68 / 526
第一部
第八話 悪意(1)
しおりを挟む
トゥールーズ人民共和国中部首都エルキュール――
ある朝、綺譚蒐集者《アンソロジスト》ルナ・ペルッツは気がかりな夢から目覚めて、窓の外の空が薄く曇っていることに気付いた。
雨もよいのようで降っていないという微妙な天候だ。
「寝過ごしちゃった」
そう思って時計を確認すると十時半だった。
――おかしい。
いつもなら八時になる前にメイド兼従者兼馭者の吸血鬼《ヴルダラク》ズデンカに叩き起こされるはずだ。
それが、こんな時間まで寝過ごしてしまうとは、かつてないことだった。
ホテルの部屋はがらんとして誰もいない。隣のベッドにもズデンカの姿はなかった。もとより、ズデンカは寝ないはずだが。
――どうしたんだろう。
気になりはしたが、生来暢気なルナはお茶を飲みに下の階へ降りていった。
喫茶室で、遅めの朝食を食べ、紅茶をすすった。
他の客は不思議と誰もいなかった。朝八時は必ず混んでいるのに。今は昼に近いからだろうか。
――独りも良いもんだ。
ルナは考えた。長い時間ずっとズデンカと一緒だったことに気付いたからだ。
ホテルの支配人がゆっくり自分へ近づいてくるのが分かった。
「お客さま、お話があるのですが」
「何でしょう?」
ルナは不思議に思って訊いた。支配人とは泊まった初日以来、話したことがなかったからだ。
「こちらで大丈夫でしょうか?」
支配人は耳打ちした。
「良いですよ」
ルナは朗らかに笑った。
「実は宿泊のお代金についてですが、ここ一週間ほど滞納されていまして……」
ルナは驚いた。ズデンカが払ってくれているものと思っていたからだ。
ルナは大金持ちだし、そういう日常の些事はズデンカと出会う前から召使いに一任していた。
「おかしいですね……お金を出しに行ってきます」
ルナは立ち上がった。銀行で口座を確認しなければならない。とても面倒臭い作業だった。
「いってらっしゃいませ」
送り出す支配人は微笑んでいた。だが、ルナはその唇の端にどこかこちらを馬鹿にするような影が差していることに気付いた。
ルナはそこに悪意を感じた。
ホテルを出て、銀行を地図で一生懸命探しながら歩く。
見事な方向音痴振りを発揮し、考えていたより時間が掛かってしまった。
「口座から引き出したいのですが……」
係員に告げるルナ。
「ご本人であることを証明する書類などお持ちではありませんか?」
「あ……」
忘れていたことにルナは気付いた。
「取りに帰ります」
とぼとぼと歩き出す。
ホテルの部屋に戻るとき、他の客がこちらを見て嘲笑っているように思えた。その顔には支配人と同じような悪意が浮かんでいたのだ。
――気のせいだ。
昼近くになってやっとまた銀行に戻った。
「うーん。ルナ・ペルッツさまの口座の残高はゼロですね」
銀行員が首を捻る。
「そんな! 確かめてください!」
ルナは珍しく背筋が寒くなるものを覚えた。お金など、ありあまるほど持っていたはずなのに。
「ありません。本当にゼロです」
銀行員はきっぱりと言った。その口の端に笑みが浮かんでいた。
悪意を含んだ。
もう、ホテルには戻れない。こんなことで法を踏み破りたくなかったが、払えない以上仕方がない。
ある朝、綺譚蒐集者《アンソロジスト》ルナ・ペルッツは気がかりな夢から目覚めて、窓の外の空が薄く曇っていることに気付いた。
雨もよいのようで降っていないという微妙な天候だ。
「寝過ごしちゃった」
そう思って時計を確認すると十時半だった。
――おかしい。
いつもなら八時になる前にメイド兼従者兼馭者の吸血鬼《ヴルダラク》ズデンカに叩き起こされるはずだ。
それが、こんな時間まで寝過ごしてしまうとは、かつてないことだった。
ホテルの部屋はがらんとして誰もいない。隣のベッドにもズデンカの姿はなかった。もとより、ズデンカは寝ないはずだが。
――どうしたんだろう。
気になりはしたが、生来暢気なルナはお茶を飲みに下の階へ降りていった。
喫茶室で、遅めの朝食を食べ、紅茶をすすった。
他の客は不思議と誰もいなかった。朝八時は必ず混んでいるのに。今は昼に近いからだろうか。
――独りも良いもんだ。
ルナは考えた。長い時間ずっとズデンカと一緒だったことに気付いたからだ。
ホテルの支配人がゆっくり自分へ近づいてくるのが分かった。
「お客さま、お話があるのですが」
「何でしょう?」
ルナは不思議に思って訊いた。支配人とは泊まった初日以来、話したことがなかったからだ。
「こちらで大丈夫でしょうか?」
支配人は耳打ちした。
「良いですよ」
ルナは朗らかに笑った。
「実は宿泊のお代金についてですが、ここ一週間ほど滞納されていまして……」
ルナは驚いた。ズデンカが払ってくれているものと思っていたからだ。
ルナは大金持ちだし、そういう日常の些事はズデンカと出会う前から召使いに一任していた。
「おかしいですね……お金を出しに行ってきます」
ルナは立ち上がった。銀行で口座を確認しなければならない。とても面倒臭い作業だった。
「いってらっしゃいませ」
送り出す支配人は微笑んでいた。だが、ルナはその唇の端にどこかこちらを馬鹿にするような影が差していることに気付いた。
ルナはそこに悪意を感じた。
ホテルを出て、銀行を地図で一生懸命探しながら歩く。
見事な方向音痴振りを発揮し、考えていたより時間が掛かってしまった。
「口座から引き出したいのですが……」
係員に告げるルナ。
「ご本人であることを証明する書類などお持ちではありませんか?」
「あ……」
忘れていたことにルナは気付いた。
「取りに帰ります」
とぼとぼと歩き出す。
ホテルの部屋に戻るとき、他の客がこちらを見て嘲笑っているように思えた。その顔には支配人と同じような悪意が浮かんでいたのだ。
――気のせいだ。
昼近くになってやっとまた銀行に戻った。
「うーん。ルナ・ペルッツさまの口座の残高はゼロですね」
銀行員が首を捻る。
「そんな! 確かめてください!」
ルナは珍しく背筋が寒くなるものを覚えた。お金など、ありあまるほど持っていたはずなのに。
「ありません。本当にゼロです」
銀行員はきっぱりと言った。その口の端に笑みが浮かんでいた。
悪意を含んだ。
もう、ホテルには戻れない。こんなことで法を踏み破りたくなかったが、払えない以上仕方がない。
0
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。


どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

のほほん異世界暮らし
みなと劉
ファンタジー
異世界に転生するなんて、夢の中の話だと思っていた。
それが、目を覚ましたら見知らぬ森の中、しかも手元にはなぜかしっかりとした地図と、ちょっとした冒険に必要な道具が揃っていたのだ。
とあるおっさんのVRMMO活動記
椎名ほわほわ
ファンタジー
VRMMORPGが普及した世界。
念のため申し上げますが戦闘も生産もあります。
戦闘は生々しい表現も含みます。
のんびりする時もあるし、えぐい戦闘もあります。
また一話一話が3000文字ぐらいの日記帳ぐらいの分量であり
一人の冒険者の一日の活動記録を覗く、ぐらいの感覚が
お好みではない場合は読まれないほうがよろしいと思われます。
また、このお話の舞台となっているVRMMOはクリアする事や
無双する事が目的ではなく、冒険し生きていくもう1つの人生が
テーマとなっているVRMMOですので、極端に戦闘続きという
事もございません。
また、転生物やデスゲームなどに変化することもございませんので、そのようなお話がお好みの方は読まれないほうが良いと思われます。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる