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第一部

第二十九話 幻の下宿人(6)

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「それでは、早速お願い出来ますか? 夜は寝ている人もいて、音も聞こえますから、迷惑になりますので」

 ヤナーチェクは声を落として言った。

 確かに今なら他の客もたくさんいるので、目立たないだろう。

「わかりました」

 ルナは立ち上がった。

 先に立つヤナーチェクを追って階段を登っていく。

「おい、待てよ」

 いつものことだがズデンカは後を追った。カミーユも付いてきたようだ。

「ここです」

 傍目からはそこが部屋だとはよくわからなかった。

 確かに注意深く観察すれば部屋の並びに不自然な空きがあるのだが、壁紙を貼られていたし、ちょっと通ったぐらいでは気付かないだろう。

 だが、改めて前に立つとズデンカはあまり良い気分にはなれなかった。何かその奥には禍々しい力が充ちているように感じられたのだ。

 ズデンカは不死者だ。夜を生きる存在だ。

 それゆえ、闇の臭いは敏感に嗅ぎ取る。血の臭いと同等に。

 階下からの賑やかな声に掻き消されながらも、大きな音を立てて壁紙は剥がされ、板を何枚も重ねて並べた上に釘を打ち付けた扉が姿を現した。

「よっぽど厳重にやってですね」

 ルナは顎先に手をやって言った。

「はい、悪い予感がしましたので」

 そう答えるヤナーチェクの顔はやや青ざめていた。

 ドアが軋りながら開かれる。

 埃《ほこり》が押し寄せてきた。

「けほっ、けほっ!」

 ルナが咳込み始める。昔喘息を患っていたとズデンカは聞いたことがあったので、その肩を引っ掴んで廊下の端に移動させた。

「おい、ちゃんと掃除はしとけ!」

 戻ってきたズデンカはヤナーチェクに怒鳴った。

「長いこと部屋は閉じていたので……」

「ルナは入れるなよ。お前とあたしで掃除するから」

 ズデンカはきつく言った。

「問題ないよー、けほけほ」

 ルナの暢気な声と咳が後ろで起こったが、ズデンカは無視して中に入り、窓を開け放って速度を早めて掃除を始めた。

 床にはヤナーチェクの言った通り、人のかたちをした黒い煤のような輪郭が残っていた。

「ズデンカさん、これを使ってください」

 しずしずと部屋に入ってきたカミーユがカミーユが携えてきた雑巾で何度拭いても人型は消えない。

「ふむふむ」

 ルナがいつの間にか隣に立っていた。

「お前! 部屋にはまだはいるな」

「もう空気は入れ代わってるし、大丈夫だよ!」

 ルナは人型を見詰めていた。

「何かわかるのか」

 ズデンカは訊いた。

「これは、こうやって消せるんだよ」

 ルナは手帳を開き、鴉の羽ペンを手に取った。そして、黒い人型へその切っ先を向けた。

 すると、人型を構成していた黒いものが宙に浮き上がり、粉のようにパラパラと集まっていくではないか。

 ルナはさらさらと文字を書き記していく。

「久しぶりに見たな」

 ズデンカは言った。

「ああ。ごっそり取れたよ、しばらくぶりに」

 ルナは満足そうに微笑んだ。

「これは!」

 ヤナーチェクはびっくりしていた。

 今まで床に出来ていたひとがたがごっそりと消えてなくなっていたからだ。

「お陰さまでヴァーツラフさんがいなくなった理由がすっかりわかりましたよ」

 ルナはモノクルを外して、ハンカチできゅっきゅと拭きながら言った。
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