の状況により、執筆の更新遅延や更新中止になる可能性がございます。
※主人公は多少価値観がズレているので、残酷な描写や不快になる描写がある恐れが有ります。
それでも良いよ、と言って下さる方。
どうか、気長にお付き合い頂けたら幸いです。
美しくも残酷な世界に花嫁(仮)として召喚されたようです~酒好きアラサーは食糧難の世界で庭を育てて煩悩のままに生活する
くみたろう
ファンタジー
いつもと変わらない日常が一変するのをただの会社員である芽依はその身をもって知った。
世界が違った、価値観が違った、常識が違った、何もかもが違った。
意味がわからなかったが悲観はしなかった。
花嫁だと言われ、その甘い香りが人外者を狂わすと言われても、芽依の周りは優しさに包まれている。
そばに居るのは巨大な蟻で、いつも優しく格好良く守ってくれる。
奴隷となった大好きな二人は本心から芽依を愛して側にいてくれる。
麗しい領主やその周りの人外者達も、話を聞いてくれる。
周りは酷く残酷な世界だけれども、芽依はたまにセクハラをして齧りつきながら穏やかに心を育み生きていく。
それはこの美しく清廉で、残酷でいておぞましい御伽噺の世界の中でも慈しみ育む人外者達や異世界の人間が芽依を育て守ってくれる。
お互いの常識や考えを擦り合わせ歩み寄り、等価交換を基盤とした世界の中で、優しさを育てて自分の居場所作りに励む。
全ては幸せな気持ちで大好きなお酒を飲む為であり、素敵な酒のつまみを開発する日々を送るためだ。
大人気ダンジョン配信者のサポーターをやっていたけど、あまりにパワハラが酷いから辞めることにする。ん? なんか再生数激オチしているけど大丈夫?
空松蓮司
ファンタジー
「アンタは1人じゃ何もできない」
事あるごとにそう言い放ってくるパートナー、成瀬美亜にうんざりしつつも葉村志吹は彼女をサポートし続けた。
過去にモンスターに右腕を喰われ隻腕となり、さらに何も特殊な能力を持たない自分を雇ってくれるのは美亜だけ……そう志吹は思い込み、どれだけパワハラされようが耐えてきた。
しかし、現実は違った。
確かに志吹は隻腕で、特殊能力を持たない。だがそのサポート能力は最高レベルであり、美亜のダンジョン配信を見ている視聴者達の目当ても美亜ではなく志吹の完璧なまでのサポート能力だった。そんな高い能力を持つ志吹が放置されるわけがなく、彼は美亜より遥か格上のS級シーカー・唯我阿弥数にギルドへの勧誘を受ける。
「今日はギルドへの勧誘に来たんだ」
「そういう話なら美亜を交えて改めて場を設けるよ。今日はグラビアの撮影で忙しいから、後日都合の良い日に……」
「え? 成瀬美亜ちゃん? 彼女はいらないよ別に」
「ん? 美亜の勧誘じゃないのか?」
「君がどうしてもと言うなら入れてあげてもいいけど、特に魅力は感じないな。僕が欲しいのは君だけだよ」
自分に敬意を示し、真摯に接してくれる唯我と自分を見下し、雑に扱う美亜……比べるまでもなく志吹は唯我を選び、美亜とのパートナー契約を打ち切る。
新たなギルドで正当な評価を受け始める志吹。
一方で志吹を失い、動画の再生数が落ち込んでいく美亜。
やがて美亜は自分の失墜を志吹のせいにし、自分が所属するギルドにありもしないことを吹き込んで志吹を悪者に仕立て上げ、ギルドを率いて志吹への復讐を企てる……。
無能と罵られ続けた実は有能な男が、環境を変えたことをきっかけに正当な評価を受け始める迷宮成り上がりファンタジー、ここに開幕。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる