345 / 526
第一部
第三十三話 悪魔の舌(3)
しおりを挟む
「ブラヴォ! 五回も跳んでる! 勢いが良いですね!」
ルナは拍手した。
「私は革を商っておりまして。この鞄も商品の一つなのです」
ヴラディミールは怖ず怖ずと言った。
「不気味だな」
ズデンカは顔を顰めた。もちろんすぐにでも引き裂ける用意は出来ている。
「悪魔の舌を実際に手にとって眺めて見たいものですよ」
ルナは目を輝かせていた。
「やめとけ、危険だ」
ズデンカは言った。今ズデンカはさっき喧嘩したばかりのカミーユと隣り合っている。それだけでもずいぶん居心地が悪いのだが、ルナの横に坐って、いつもやっている耳打ちをできないのは不安になる。
そもそも、ヴラディミールという男を信用していないのだ。
「悪魔と言っても舌ですから、触ったからと言って人に危害は及ぼさないはずですが……」
ヴラディミールは口ごもるように言った。
「なるほど、じゃあ」
とルナはズデンカが制止する暇もあればこそ、鞄を開けて中に入っていた小函を取り出した。
蓋を取ると、綿が詰められた中に乾涸らびた肉片が入っていた。
ルナは平気で指で摘まんで取り出した。
「へえ、これが悪魔の舌かぁ」
ズデンカは心配で堪らなかった。
「どこで入手されたんですか?」
舌を観察しながらルナは訊く。
「それはすぐには説明できない理由があるのです」
ヴラディミールは言った。
「さっそく教えてくださいますね。全てお聴かせくださったらわたしの出来る範囲であなたのお願いを叶えてさしあげますよ。もっとも、こんな列車の中じゃ、出来ることは限られているでしょうけれど」
ルナは言った。
「願いなどありませんが……お話し致します」
ため息を吐いてヴラディミールは語り始めた。
これは、収容所から出て数年後の話です。
私は妻も娘も亡くしてしまって、独りで暮らさなければならなくなりました。
それでも発足したばかりのシエラレオーネ政府から年金を貰って元の職業である革商人として復帰していました。
でも、誰もいないがらんとした部屋の中独りでいると、いろいろと思い出が蘇ってしまいます。
娘が幼い頃、乗っかってはしゃぎまくり壊してしまった椅子。
妻が台所で料理を作っていた姿。
次から次へと思い出が溢れ返って止まらなくなります。
幸い、収容所では男女を分けられていたので、その最期を目にすることはありませんでしたが。
親族の死に目にあえないのは平時には残酷なことですが、こういう場合にはむしろ幸いです。
家を換えようと決意しました。うら寂しい故郷からハシェクへ引っ越ししたのもその頃のことです。
ハシェクは戦前から繁栄した町で、さまざまな仕事の機会も増え、次第に過去のことを忘れていきました。
そんなある日です。悪魔と会ったのは。
懇意にしている皮革製造所と交渉した時のことです。
革を剥がれて、天井から幾つも吊り下げられた牛の屍体の一つと、たまたま眼が合ってしまったんですよ。
私は鞣《なめ》された後の革にこそ用がありますが、牛の屍体に興味はありません。ただ所長室の近くにあったため偶然目に入ってしまいました。
上を向いた牛の瞼がパチパチと動いているから妙だと思ったんです。
最初は幻覚かと思いました。
でも、喋り始めたんです。
ルナは拍手した。
「私は革を商っておりまして。この鞄も商品の一つなのです」
ヴラディミールは怖ず怖ずと言った。
「不気味だな」
ズデンカは顔を顰めた。もちろんすぐにでも引き裂ける用意は出来ている。
「悪魔の舌を実際に手にとって眺めて見たいものですよ」
ルナは目を輝かせていた。
「やめとけ、危険だ」
ズデンカは言った。今ズデンカはさっき喧嘩したばかりのカミーユと隣り合っている。それだけでもずいぶん居心地が悪いのだが、ルナの横に坐って、いつもやっている耳打ちをできないのは不安になる。
そもそも、ヴラディミールという男を信用していないのだ。
「悪魔と言っても舌ですから、触ったからと言って人に危害は及ぼさないはずですが……」
ヴラディミールは口ごもるように言った。
「なるほど、じゃあ」
とルナはズデンカが制止する暇もあればこそ、鞄を開けて中に入っていた小函を取り出した。
蓋を取ると、綿が詰められた中に乾涸らびた肉片が入っていた。
ルナは平気で指で摘まんで取り出した。
「へえ、これが悪魔の舌かぁ」
ズデンカは心配で堪らなかった。
「どこで入手されたんですか?」
舌を観察しながらルナは訊く。
「それはすぐには説明できない理由があるのです」
ヴラディミールは言った。
「さっそく教えてくださいますね。全てお聴かせくださったらわたしの出来る範囲であなたのお願いを叶えてさしあげますよ。もっとも、こんな列車の中じゃ、出来ることは限られているでしょうけれど」
ルナは言った。
「願いなどありませんが……お話し致します」
ため息を吐いてヴラディミールは語り始めた。
これは、収容所から出て数年後の話です。
私は妻も娘も亡くしてしまって、独りで暮らさなければならなくなりました。
それでも発足したばかりのシエラレオーネ政府から年金を貰って元の職業である革商人として復帰していました。
でも、誰もいないがらんとした部屋の中独りでいると、いろいろと思い出が蘇ってしまいます。
娘が幼い頃、乗っかってはしゃぎまくり壊してしまった椅子。
妻が台所で料理を作っていた姿。
次から次へと思い出が溢れ返って止まらなくなります。
幸い、収容所では男女を分けられていたので、その最期を目にすることはありませんでしたが。
親族の死に目にあえないのは平時には残酷なことですが、こういう場合にはむしろ幸いです。
家を換えようと決意しました。うら寂しい故郷からハシェクへ引っ越ししたのもその頃のことです。
ハシェクは戦前から繁栄した町で、さまざまな仕事の機会も増え、次第に過去のことを忘れていきました。
そんなある日です。悪魔と会ったのは。
懇意にしている皮革製造所と交渉した時のことです。
革を剥がれて、天井から幾つも吊り下げられた牛の屍体の一つと、たまたま眼が合ってしまったんですよ。
私は鞣《なめ》された後の革にこそ用がありますが、牛の屍体に興味はありません。ただ所長室の近くにあったため偶然目に入ってしまいました。
上を向いた牛の瞼がパチパチと動いているから妙だと思ったんです。
最初は幻覚かと思いました。
でも、喋り始めたんです。
0
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説

私には必要ありません
風見ゆうみ
恋愛
ユーザス王国には二人の王女がいた。姉のラムラは見目麗しく穏やかで、国民から愛されていたが、妹の私は違った。
姉の婚約者は隣国の王太子で、彼は幼い頃から人前には出なかったため、容姿が悪いのだと決めつけられ『怪物王子』と噂されている人物だった。姉が彼の元に嫁入りすることになった二日前のこと。姉を愛する両親の策略で私の婚約者と姉は関係を持ち、私が代わりに怪物王子の元に嫁ぐことになる。
昔の私は家族や婚約者に愛されたかった。でも、そんな気持ちは今の私には必要ありません。

悪意か、善意か、破滅か
野村にれ
恋愛
婚約者が別の令嬢に恋をして、婚約を破棄されたエルム・フォンターナ伯爵令嬢。
婚約者とその想い人が自殺を図ったことで、美談とされて、
悪意に晒されたエルムと、家族も一緒に爵位を返上してアジェル王国を去った。
その後、アジェル王国では、徐々に異変が起こり始める。

私のバラ色ではない人生
野村にれ
恋愛
ララシャ・ロアンスラー公爵令嬢は、クロンデール王国の王太子殿下の婚約者だった。
だが、隣国であるピデム王国の第二王子に見初められて、婚約が解消になってしまった。
そして、後任にされたのが妹であるソアリス・ロアンスラーである。
ソアリスは王太子妃になりたくもなければ、王太子妃にも相応しくないと自負していた。
だが、ロアンスラー公爵家としても責任を取らなければならず、
既に高位貴族の令嬢たちは婚約者がいたり、結婚している。
ソアリスは不本意ながらも嫁ぐことになってしまう。

王命って何ですか?
まるまる⭐️
恋愛
その日、貴族裁判所前には多くの貴族達が傍聴券を求め、所狭しと行列を作っていた。
貴族達にとって注目すべき裁判が開かれるからだ。
現国王の妹王女の嫁ぎ先である建国以来の名門侯爵家が、新興貴族である伯爵家から訴えを起こされたこの裁判。
人々の関心を集めないはずがない。
裁判の冒頭、証言台に立った伯爵家長女は涙ながらに訴えた。
「私には婚約者がいました…。
彼を愛していました。でも、私とその方の婚約は破棄され、私は意に沿わぬ男性の元へと嫁ぎ、侯爵夫人となったのです。
そう…。誰も覆す事の出来ない王命と言う理不尽な制度によって…。
ですが、理不尽な制度には理不尽な扱いが待っていました…」
裁判開始早々、王命を理不尽だと公衆の面前で公言した彼女。裁判での証言でなければ不敬罪に問われても可笑しくはない発言だ。
だが、彼女はそんな事は全て承知の上であえてこの言葉を発した。
彼女はこれより少し前、嫁ぎ先の侯爵家から彼女の有責で離縁されている。原因は彼女の不貞行為だ。彼女はそれを否定し、この裁判に於いて自身の無実を証明しようとしているのだ。
次々に積み重ねられていく証言に次第に追い込まれていく侯爵家。明らかになっていく真実を傍聴席の貴族達は息を飲んで見守る。
裁判の最後、彼女は傍聴席に向かって訴えかけた。
「王命って何ですか?」と。
✳︎不定期更新、設定ゆるゆるです。

笑顔で冷遇する婚約者に疲れてしまいました
ユユ
恋愛
誰にでも優しい貴方を愛し、
婚約者の座を勝ち取った。
だけど彼は政略的な婚約として
浮気を止めなかった。
承知して婚約した私は、
時には心を殺して笑顔で従った。
あれ?
私、この人の何処が好きだったの?
ある日突然ときめかなくなってしまった。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
処刑された令嬢、今世は聖女として幸せを掴みます!
ミズメ
恋愛
かつて侯爵令嬢マリエッタは、聖女を害したとして冤罪で処刑された。
その記憶を持ったまま、マリエッタは伯爵令嬢マリーとして生を受ける。
「このまま穏やかに暮らしたい」田舎の伯爵領で家族に囲まれのびのびと暮らしていたマリーだったが、ある日聖なる力が発現し、聖女として王の所に連れて行かれることに。玉座にいた冷徹な王は、かつてマリエッタを姉のように慕ってくれていた第二王子ヴィンセントだった。
「聖女として認めるが、必要以上の待遇はしない」
ヴィンセントと城の人々は、なぜか聖女を嫌っていて……?
●他サイトにも掲載しています。
●誤字脱字本当にすいません…!

【R-18】もう二度と、あなたの妻にはなりたくありません〜死に戻りの人生は別の誰かと〜
桜百合
恋愛
「もしも人生をやり直せるのなら……もう二度と、あなたの妻にはなりません」
コルドー公爵夫妻であるフローラとエドガーは、大恋愛の末に結ばれた相思相愛の二人であった。
しかしナターシャという子爵令嬢が現れた途端にエドガーは彼女を愛人として迎え、フローラの方には見向きもしなくなってしまう。
愛を失った人生を悲観したフローラはナターシャに毒を飲ませようとするが、逆に自分が毒を盛られてしまい命を落とすことに。
だが死んだはずのフローラが目を覚ますとそこは実家の侯爵家。
どうやらエドガーと知り合う前に死に戻ったらしい。
もう二度とあのような辛い思いはしたくないフローラは、一度目の人生の失敗を生かしてエドガーとの結婚を避けようとする。
※完結したので一時的に感想欄を開けてます(お返事はゆっくりになるかもです…!)
※アルファポリスさまのみでの連載です。恋愛小説大賞に参加しております。
Rシーンには※をつけます。
独自の世界観ですので、設定など大目に見ていただけると助かります。

王妃の秘薬
桃井すもも
恋愛
サフィニアが、王国の若き太陽、王太子殿下のディアマンテに輿入れしたのは昨年の春。王配が崩御してから僅か三ヶ月後の事だった。
ディアマンテは貴族学園を卒業したばかり。対するサフィニアは、彼より四つ年上の妃であった。
何故、それほど婚姻を急いだのか。
何故、頃合いの年頃から妃を選ばなかったのか。
そこには王国と、サフィニア自身の事情があった。
婚礼の夜、ディアマンテはサフィニアを独り残して寝室を出て行ってしまう。取り残されたサフィニアは、初夜の寝室にぽつりと残され眠れぬ夜を明かす事となる。
サフィニアの耳に届くディアマンテの噂。サフィニアを悩ます夫の行動。
そんなある日、サフィニアは摩訶不思議な存在と出会う事になる。
❇鬼の誤字脱字を修復すべく公開後に激しい修正が入ります。
「間を置いて二度美味しい」とご笑覧下さいませ。
❇登場人物のお名前が他作品とダダ被りする場合がございます。皆様別人でございます。
❇相変わらずの100%妄想の産物です。妄想なので史実とは異なっております。
❇妄想遠泳の果てに波打ち際に打ち上げられた妄想スイマーによる寝物語です。
疲れたお心とお身体を妄想で癒やして頂けますと泳ぎ甲斐があります。
❇座右の銘は「知らないことは書けない」「嘘をつくなら最後まで」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる