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第一部

第三十三話 悪魔の舌(4)

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「お前の妻と娘を甦らせてやろうか」

 驚きました。私はその所内では過去のことを何も話していなかったから。おそらく瞬時にして私の頭の中を読みとったのでしょう。薄気味が悪くなりました。

「いえ」

 私は即答していました。この世ならぬ存在からの誘いであるとすぐにわかったからです。

 「酷い殺され方をしたのだろう。昔に戻りたくはないのか? お前は心の裡でそれを望んでいるはずだ」

 悪魔は上を向きながら喋っています。

 天井を見詰めて。

 牛の口から舌が大きく伸びて、梁を舐めていました。それは記憶にある牛の舌とは全く長細いものでした。

 応じませんでした。

 あまり会話を続けると、そちらのたくらみに飲まれてしまうと思ったからです。

 周りを見回しました。牛の肉を断つ包丁が一本ありました。木製の俎板に突き刺さっています。

 私は素早くそちらへ寄り、包丁を抜きました。

 舌はどんどん長くなって天井の隅で曲がり、二重三重に囲んでいきました。

 気味が悪くなった私は机の上に飛び乗り、素早く近付いて、背中を伸ばし、舌を断ちました。幸い身長が高かったもので、難なく届いたのです。

 空気を裂く叫び声が部屋中に轟き渡りました。耳が聾されたかと思いましたが、私はなおも包丁を振るいます。

 寸断された舌がハラハラと床や机の上に落ち、その欠片が牛と牛がずらずらと吊り下げられている列の間にも飛び散りました。

 悪魔はやがて姿を消しました。それは詰まり吊られていたただの牛に戻ったということです。

 私はその舌を何枚か拾って、懐へと隠しました。

 あれだけ大きな音を立てたのに、所内の人は誰も気付いていませんでした。なので幸いにも叱責されることはありませんでした。 

 おそらく私の頭の内でだけ響いた音なのかも知れません。

 その後はとくに不思議な出来事は起こりませんでした。

 しかし、数日して夢を見たのです。

 先日と同じ場所に、私はまた立っていました。血まみれの牛の頭が、今度は真正面から見詰めてきました。

「会いたくないのか。妻と娘に」

 牛の瞼にはどす黒い血がこびり付いています。

 薄く開いた口から細い舌が見えていました

「嫌だ」

 私は断りました。

「なぜだ?」

「死んだ者は甦らない」

 収容所でそれは痛いほど知りました。

 甦ったとして、死んだ時の姿のままだったとしたら、私は妻と娘を直視することができないでしょう。 

「甦るさ。悪魔の力なら」

「お前の力は頼らない」

「残念な奴だ」

 悪魔は私を罵りました。

「幾ら罵ろうが悪魔の力は借りないぞ」

 私は掌を合わせ、神に祈りました。

 すると牛の口から血を含んだ泡がこぼれ落ち、その姿は徐々に闇の中へ埋没していきました。

 そこで目が覚めたのです。

 自分が呪われているに違いないと信じた私は教会に足を運び、神に祈りを捧げる毎日を送りました。以前は日曜日にたまに足を運ぶぐらいだったのに。 

 ほうぼうを回って、身の上話をし、悪魔に魅入られてしまった場合、どうしたらいいのか訊きました。

 でも、具体的な答えを言ってくれる方は見つかりませんでした。

 悪魔の夢を見る回数はますます増えていきました。
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