42 / 526
第一部
第五話 八本脚の蝶(3)
しおりを挟む
展覧会場には意外と多くの人が詰めかけていた。
緋色の絨毯が一面に敷かれており、その単色さに目がやられたのか、ステッキを持ってこなかったルナはクラクラとしてズデンカによりかかった。
「大丈夫か?」
「ちょっと、ね」
「昔から繊細だから、ルナは」
大蟻喰は逆に喜んで室内を歩き回っていた。
「悪さすんなよ」
ズデンカはまた人を食い始めるのないかとハラハラしながら言った。
「ボクは食べたいときに食べるまでさ」
大蟻喰は笑った。
「もし食べたら……」
そうが言いかけてズデンカは壁面を埋め尽くすたくさんの蝶の標本に目を奪われた。
死んでいる。
ピン留めにされていて、確かに死んでいるはずだが、いまだに鮮やかな翅の色を保っていた。
シマウマを思わせたり、ミミズクのようだったり、鬼百合が咲いたかのように見えたりした。
――こんなにいろんな種類がいたのか。
ズデンカは驚いていた。
「来てよかっただろ」
ルナが耳元で呟く。
「この――名前は何て言うんだ?」
ズデンカは一匹の蝶を指差した。鬼百合を思わせるものだった。
「アカタテハって書いてるね。ふむ、でも変だな。分かるかい。この蝶、脚が八本あるよ」
ルナは蝶を色んな方向から眺めながら言った。
「どれどれー?」
二人の間に大蟻喰が顔を覗かせてきた。ズデンカは肘鉄を食らわせた。
「正面からじゃ分かりにくい、もっと近づいて横から見てよ」
ルナは言った。
「あー確かにそうだね。珍しいこともあるもんだ」
大蟻喰は驚いた。
ルナはきらりとモノクルを輝かせた。
「くんくん。綺譚《おはなし》の匂いがする」
そうやって鼻をひくつかせるポーズをやりながら一人ですっと立った。
「さて、調べるとしようか、諸君」
「誰かのイタズラです。こんなもの、最初はなかったんですよ。八本脚の蝶なんて、実在するわけないじゃないですか」
酷く困惑した顔で、小太りな展覧会の主催者は三人を見た。
「じゃあ、展覧会に来た誰かがやったかのかもしれませんね。特定出来ませんか?」
ルナは言った。
「出来るわけありません。一日何百人も来場されているんですよ!」
「出来るよね?」
大蟻喰は異様に目をぎらつかせて前へ身を乗り出した。それを見た主催者はたちまち身震いを始めた。
「まあまあ」
ルナはその肩を軽く叩いた。
大蟻喰は口を拭った。よだれを垂らしていたのだ。
「じゃあその蝶だけくださいませんか? いたずらなんだったら、必要ないでしょう。お金ならいくらでも」
「いっ、いえ、うちのものじゃないんでタダで結構です」
主催者は冷や汗を掻き顔をハンカチで拭きながら蝶に刺さった針を抜き、掌の上へ慎重に乗っけて戻ってきた。
「こちらです」
ルナはそれを不器用な手付きで取った。思わず落としそうになったところをズデンカが押さえた。
「ちゃんと持っとけよ」
ズデンカに置き直して貰って、ルナはそれを掌の上でしげしげと眺める。
糸や紙や粘土や針金が丁寧に撚《よ》り合わされており、本物と見紛わんばかりだった。
「精巧に作られてるなあ。でも、偽物なんだよね。たぶん」
指先でつんつんしていた。そのルナの様子を見てなぜかズデンカは心が落ち着いた。
「つまんないの」
大蟻喰は退屈そうだった。
「じゃあ、少し場所を移して」
展覧会場の奥にある喫煙室へ三人は歩いていった。
たくさんの紳士が煙草を吹かせていたが、ルナたちはずかずか踏み込んだ。
「女かよ」
「あれ、ルナ・ペルッツだよな」
「そう言えば……」
ささやき交わす声。馬鹿にするような笑いが聞こえた。
たまらずズデンカは一睨みした。
室内は水を打ったように静かになる。
ルナは気にせずパイプに火を点けた。蝶の標本へ煙を掛ける。
とたんにその蝶は生あるもののように羽ばたきを始めた。
「幻解《エントトイシュング》出来るってことは作者はまだ生きてるらしい。それもきっと遠くじゃない」
緋色の絨毯が一面に敷かれており、その単色さに目がやられたのか、ステッキを持ってこなかったルナはクラクラとしてズデンカによりかかった。
「大丈夫か?」
「ちょっと、ね」
「昔から繊細だから、ルナは」
大蟻喰は逆に喜んで室内を歩き回っていた。
「悪さすんなよ」
ズデンカはまた人を食い始めるのないかとハラハラしながら言った。
「ボクは食べたいときに食べるまでさ」
大蟻喰は笑った。
「もし食べたら……」
そうが言いかけてズデンカは壁面を埋め尽くすたくさんの蝶の標本に目を奪われた。
死んでいる。
ピン留めにされていて、確かに死んでいるはずだが、いまだに鮮やかな翅の色を保っていた。
シマウマを思わせたり、ミミズクのようだったり、鬼百合が咲いたかのように見えたりした。
――こんなにいろんな種類がいたのか。
ズデンカは驚いていた。
「来てよかっただろ」
ルナが耳元で呟く。
「この――名前は何て言うんだ?」
ズデンカは一匹の蝶を指差した。鬼百合を思わせるものだった。
「アカタテハって書いてるね。ふむ、でも変だな。分かるかい。この蝶、脚が八本あるよ」
ルナは蝶を色んな方向から眺めながら言った。
「どれどれー?」
二人の間に大蟻喰が顔を覗かせてきた。ズデンカは肘鉄を食らわせた。
「正面からじゃ分かりにくい、もっと近づいて横から見てよ」
ルナは言った。
「あー確かにそうだね。珍しいこともあるもんだ」
大蟻喰は驚いた。
ルナはきらりとモノクルを輝かせた。
「くんくん。綺譚《おはなし》の匂いがする」
そうやって鼻をひくつかせるポーズをやりながら一人ですっと立った。
「さて、調べるとしようか、諸君」
「誰かのイタズラです。こんなもの、最初はなかったんですよ。八本脚の蝶なんて、実在するわけないじゃないですか」
酷く困惑した顔で、小太りな展覧会の主催者は三人を見た。
「じゃあ、展覧会に来た誰かがやったかのかもしれませんね。特定出来ませんか?」
ルナは言った。
「出来るわけありません。一日何百人も来場されているんですよ!」
「出来るよね?」
大蟻喰は異様に目をぎらつかせて前へ身を乗り出した。それを見た主催者はたちまち身震いを始めた。
「まあまあ」
ルナはその肩を軽く叩いた。
大蟻喰は口を拭った。よだれを垂らしていたのだ。
「じゃあその蝶だけくださいませんか? いたずらなんだったら、必要ないでしょう。お金ならいくらでも」
「いっ、いえ、うちのものじゃないんでタダで結構です」
主催者は冷や汗を掻き顔をハンカチで拭きながら蝶に刺さった針を抜き、掌の上へ慎重に乗っけて戻ってきた。
「こちらです」
ルナはそれを不器用な手付きで取った。思わず落としそうになったところをズデンカが押さえた。
「ちゃんと持っとけよ」
ズデンカに置き直して貰って、ルナはそれを掌の上でしげしげと眺める。
糸や紙や粘土や針金が丁寧に撚《よ》り合わされており、本物と見紛わんばかりだった。
「精巧に作られてるなあ。でも、偽物なんだよね。たぶん」
指先でつんつんしていた。そのルナの様子を見てなぜかズデンカは心が落ち着いた。
「つまんないの」
大蟻喰は退屈そうだった。
「じゃあ、少し場所を移して」
展覧会場の奥にある喫煙室へ三人は歩いていった。
たくさんの紳士が煙草を吹かせていたが、ルナたちはずかずか踏み込んだ。
「女かよ」
「あれ、ルナ・ペルッツだよな」
「そう言えば……」
ささやき交わす声。馬鹿にするような笑いが聞こえた。
たまらずズデンカは一睨みした。
室内は水を打ったように静かになる。
ルナは気にせずパイプに火を点けた。蝶の標本へ煙を掛ける。
とたんにその蝶は生あるもののように羽ばたきを始めた。
「幻解《エントトイシュング》出来るってことは作者はまだ生きてるらしい。それもきっと遠くじゃない」
0
お気に入りに追加
9
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
[恥辱]りみの強制おむつ生活
rei
大衆娯楽
中学三年生になる主人公倉持りみが集会中にお漏らしをしてしまい、おむつを当てられる。
保健室の先生におむつを当ててもらうようにお願い、クラスメイトの前でおむつ着用宣言、お漏らしで小学一年生へ落第など恥辱にあふれた作品です。
愚かな父にサヨナラと《完結》
アーエル
ファンタジー
「フラン。お前の方が年上なのだから、妹のために我慢しなさい」
父の言葉は最後の一線を越えてしまった。
その言葉が、続く悲劇を招く結果となったけど・・・
悲劇の本当の始まりはもっと昔から。
言えることはただひとつ
私の幸せに貴方はいりません
✈他社にも同時公開
あなたの子ですが、内緒で育てます
椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」
突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。
夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。
私は強くなることを決意する。
「この子は私が育てます!」
お腹にいる子供は王の子。
王の子だけが不思議な力を持つ。
私は育った子供を連れて王宮へ戻る。
――そして、私を追い出したことを後悔してください。
※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ
※他サイト様でも掲載しております。
※hotランキング1位&エールありがとうございます!
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
30年待たされた異世界転移
明之 想
ファンタジー
気づけば異世界にいた10歳のぼく。
「こちらの手違いかぁ。申し訳ないけど、さっさと帰ってもらわないといけないね」
こうして、ぼくの最初の異世界転移はあっけなく終わってしまった。
右も左も分からず、何かを成し遂げるわけでもなく……。
でも、2度目があると確信していたぼくは、日本でひたすら努力を続けた。
あの日見た夢の続きを信じて。
ただ、ただ、異世界での冒険を夢見て!!
くじけそうになっても努力を続け。
そうして、30年が経過。
ついに2度目の異世界冒険の機会がやってきた。
しかも、20歳も若返った姿で。
異世界と日本の2つの世界で、
20年前に戻った俺の新たな冒険が始まる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる