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第一部

第二十四話 氷の海のガレオン(9)

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 無視して降りようと心では思っていたのだが。

 フランツは縄梯子を逆の方向に進んでいる自分に気付いた。

――馬鹿な。今さら色惚《いろぼ》けるか。

 だが、不思議な力で押さえられるかのように身体の動きは止まらなかった。

 おそらく、あの少女は何か特異な力の持ち主なのだろう。

 戻ることが出来ないとわかると、フランツは観念して身体の行くがままに任せた。

 甲板に上がってもまだ足は勝手に動き続ける。

 舳先にいる少女はフランツが近付いても振り返らずにいた。

「お前は、誰だ」

 フランツは直立して立ち止まった。一歩も進めなくなった。

 手足のこわばりを感じながら鋭い声で問うた。

「我はファキイル」

 少女は振り返った。

 その瞳は燃えるが如く紅く、表情は全くといっていいほどわからなかった。僅かに小首を傾げただけだ。

 フランツはその名前に心当たりがあった。

「ファキイル――? 神話に出てくるファキイルか?」

 神話の中で、故郷を失った老人アモスと旅をしたと伝えられている犬のかたちをした神獣。

 それがファキイルだ。

「まさに然《しか》り」

 短く少女は答えた。声はやや嗄《しゃが》れて老人のようにも聞こえる。

「お前は犬のはずだ」

 フランツは叫んだ。

「なるほどですね。神獣クラスなら海を一瞬で凍らせることも可能だ」

 オドラデクが後ろからのこのことやってきた。

「汝《なれ》も人ではないな」

 オドラデクの姿を一目見てファキイルは言った。

「ええそうです。ぼくはオドラデク。こう見えて本当はなかなかユニークなかたちしてましてね。あなたが今話しているのがフランツさん」

「勝手に言うな」

 フランツは怒鳴った。

「良いじゃないですか。どう見ても敵意はなさそうですし」

 オドラデクは目配せした。

「骸骨に俺たちを襲わせたのはお前だろ」

 フランツはファキイルを睨んだ。

「然り。だがそれは我が汝らを見知らなかったからのこと。迷惑を掛けたのであれば詫びる」

 とファキイルは頭を下げた。

 フランツはふと自分の身体が軽くなったようになった。

 自由に動けるようになっていた。後退して身構える。

「なんで海を凍らせたんですか?」

 フランツが実は一番訊きたかったことを、オドラデクが代わりに言った。

「そろそろ、この船を海の底に沈めようと思ってな。他の者に見られてはまた要らぬ伝説を産む。巨万の富が眠っている、と言ったような」

「なるほど。確かに人間というやつぁ想像力がたくましいですからねえ。でも、そろそろということは、あなたはこの船に住んでいるわけではないですよね」

 オドラデクは勝手に話を進めていく。

「然り。我は三百年振りにここに戻った。この船に乗っている者どもが我に無礼を働いたのでな。三百年、この船は彷徨い続けるように我は命じた」
 
 ――それがあの髑髏たちだな。

 フランツは瞬時に感じ取った。

「無礼とは? あなたはどう見ても温厚そうなのに」

「あの者たちはアモスを馬鹿にした。いまだかつて見たことすらないのに伝え聞いた話だけを拠り所に」

 一瞬だけファキイルの顔に感情の影が走ったようにフランツは思った。

「たったそれだけで?」

 オドラデクは驚いていた。

「たったそれだけでも我にとっては大きかった」

「ほえー! じゃあぼくらもあなたの前じゃ口を慎まなくちゃなぁ。こわいこわい」

 オドラデクは嘘っぽく怯えて見せた。

「我の前でなければ何を言っても構わない。聞きはしないからな」

 そう言ってファキイルは少しだけ笑ったようだった。
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