上 下
209 / 342
第一部

第二十話 ねずみ(9)

しおりを挟む
「私こそが、本を、本を焼かねばならぬのです!」

 バルタザールは叫んだ。

 尻尾を巧みに捌いて、それとともに稲妻は化鳥の腹部で轟く。

「キエエエエエエエ」

 またも叫びを上げた大鴉は、羽ばたいて宙へ舞い上がろうとするが、何度もしくじって墜落する。

 やがて大きな焔が化鳥の腹に広がった。時を同じくして、身体に吸い付けられていた人々がぼとぼとそこから剥がれ落ちて石畳の上へ倒れ伏す。

 ズデンカは急いで走りよって、常人の二倍ぐらいの早さで怪我人を担ぎ上げ、安全なところへ連れていった。

 大蟻喰は何もやらない。腕を組んで、遠くからニヤニヤ笑ってそれを見ている。

――少しは手伝えよドアホが。

 ズデンカは心の中で罵倒したが、手は黙々と動いた。 

 生存者を無事に移動させると、炎が広がりを増して燃え落ちる化鳥を見た。

 もう既に動かなくなった。本は完全は焼失したのだ。

「あの本を……暴れさせてしまったのは私の責任です。一番先に私が焼いておくべきだったのです」

 バルタザールはぺこりとお辞儀をした。

「いや! そもそもあたしが勝手に処分しようとしなければ」

 ズデンカは自責の念を抱いた。

「いえいえ、私が入手したものなのですから。あんな危険な本と知っていれば……」

「どこでそれを知った?」

 ズデンカは不思議に思った。あの本のことは告げ知らせなかったはずなのだ。

「……ルナさまが『鼠であることの惨劇』の頁に書き置きの紙を挟んでくださったのです。『鐘楼の悪魔』が危険な存在であることがよくわかりました」

 バルタザールは再びお辞儀をする。

「ルナのやつ……いつの間に」

 ズデンカは思わず爪を噛みそうになった。

「私にも言わせてください」

 タルチュフが割り込んできた。

「なんだ?」

「『鐘楼の悪魔』が危険であると、先にバルタザールさんへ伝えておけば良かったのです。こちらの手抜かりでした」

「素直に謝るじゃねえか」

「自分が悪いと思ったときは謝る。それは処世術です」

 タルチュフは笑った。

――まあ、謝れない奴よりはずっと良いか。

 ズデンカは過去に出会った連中を思い返した。

「まあまあ、得られることは多くありました。とくに『鐘楼の悪魔』が獣人――少なくとも鼠のあなたには無効だとわかったからです。もっとも千年の時を生きられた賢明なあなたゆえ、かもしれませんが」

 ルナはパイプを取り出し点火した。

 バルタザールは恥ずかしそうに背中をもじもじと動かした。

「あなたの力がなければわたしたちは、あの化鳥に食われていたことでしょう。ありがとうございました」

 ルナも真似するかのようにぺこりとお辞儀をした。

――自分から感謝できるようになったじゃねえか。

 それを見てズデンカは心なしか、胸が熱くなるのを覚えた。

「ルナさま」

 意を決したようにバルタザールは懐から一冊の本を取り出した。

「これは?」

 ルナは首を傾げた。

「『稲妻翁伝』です。我々鼠獣人の間で編み出された雷鳴を轟かせる魔術についての本です。かつて詳しい者がいましてね。私の部族のものが書きとどめたんです。人間の方でも真似できるかと思います。もう何百年も前の本ですが……これを差し上げます」

「実に……おもしろそうだ。ちょうどわたしも魔術の勉強をしようと思っていたところなんです」

 ルナは調子よく本を受け取った。

「金は払わなくてもいいのか?」

 ズデンカはしっかり聞いて置いた。

「はい、私の不注意でご迷惑をお掛けしてしまったのですから、そのお詫びです」

「ほくほく」

 本を手にできて嬉しいのかルナは『稲妻翁伝』を胸で抱きしめた。

「古い本だ。汚れるぞ」

「いいんだよ。良い匂いがするし」

 ズデンカには全く出来ない感覚だ。

 「実に素晴らしい本ですな……私も……」

 バルタザールは物欲しげに呟いていた。

「あー、そんなものどうでもいいよ。早くルナと話させて」

 大蟻喰はあくびをしている。
しおりを挟む

処理中です...