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第一部

第七話 美男薄情(8)

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 身長から考えて大蟻食がそんな長い腕を持っているとは思われないが、延ばしたのだろうか。

 真っ赤な血を滴らせた片腕を引き抜いて、取り出した臓物の一部に囓り付いた。腕は元に戻っていた。

「うん、カエルの味もなかなかいける」
「何でお前が?」

 ズデンカは後ろに退いた。

「このアルチュールって男はたくさんの女の怨みを買っていたからねえ。自分の命を犠牲にしても、殺したいってやつが一人いたんだよ。だからさ」

「ごぇこ、ごぇこ!」

 血を吹きながらも、カエルはまだ生きていた。

 大蟻喰がまだ突っ込んでいる方の腕から擦り抜けようと巨体を唸らせ血を滴らしながら悶える。

「間抜けな奴だな」

 大蟻喰はカエルの背骨を砕き、頭蓋から脳を引きずり出した。

 カエルは妙な声を上げて絶息した。

 月の光を浴び、短く刈り上げた頭を反らせて、大蟻食は脳を貪り食らう。

「やっぱりここの味は人間と変わらないね。ん? これはなにかな?」

 地面へ沈み込むカエルの巨体の中から血まみれになった一冊の本を抜き出した。

「『鐘楼の悪魔』だ!」

 ズデンカは叫んだ。

「ふぁにほれ?」
 大蟻喰は脳を噛みちぎりながら聞いた。

「渡せ。その本は人間に害をもたらす!」

 ズデンカは真顔でつめよった。

「面白そう!」

 大蟻喰は本を抱えて身を引き離した。

「頂いてくよ。ルナと君だけがこんな面白い本のことを知ってるなんて許せない!」

 愛と憎しみリーベ・ウント・ハースと刺繍された外套の内側に『鐘楼の悪魔』をたくしこむと、大蟻喰は高く跳躍して側に合った家の屋根に登った。

 そのまま屋根を伝って素早く逃げていく。

「クソッ。行かねえと」

 ズデンカも後を追おうとした。

「もういいよ。疲れただろ」

 その肩をルナが軽く叩いた。

「あたしは疲れないさ。あの本を置いておくと……」

「大丈夫だよ。大蟻喰はあれをちゃんと処分してくれる」

 ルナはにこりと微笑んだ。

「どうしてそう断言できる?」
「勘だよ」
「はぁ?」

 ズデンカは顔を顰めた。

「君も言っただろ。理屈より勘の方が役に立つ、ってさ」

 ルナは帽子を脱ぎ、頭を指差した。

 ズデンカは一本取られた。


 
 まだまだ不安なズデンカは後ろを振り返りながら、ファビエンヌを避難させた場所に戻った。

 ファビエンヌは身動ぎもせずに待っていた。

「もう、帰った方がいい」

 ズデンカは静かに言う。

「行かせてください」

 ファビエンヌは答えた。

「見ても面影はないぞ」
「いいんです」

 ファビエンヌは歩き出した。

「はぁー」

 ズデンカは溜息を吐いた。

「どうしても見たいようだし、いいじゃないか」

 ルナは笑っていた。

「お前はそう言うがな」

 ズデンカは結局ファビエンヌを追った。

 崩れた建物の残骸の中、頭を裂かれたカエルが力なく地面に横たわっていた。

 ファビエンヌは跪き、その頭をゆっくり撫でた。

「これで、ずっと一緒にいれるね」

 ファビエンヌは疣だらけで醜く膨れ上がったカエルの顔を心ゆくまで触っていた。愛おしむかのように優しく。

「ファビエンヌさん、あなたのお願いは何でしょう。綺譚《おはなし》はここに完結しましたからね」

 ルナは手帳に文字を書き付けながら言った。

「叶いましたから。必要ありません。アルチュールと誰にも邪魔されずにずっと二人だけでいたかったんです」
「そうですか。じゃあ、わたしが立ち去ることで願いを叶えましょう」

 ファビエンヌは返事をしなかった。

 ルナは静かに歩き出した。

「さあ行こう」

  とズデンカを急かす。

「分かったよ」

 ズデンカはまだ名残惜しげだった。

「あんな願いの叶え方があるか」

 二人は並んで歩いた。

「ファビエンヌさんが望んでいるんだから」
「死んだ命を生き返らせてやることも出来ないしな」

 ズデンカは考え込んだ。

「生き返らせることすらファビエンヌさんは望まないかも知れないよ。そしたらまだ多くの女性と遊ばれるからね。あんな化け物に近づくやつは誰もいないだろ」
「確かに」

「そう考えるとこれは一つの幸福な結末《ハッピー・エンド》と言えるのじゃないかい?」

 ルナはいたずらっぽくズデンカに目配せした。

「あたしは知らん」

 ズデンカは先を歩き出した。

「気になってるくせに」
「たくさんの人間が死んでいるんだ。それも、あたしらの行くところはどこでも」

 ズデンカは冷たく言った。

「死神と呼ばれても言い返せないね」

 ルナは声を落とした。

「早く離れたのは正解だったな」

 カエルの死に気付き、大勢の野次馬が集まり始めていた。

「ファビエンヌさんはずっとあのままなのかな」

 ルナはぽつりと呟いた。

「やつに任せればいいだろ。それがお前の選択だ」
「うん」

 ルナは霞の掛かる月を見上げて言った。
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