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第一部
第八話 悪意(1)
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トゥールーズ人民共和国中部首都エルキュール――
ある朝、綺譚蒐集者《アンソロジスト》ルナ・ペルッツは気がかりな夢から目覚めて、窓の外の空が薄く曇っていることに気付いた。
雨もよいのようで降っていないという微妙な天候だ。
「寝過ごしちゃった」
そう思って時計を確認すると十時半だった。
――おかしい。
いつもなら八時になる前にメイド兼従者兼馭者の吸血鬼《ヴルダラク》ズデンカに叩き起こされるはずだ。
それが、こんな時間まで寝過ごしてしまうとは、かつてないことだった。
ホテルの部屋はがらんとして誰もいない。隣のベッドにもズデンカの姿はなかった。もとより、ズデンカは寝ないはずだが。
――どうしたんだろう。
気になりはしたが、生来暢気なルナはお茶を飲みに下の階へ降りていった。
喫茶室で、遅めの朝食を食べ、紅茶をすすった。
他の客は不思議と誰もいなかった。朝八時は必ず混んでいるのに。今は昼に近いからだろうか。
――独りも良いもんだ。
ルナは考えた。長い時間ずっとズデンカと一緒だったことに気付いたからだ。
ホテルの支配人がゆっくり自分へ近づいてくるのが分かった。
「お客さま、お話があるのですが」
「何でしょう?」
ルナは不思議に思って訊いた。支配人とは泊まった初日以来、話したことがなかったからだ。
「こちらで大丈夫でしょうか?」
支配人は耳打ちした。
「良いですよ」
ルナは朗らかに笑った。
「実は宿泊のお代金についてですが、ここ一週間ほど滞納されていまして……」
ルナは驚いた。ズデンカが払ってくれているものと思っていたからだ。
ルナは大金持ちだし、そういう日常の些事はズデンカと出会う前から召使いに一任していた。
「おかしいですね……お金を出しに行ってきます」
ルナは立ち上がった。銀行で口座を確認しなければならない。とても面倒臭い作業だった。
「いってらっしゃいませ」
送り出す支配人は微笑んでいた。だが、ルナはその唇の端にどこかこちらを馬鹿にするような影が差していることに気付いた。
ルナはそこに悪意を感じた。
ホテルを出て、銀行を地図で一生懸命探しながら歩く。
見事な方向音痴振りを発揮し、考えていたより時間が掛かってしまった。
「口座から引き出したいのですが……」
係員に告げるルナ。
「ご本人であることを証明する書類などお持ちではありませんか?」
「あ……」
忘れていたことにルナは気付いた。
「取りに帰ります」
とぼとぼと歩き出す。
ホテルの部屋に戻るとき、他の客がこちらを見て嘲笑っているように思えた。その顔には支配人と同じような悪意が浮かんでいたのだ。
――気のせいだ。
昼近くになってやっとまた銀行に戻った。
「うーん。ルナ・ペルッツさまの口座の残高はゼロですね」
銀行員が首を捻る。
「そんな! 確かめてください!」
ルナは珍しく背筋が寒くなるものを覚えた。お金など、ありあまるほど持っていたはずなのに。
「ありません。本当にゼロです」
銀行員はきっぱりと言った。その口の端に笑みが浮かんでいた。
悪意を含んだ。
もう、ホテルには戻れない。こんなことで法を踏み破りたくなかったが、払えない以上仕方がない。
ある朝、綺譚蒐集者《アンソロジスト》ルナ・ペルッツは気がかりな夢から目覚めて、窓の外の空が薄く曇っていることに気付いた。
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「寝過ごしちゃった」
そう思って時計を確認すると十時半だった。
――おかしい。
いつもなら八時になる前にメイド兼従者兼馭者の吸血鬼《ヴルダラク》ズデンカに叩き起こされるはずだ。
それが、こんな時間まで寝過ごしてしまうとは、かつてないことだった。
ホテルの部屋はがらんとして誰もいない。隣のベッドにもズデンカの姿はなかった。もとより、ズデンカは寝ないはずだが。
――どうしたんだろう。
気になりはしたが、生来暢気なルナはお茶を飲みに下の階へ降りていった。
喫茶室で、遅めの朝食を食べ、紅茶をすすった。
他の客は不思議と誰もいなかった。朝八時は必ず混んでいるのに。今は昼に近いからだろうか。
――独りも良いもんだ。
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ホテルの支配人がゆっくり自分へ近づいてくるのが分かった。
「お客さま、お話があるのですが」
「何でしょう?」
ルナは不思議に思って訊いた。支配人とは泊まった初日以来、話したことがなかったからだ。
「こちらで大丈夫でしょうか?」
支配人は耳打ちした。
「良いですよ」
ルナは朗らかに笑った。
「実は宿泊のお代金についてですが、ここ一週間ほど滞納されていまして……」
ルナは驚いた。ズデンカが払ってくれているものと思っていたからだ。
ルナは大金持ちだし、そういう日常の些事はズデンカと出会う前から召使いに一任していた。
「おかしいですね……お金を出しに行ってきます」
ルナは立ち上がった。銀行で口座を確認しなければならない。とても面倒臭い作業だった。
「いってらっしゃいませ」
送り出す支配人は微笑んでいた。だが、ルナはその唇の端にどこかこちらを馬鹿にするような影が差していることに気付いた。
ルナはそこに悪意を感じた。
ホテルを出て、銀行を地図で一生懸命探しながら歩く。
見事な方向音痴振りを発揮し、考えていたより時間が掛かってしまった。
「口座から引き出したいのですが……」
係員に告げるルナ。
「ご本人であることを証明する書類などお持ちではありませんか?」
「あ……」
忘れていたことにルナは気付いた。
「取りに帰ります」
とぼとぼと歩き出す。
ホテルの部屋に戻るとき、他の客がこちらを見て嘲笑っているように思えた。その顔には支配人と同じような悪意が浮かんでいたのだ。
――気のせいだ。
昼近くになってやっとまた銀行に戻った。
「うーん。ルナ・ペルッツさまの口座の残高はゼロですね」
銀行員が首を捻る。
「そんな! 確かめてください!」
ルナは珍しく背筋が寒くなるものを覚えた。お金など、ありあまるほど持っていたはずなのに。
「ありません。本当にゼロです」
銀行員はきっぱりと言った。その口の端に笑みが浮かんでいた。
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