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第一部

第三話 姫君を喰う話(9)

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 群衆は阿鼻叫喚を上げ、逃げ惑っていた。


「ボクは姫君との約束を守ってキンスキーとやらを喰った。もちろん、死ぬまである程度息が続くようにはしてやった。苦しませてあげなきゃいけないからね。それから、わざと捕まった。君たちを食べるためだ」


 大蟻喰は手を空に向けて広げ、


「血の雨よ、降れ! 『貪食』!」


 小さい身体の腹部が突き破られるほど膨張し、巨大な口――並び立つ凄まじく尖った歯を持つ肉塊がうねりながら、群衆へ襲いかかった。


 大蛇のように動きで逃げ惑う群衆をあますことなく噛みちぎり、飲み込んでいく肉塊。


 骨が砕け、髄が散り、処刑を見に訪れた者は結局自らも処刑される側となっていたのだった。


 だが、大蟻喰は視線をルナとズデンカに移した。既にだいぶ群衆から身を引き離して、まろび落ちた臓物の海の中で冷ややかに立っている。


「ルナ! ルナ・ペルッツ!」


 大蟻喰は嬉々として叫んだ。


「やっぱり、キミが来たんだね!」


 轟音と共に己の身内に肉塊を引っ込めると、大蟻食はルナ目掛けて凄いスピードですっ飛んでいった。


「ボクはルナの大脳が食べたい。小脳が食べたい。延髄が食べたい。脊髄が食べたい。食道が横隔膜が心臓が肺臓が肝臓が脾臓が胆嚢が腎臓が十二指腸が結腸が大腸が小腸が虫垂が膀胱が卵巣が子宮が膣が食べたい。キミの全てを食べて、食べ尽くして一緒にならならなきゃならないんだ!」


 そうやってよだれを垂らしながらルナに囓り付こうとするところを強烈な殴打の一撃がはじき飛ばした。


「気色悪りぃんだよ!」


 ズデンカだった。


「わたしは君に食べられてもいいよ。でも、今はだめだ。他にすることがあるから」


 ルナは相変わらずだった。


「お前までなんなんだよ。おい、こいつ知ってるのかよ」


 ズデンカは焦った。


「うーん、すぐには出て来ない、かな」


 ルナは首をひねった。


「この姿じゃ覚えてないかもね。でも……」


 ゆらゆらと立ち上がったかと思うと、大蟻食は再び跳躍して、ルナの元へ近づいた。 


 それを押さえようと遮るズデンカ。


 「食べちゃえばそんなの関係ない!」


 大蟻喰は勢いよく手刀をズデンカの額へ突き立てた。


 「脳を食べさせてよぉ!」


 しかし、血は流れない。ズデンカは冷ややかにニヤリと笑った。


 「脳が……ない……?」


 大蟻喰は微かに驚いたように見えた。その腹へ思い切りズデンカの回し蹴りが入り、地面へたたき伏せられる。


「あたしは吸血鬼でね。脳味噌はとっくの昔に腐れ落ちて、痛みすら感じねえよ」


 額にぽっかり空いた暗い傷口がみるみるうちに塞がっていく。 


「ヴルダラク……知能が低い僻地の不死者かぁ」


 血の混じった唾を吐き、大蟻喰はうそぶいた。


「ルナに触れんじゃねえ!」

「やーだよ」


 靴で大蟻喰の顔を蹴りつけるズデンカ。相手はその足を掴んで握りつぶそうとした。


 力と力のぶつかり合い。どちらもが物凄い力で押している。


 ややあって二名は柘榴が弾けるように左右に分かれた。


 再び、激しい勢いでぶつかり合う。


 ズデンカと優に二倍近くの身長差があったが、大蟻喰は軽々と跳ね回り、蹴りや手刀を腕に何度も叩き込んだ。


 激しい勢いで斬られてもズデンカはすぐに再生していく。


「キミ、よっぽど、ルナが好きなんだねぇ……ムカツク!」


 大蟻喰の声に少し怒りが混じった。


「てめえはイカれてるよ」


 ズデンカは大蟻喰の打撃を受け止めながら叫んだ。


ルナはそれを冷ややかに見ながらパイプを取り出して煙草を詰め火を点した。


「幻解」


 ルナが次々と吐き出す煙が、あたりを覆い尽くした。


「ああ、ルナの幻想だぁ……」


 大蟻喰はうっとりとした顔をした。

 煙はやがて一つのかたちになっていった。それは先ほど大蟻喰が己の腹の中から引き出した、肉塊と同じかたちをしていた。


「まだ、まき散らされた脳の一つが生きていたらしい。最後に見た光景を再現出来たようだ」


 ルナは平然としていた。ズデンカは大蟻食から離れて、それを急いで横抱きにして走り出した。 


 肉塊は大蟻食へと雪崩懸かっていく。


「しけたげんそーにむくいあれー」


 自分の腕の中でへらへらと半笑いで決まり文句を唱えるルナをズデンカは渋い顔で見つめていた。
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