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第一部
第八話 悪意(3)
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「おーい」
ルナは手を振りながら走っていった。
しかし、ズデンカはルナを冷ややかな眼で眺めるのみだ。
「お前か」
「君、どうしていなくなったんだ!」
ルナは叫んだ。
ズデンカはルナから視線をそらした。
「なんで目をそらす!」
ルナは語尾に怒りを滲ませた。
何も言わず歩き出そうとするズデンカの袖を掴んだ。
「いきなりいなくなったのはどうして?」
「愛想が尽きたから」
ズデンカはぽつりと漏らした。
「え」
ルナは言葉に詰まった。胸が締め付けられるようだった。
「いままで、一緒に旅してきたじゃないか。苦しいことも辛いことも分かち合ってきたじゃないか。いきなり、そんなのってないだろ!」
ルナはいつになく饒舌になっていることに気付いたが止められなかった。
ズデンカは無視した。
「だいたい、わたしは君の雇い主だ。責任を果たせよ! 逃げる召使いがどこにいるんだよ!」
思わず語調の強くなる自分を留めようとしたができなかった。
ズデンカはまともに応じようとしない。ルナを小突き飛ばした。
ドサッと尻餅を突くルナ。その瞬間に怒りが爆発した。
「君が金を盗んだんだ! わたしの財産だぞ。この泥坊が!」
――違う! そんなこと思ってない!
ルナは口から出た言葉を後悔した。だが、ズデンカは冷ややかにルナを見下して、
「知らねえよ」
と言った。そして、歩き出した。
「待って、待って!」
ルナは地面を這いながらズデンカに縋り付いた。
「待ってよ! どうか、行かないで!」
その顔が靴で軽く蹴られた。
ズデンカは笑っていた。唇の端には悪意が滲んでいた。
呆然としてルナは取り残された。
しばらくの間、立ち上がることも出来なかった。周りの人が自分を見て笑っていることに気付いた。
――ステッキ、持ってくりゃよかった。
空が茜色に染まり始めて、やっとルナは歩き出すことができるようになった。
――誰かと話さなきゃ。
真っ先に浮かんできたのはオルランド共和国陸軍軍医総監アデーレ・シュニッツラーだった。
滞在場所を記した名刺を貰っていたのだ。あまり遠い場所ではない。
しかし、宿所の門は鉄柵でぴしゃりと閉ざされていた。
「あの、わたし、ルナ・ペルッツと申しまして、閣下の知り合いです。ぜひ、面謁を願えましたらと思いまして」
ベルを鳴らし、出て来た門番に丁寧な口調で、来意を告げる。
「はあ、では聞いて参りましょう」
門番は建物の中に引っ込んだ。
でもなかなか出て来ない。ルナはだんだん苛立ってきて、足で地面を叩き始めた。
門番は出て来た。馬鹿にするようにルナを見た。
「閣下は貴様などご存じないと仰っている。不審なやつだな。警察を呼ぶぞ?」
声こそ怒っていたものの、門番はルナを嘲っていた。その顔にもやはり悪意が浮かんでいたのだから。
「そんな……」
ルナはドタバタと走って逃げた。無様に思えたが、仕方なかった。
高級住宅街の誰も通らない夜道の中、ルナは壁を背にして一人踞った。
手袋をはめ、重ね着してマフラーも巻いて出てきたが、それでも手がかじかむほど冷たい。ルナは懐に入れて暖めた。
いろいろな思いが胸のうちに溢れてきていた。
――今朝まで、ふかふかの布団で眠れていたのにな。
過去には野宿をしたこともあった。でも、それは馬車の座席で眠るだけだった。
記憶はもっと昔にさかのぼる。
――あの時だって、寝台はあったのに。
暗い闇の中で、他の仲間たちと狭い三段重ねの寝台を分け合っていたことを思い出した。
狭くて、暗かった。今日みたいに冷たい風が、立て付けの悪い扉から吹き込んでくる。
ルナが寝ている寝台の下で自分と同じ年頃の女の子がゆっくり息を吐くのが聞こえてくる。
月の光で見えた。栄養失調で、肋骨がくっきり浮き出て、手足は枝のように痩せきっていた。
ルナは母親からパンを分けて貰っていた。懐の中にある。
――ちぎって、分けてあげればよかったのに。
ルナはそれをしなかった。
一人締めにした。
もし、あげたら自分が死んでしまうと思ったからだ。
次の朝、少女は死んでいた。
眼を開けたままで。
ルナは長く見つめることをしなかった。
死んだ人はたくさんいた。一人一人顔を目に焼き付けていたりしたら、とても身が持たない。
今なら、大人になった今なら、パンをあげられるだろうか。
ルナは首を振った。
――自分の命の方が大事だから。
助けてあげたいと思うだろうか。
無理だ。昨日までだったら知らない。でも今日、自分にはお金がない。
ルナは手を振りながら走っていった。
しかし、ズデンカはルナを冷ややかな眼で眺めるのみだ。
「お前か」
「君、どうしていなくなったんだ!」
ルナは叫んだ。
ズデンカはルナから視線をそらした。
「なんで目をそらす!」
ルナは語尾に怒りを滲ませた。
何も言わず歩き出そうとするズデンカの袖を掴んだ。
「いきなりいなくなったのはどうして?」
「愛想が尽きたから」
ズデンカはぽつりと漏らした。
「え」
ルナは言葉に詰まった。胸が締め付けられるようだった。
「いままで、一緒に旅してきたじゃないか。苦しいことも辛いことも分かち合ってきたじゃないか。いきなり、そんなのってないだろ!」
ルナはいつになく饒舌になっていることに気付いたが止められなかった。
ズデンカは無視した。
「だいたい、わたしは君の雇い主だ。責任を果たせよ! 逃げる召使いがどこにいるんだよ!」
思わず語調の強くなる自分を留めようとしたができなかった。
ズデンカはまともに応じようとしない。ルナを小突き飛ばした。
ドサッと尻餅を突くルナ。その瞬間に怒りが爆発した。
「君が金を盗んだんだ! わたしの財産だぞ。この泥坊が!」
――違う! そんなこと思ってない!
ルナは口から出た言葉を後悔した。だが、ズデンカは冷ややかにルナを見下して、
「知らねえよ」
と言った。そして、歩き出した。
「待って、待って!」
ルナは地面を這いながらズデンカに縋り付いた。
「待ってよ! どうか、行かないで!」
その顔が靴で軽く蹴られた。
ズデンカは笑っていた。唇の端には悪意が滲んでいた。
呆然としてルナは取り残された。
しばらくの間、立ち上がることも出来なかった。周りの人が自分を見て笑っていることに気付いた。
――ステッキ、持ってくりゃよかった。
空が茜色に染まり始めて、やっとルナは歩き出すことができるようになった。
――誰かと話さなきゃ。
真っ先に浮かんできたのはオルランド共和国陸軍軍医総監アデーレ・シュニッツラーだった。
滞在場所を記した名刺を貰っていたのだ。あまり遠い場所ではない。
しかし、宿所の門は鉄柵でぴしゃりと閉ざされていた。
「あの、わたし、ルナ・ペルッツと申しまして、閣下の知り合いです。ぜひ、面謁を願えましたらと思いまして」
ベルを鳴らし、出て来た門番に丁寧な口調で、来意を告げる。
「はあ、では聞いて参りましょう」
門番は建物の中に引っ込んだ。
でもなかなか出て来ない。ルナはだんだん苛立ってきて、足で地面を叩き始めた。
門番は出て来た。馬鹿にするようにルナを見た。
「閣下は貴様などご存じないと仰っている。不審なやつだな。警察を呼ぶぞ?」
声こそ怒っていたものの、門番はルナを嘲っていた。その顔にもやはり悪意が浮かんでいたのだから。
「そんな……」
ルナはドタバタと走って逃げた。無様に思えたが、仕方なかった。
高級住宅街の誰も通らない夜道の中、ルナは壁を背にして一人踞った。
手袋をはめ、重ね着してマフラーも巻いて出てきたが、それでも手がかじかむほど冷たい。ルナは懐に入れて暖めた。
いろいろな思いが胸のうちに溢れてきていた。
――今朝まで、ふかふかの布団で眠れていたのにな。
過去には野宿をしたこともあった。でも、それは馬車の座席で眠るだけだった。
記憶はもっと昔にさかのぼる。
――あの時だって、寝台はあったのに。
暗い闇の中で、他の仲間たちと狭い三段重ねの寝台を分け合っていたことを思い出した。
狭くて、暗かった。今日みたいに冷たい風が、立て付けの悪い扉から吹き込んでくる。
ルナが寝ている寝台の下で自分と同じ年頃の女の子がゆっくり息を吐くのが聞こえてくる。
月の光で見えた。栄養失調で、肋骨がくっきり浮き出て、手足は枝のように痩せきっていた。
ルナは母親からパンを分けて貰っていた。懐の中にある。
――ちぎって、分けてあげればよかったのに。
ルナはそれをしなかった。
一人締めにした。
もし、あげたら自分が死んでしまうと思ったからだ。
次の朝、少女は死んでいた。
眼を開けたままで。
ルナは長く見つめることをしなかった。
死んだ人はたくさんいた。一人一人顔を目に焼き付けていたりしたら、とても身が持たない。
今なら、大人になった今なら、パンをあげられるだろうか。
ルナは首を振った。
――自分の命の方が大事だから。
助けてあげたいと思うだろうか。
無理だ。昨日までだったら知らない。でも今日、自分にはお金がない。
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