月(ルナ)は笑う――幻想怪奇蒐集譚

浦出卓郎

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第一部

第十七話 幸せな偽善者(7)

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「ビアンカさんは生まれつき障碍を持っていたんです。あまり、多くのことが出来る人ではありませんでした。しずかに微笑んでいることしか、出来ない人でした」

「言うな! 言うな!」

 館長は泡を食って走り出し、

「こんなもの全部まやかしだ!」

 ルナと絵の間に立ちはだかる。

「まあまあ。まやかしだとしたら、別に構いやしないじゃないですか」

 ルナは穏やかに言った。

 館長は仕方なしに二三歩脇へ退く。

「ビアンカさんは夫を常に気に掛けていました」

「妻がこんなことを言うわけないだろうが!」

 丁寧な口調をかなぐり捨てて館長は叫んだ。

「そりゃ、死人に口なしとか言いますからね。でも、今回の場合特別に口が出来たわけだ」

 ルナはにんまりした。

「あなたがビアンカさんを嫌っていたというのは?」

「そんなことはありません。私はビアンカさんのことを心配していたつもりです。むしろ、夫は……」

「黙れ!」

 と館長。

「へえ、どうなんですか?」

「ジョゼッペはビアンカさんを酷く扱っているようでした」

「ほう、酷く、というと」

 興味津々に首を傾けるルナ。

「やめろ! やめろ!」

 館長はわめき散らしていた。僅かばかりの観客の視線が一斉に集まった。

「ビアンカさんは晩年寝たきりでした。ジョゼッペはビアンカさんを平手打ちにしたり、痣が外から見えないような場所を撲っていました。ビアンカさんはぐったりしていましたね」

「おやおや、話が全然違うようで。あなたのことはどうでしたか」

「殴られこそしないものの、実に冷ややかなものでした。夫はそもそも大執権《ドゥーチェ》ジャコモの恩顧を受けた画商で」

「やめろ!」

 と叫んで絵を引き下ろそうとする館長の肩を掴み、地面へ引き倒すズデンカ。

「静かにしとけ」

 またしゃべり出す妻の肖像。

「戦時中は随分と私腹を肥やしていました。私は戦後一年で死んだため、それからはわかりませんが」

「へえへえ、なるほど、確かにこの美術館、小振りな癖にずいぶん名作絵画が収められてますからねえ。戦時中に執権府から紛失したものも」

 ルナは素早く室内の絵を指差していった。

「だからどうした!」

 館長はズデンカに押さえつけられながら、居丈高に叫んだ。

「わたしはね、『幸せな偽善者』ってのはビアンカさんじゃなく、館長さん、あなただったのではないか、って思ってるんですよ。だってそうでしょう。ビアンカさんは微笑むばかりで何も悪いことをしていない。あなたはその伯母さんを虐げていた」

「俺を虐げたのは伯母の方だ! 子供の頃からな」

「確かに確かに。でもそれは伯母さんに障碍があったゆえ、だからではありませんか?」

「あたしはねえ、ペッピーノが大好きだったのよ」

 突然声がして、ズデンカは館長を押さえながら振り向いた。

 さきほどの伯母の絵が話し始めていた。

「でも、ベッピーノは私のこと好きになってくれなかったの。だから皆に施しをして、幸せになって貰いたいって思ったの」

「本当に、涙ぐましいですね。ね、館長さん?」

 ルナは逆に邪な笑いを浮かべて言った。

「クソッ、クソッ、クソッ!」

 館長は顔を真っ赤にして地団駄を踏み続けた。

「あなたの綺譚《おはなし》も結局は一面的な味方にしか過ぎなかったわけだ。しけた幻想に報いあれ、って訳です」

――久々に出たな。

 ズデンカは苦笑した。
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