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第一部
第五話 八本脚の蝶(4)
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八本脚の蝶は飛んだ。最初はゆらゆらとしていたが、やがて真っ直ぐにおのれの目的の場所を目指して部屋の外へ向かっていく。
周りの連中は突如として生を得た蝶にふたたびざわめきだした。
「何をやったんだ?」
「魔法だ!」
ルナたちはそれを無視して後を追った。
「作者が見つかったら、そいつをボクが食べちゃえば手っ取り早いよ」
大蟻喰は面倒臭そうだった。
「いや、わたしは蝶にまつわる綺譚《おはなし》こそが聞きたいのだからね」
ルナは諭すように言った。
蝶は展覧会場を出るとのびのびと空高く飛翔した。
冬の冷たい空気と降りかかる雪は昆虫には堪えるはずだが、実在しない蝶は悠々と飛んだ。
「あれ以上昇られると追えないぜ」
ズデンカもいい加減にしてくれという気持ちになっていた。
「何とか探せるだろ。さ、いくよ」
展覧会場は瀟洒な住宅が建ち並ぶ地区にあったのだが、蝶はそこの家々には目もくれずに通り過ぎる。
隣接する貧民街の方へと向かうのだった。
臭いすら移り変わり、大蟻喰は露骨に嫌な顔になった。
「あまり行きたくないとこだ」
十年前、トゥールーズを占拠していたスワスティカ軍は矢も盾もたまらず自国領に後退した。そのため、戦火を受けることなく昔の町並みがそのまま残されているのだ。
そのうちの質素だが小綺麗に整えられた家の窓の中へ鬼百合のような蝶は入っていった。
ルナは扉のベルを鳴らした。
返事がない。
ルナは続けて鳴らした。
ややあって扉の奥でパタパタとした跫音《あしおと》が聞こえて来たかと思うと、小柄な五十代ばかりの髪に白いものが混じった女性が姿を現した。
「どなたさまですか?」
「あなたが展覧会でピンで留めた八本脚の蝶について教えて頂きたいのです」
ルナは一揖した。
女性はルナを冷たい眼で見た。
「ご存じない方には話したくないです」
扉を閉めようとした。大蟻喰はその間に指を差し入れ、首だけを中に突っ込んだ。
「ちょっと待ってよ。ルナが話したいって言ってるのに」
女性は怯えたように大蟻喰を見た。
「わたしはルナ・ペルッツと申します」
女性は流石に気付いたようだった。
「ああ、かの有名な。私はマルセルです」
「わたしに綺譚《おはなし》を語ってくださったら、願いを一つかなえて差し上げても良いですよ」
ルナはお決まりの文句を言った。
マルセルはまだ迷惑そうな表情を変えなかった。
「私に話せることなんてありません。この家で生まれて、この街で育って、結婚もせずに、清掃の仕事をして過ごしています。それだけですよ。願いなんて……」
「でも、あなたは蝶の展覧会に入って、自分の作った蝶を刺していったでしょう? あれだけのものを作れる人はそうそういないですよ」
マルセルは困惑してルナを見やった。
「キミのやっていることは軽犯罪にあたるだろう。警察に言えばしょっ引かれるかもね」
大蟻喰はいけしゃあしゃあと述べた。
流石のマルセルも不安になったのか、
「申し訳ありません。もう二度とやりませんのでお許しください」
「まあまあ、わたしはそんなことしませんよ。この人が勝手に脅しているだけで。とりあえず中でお話ししましょう」
ルナは開かれた扉から入った。
外観と同じように室内もちゃんと整えられていた。ほとんどの家具を売ったのかがらんとはしていたものの。
女性はお茶を沸かそうと立ちあがり掛けたが、
「いい」
とズデンカが断った。
テーブルを囲んで四人は坐った。
「では、改めて伺いたいのですが、あなたは何を目的にあの蝶を展覧会に置いたんですか?」
「見て貰えるかと思いましたから。初恋の人に」
マルセルは静かに言った。
「初恋の人?」
ぴくんとルナは背筋を正して、手帳を懐から取り出し、鴉の羽ペンで書き始めた。
「この町に戻っているか、生きているかすら分からないんですけどね。あそこに蝶を置いたら、私だと分かるだろうって」
「へえ、八本脚の蝶があなたとその初恋の人の思い出なんですね」
「はい、もう四十年以上昔のことですけどね。本当にどこにでもあるような、ありふれた話ですよ」
マルセルは前置きして話し始めた。
周りの連中は突如として生を得た蝶にふたたびざわめきだした。
「何をやったんだ?」
「魔法だ!」
ルナたちはそれを無視して後を追った。
「作者が見つかったら、そいつをボクが食べちゃえば手っ取り早いよ」
大蟻喰は面倒臭そうだった。
「いや、わたしは蝶にまつわる綺譚《おはなし》こそが聞きたいのだからね」
ルナは諭すように言った。
蝶は展覧会場を出るとのびのびと空高く飛翔した。
冬の冷たい空気と降りかかる雪は昆虫には堪えるはずだが、実在しない蝶は悠々と飛んだ。
「あれ以上昇られると追えないぜ」
ズデンカもいい加減にしてくれという気持ちになっていた。
「何とか探せるだろ。さ、いくよ」
展覧会場は瀟洒な住宅が建ち並ぶ地区にあったのだが、蝶はそこの家々には目もくれずに通り過ぎる。
隣接する貧民街の方へと向かうのだった。
臭いすら移り変わり、大蟻喰は露骨に嫌な顔になった。
「あまり行きたくないとこだ」
十年前、トゥールーズを占拠していたスワスティカ軍は矢も盾もたまらず自国領に後退した。そのため、戦火を受けることなく昔の町並みがそのまま残されているのだ。
そのうちの質素だが小綺麗に整えられた家の窓の中へ鬼百合のような蝶は入っていった。
ルナは扉のベルを鳴らした。
返事がない。
ルナは続けて鳴らした。
ややあって扉の奥でパタパタとした跫音《あしおと》が聞こえて来たかと思うと、小柄な五十代ばかりの髪に白いものが混じった女性が姿を現した。
「どなたさまですか?」
「あなたが展覧会でピンで留めた八本脚の蝶について教えて頂きたいのです」
ルナは一揖した。
女性はルナを冷たい眼で見た。
「ご存じない方には話したくないです」
扉を閉めようとした。大蟻喰はその間に指を差し入れ、首だけを中に突っ込んだ。
「ちょっと待ってよ。ルナが話したいって言ってるのに」
女性は怯えたように大蟻喰を見た。
「わたしはルナ・ペルッツと申します」
女性は流石に気付いたようだった。
「ああ、かの有名な。私はマルセルです」
「わたしに綺譚《おはなし》を語ってくださったら、願いを一つかなえて差し上げても良いですよ」
ルナはお決まりの文句を言った。
マルセルはまだ迷惑そうな表情を変えなかった。
「私に話せることなんてありません。この家で生まれて、この街で育って、結婚もせずに、清掃の仕事をして過ごしています。それだけですよ。願いなんて……」
「でも、あなたは蝶の展覧会に入って、自分の作った蝶を刺していったでしょう? あれだけのものを作れる人はそうそういないですよ」
マルセルは困惑してルナを見やった。
「キミのやっていることは軽犯罪にあたるだろう。警察に言えばしょっ引かれるかもね」
大蟻喰はいけしゃあしゃあと述べた。
流石のマルセルも不安になったのか、
「申し訳ありません。もう二度とやりませんのでお許しください」
「まあまあ、わたしはそんなことしませんよ。この人が勝手に脅しているだけで。とりあえず中でお話ししましょう」
ルナは開かれた扉から入った。
外観と同じように室内もちゃんと整えられていた。ほとんどの家具を売ったのかがらんとはしていたものの。
女性はお茶を沸かそうと立ちあがり掛けたが、
「いい」
とズデンカが断った。
テーブルを囲んで四人は坐った。
「では、改めて伺いたいのですが、あなたは何を目的にあの蝶を展覧会に置いたんですか?」
「見て貰えるかと思いましたから。初恋の人に」
マルセルは静かに言った。
「初恋の人?」
ぴくんとルナは背筋を正して、手帳を懐から取り出し、鴉の羽ペンで書き始めた。
「この町に戻っているか、生きているかすら分からないんですけどね。あそこに蝶を置いたら、私だと分かるだろうって」
「へえ、八本脚の蝶があなたとその初恋の人の思い出なんですね」
「はい、もう四十年以上昔のことですけどね。本当にどこにでもあるような、ありふれた話ですよ」
マルセルは前置きして話し始めた。
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