上 下
8 / 526
第一部

第一話 蜘蛛(8)

しおりを挟む


第一話 蜘蛛(8)

「この町という狭い世間から見れば、リーザさんは母親としては失格だったかも知れない。でも、マルタさんは父ではなく母を描いた。これは実に興味深いことだと思わないかい?」


 ルナはズデンカに目配せを送った。


「そういうことか」


 ズデンカは項垂れた。その瞳は少し潤んでいた。


「もらい泣きか。実に君らしいな」

「んなもんじゃねえよ」


 ルナはリーザへ近づいた。


「さて、リーザさん。わたしはあなたの願いを一つだけ叶えることができます。と言っても、命に関わるものはなしです。失われた命は帰りません。わたしにできる範囲はごく少ない。さあ、何を望みますか?」


 リーザはルナの耳元へ身を寄せて、何事か呟いた。


「わかりました。それじゃあ失礼ながら」


 と言って、ルナはリーザの頭にさっと手をやった。

 とたんにリーザは眠りに落ちた。

 パイプからまた煙が流れる。それが街中へと広がった。


「さ、この町とはもうおさらばだ。長居しても良いことはなさそうだからね」


 ルナはそう言って先へすたすたと歩き出した。


「何をやったんだ」

「単純なことだよ。リーザさんはマルタさんや自分が母親だった記憶を忘れる。また、町の人たちもリーザさんを忘れる。世間はもうやもめのオットーさんの娘が町長によって殺され、何者かが報復として殺害したと認識しているよ。容疑者として一番疑われるのはオットーさんだけど、彼はその濡れ衣を甘んじて着るだろう。リーザさんは周りのしがらみから解き放たれて、晴れて天涯孤独の身になる」

「なんでマルタを忘れさせるんだよ!」


 ズデンカは食ってかかった。


「むごたらしく殺された娘の思い出は、彼女の心を蝕むのだろう。自分のせいでと思ってしまって。それぐらいは想像を働かせなきゃね」

「そりゃ……! だがなぁ」


 ズデンカは口ごもった。


「昆虫を調べたいんだそうだ。そして、いつかあの蜘蛛と同じ種類のものを見付けたいらしい」 

「そこまで……」

「しがらみの中で生きるより時には孤独が幸せなこともある。もちろん、上手く生きていけるかは別だけど」


「んな、無責任な」

「無責任になるしかないよ。人は誰でも他人の人生の傍観者さ」

「けっ、うまいこと言いやがるぜ」

「リーザさんが事件に関わったのを知るのは我々だけだ。遠からず我々の消滅で闇に葬られる。もっとも、君のそれはだいぶ後になるだろうけど。でも、口外しないよね?」

「しねえよ。つーか縁起でもないこと言うな!」


 ルナは悪戯っぽく舌を見せた。


「ところで、さっき町長の家でくすねてきたんだが」


 と言ってズデンカは懐から一冊の本を取りだした。そこには禍々しいばかりの金文字で『鐘楼の悪魔』と記されていた。著者の名前はない。


 途端にルナは深刻な顔つきになり、それを手に取った。


「前に何度か見たぞ。おかなことをしでかした奴の家にはみんなこの本があった。何か関係があるんじゃねえか? しかも鐘楼だ。イカレてるとしても、なんであんな目立つようなことをする」


 躊躇わずルナはライターをその本へ点した。


「内容はもう知ってる。もっともわたしが読んだものと町長の読んだものが同じって保証はないけどね。他の人が読んだら大変だ」


 瞬く間に炎は燃え上がり、本は真っ黒焦げに変わって風の中へ四散していった。


「しけた幻想に報いあれ、さ」


 舞い上がる焦げを見上げながらルナは言った。


「本を焼くものはみずからもまた焼かれる――そう言ったのは誰だったっけな」


 ズデンカは意地悪く言った。


「引用間違えてるよ。まあいい。焼かれて終わるのは最初から分かってる」


 ルナは笑った。


「また、縁起でもねえことを!」


 ズデンカは両手を振り上げて怒鳴った。


「君がまいた種だろ?」


 言い合う二人を照らす月光は、鐘楼の風見鶏の上で目を抉られ、口を開けてまぬけ面を浮かべた町長の首にも惜しみなく振り注がれていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

生贄にされた先は、エロエロ神世界

雑煮
恋愛
村の習慣で50年に一度の生贄にされた少女。だが、少女を待っていたのはしではなくどエロい使命だった。

[恥辱]りみの強制おむつ生活

rei
大衆娯楽
中学三年生になる主人公倉持りみが集会中にお漏らしをしてしまい、おむつを当てられる。 保健室の先生におむつを当ててもらうようにお願い、クラスメイトの前でおむつ着用宣言、お漏らしで小学一年生へ落第など恥辱にあふれた作品です。

愚かな父にサヨナラと《完結》

アーエル
ファンタジー
「フラン。お前の方が年上なのだから、妹のために我慢しなさい」 父の言葉は最後の一線を越えてしまった。 その言葉が、続く悲劇を招く結果となったけど・・・ 悲劇の本当の始まりはもっと昔から。 言えることはただひとつ 私の幸せに貴方はいりません ✈他社にも同時公開

御機嫌ようそしてさようなら  ~王太子妃の選んだ最悪の結末

Hinaki
恋愛
令嬢の名はエリザベス。 生まれた瞬間より両親達が創る公爵邸と言う名の箱庭の中で生きていた。 全てがその箱庭の中でなされ、そして彼女は箱庭より外へは出される事はなかった。 ただ一つ月に一度彼女を訪ねる5歳年上の少年を除いては……。 時は流れエリザベスが15歳の乙女へと成長し未来の王太子妃として半年後の結婚を控えたある日に彼女を包み込んでいた世界は崩壊していく。 ゆるふわ設定の短編です。 完結済みなので予約投稿しています。

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

♡蜜壺に指を滑り込ませて蜜をクチュクチュ♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショート♡年末まで毎日5本投稿中!!

【完】あの、……どなたでしょうか?

桐生桜月姫
恋愛
「キャサリン・ルーラー  爵位を傘に取る卑しい女め、今この時を以て貴様との婚約を破棄する。」 見た目だけは、麗しの王太子殿下から出た言葉に、婚約破棄を突きつけられた美しい女性は……… 「あの、……どなたのことでしょうか?」 まさかの意味不明発言!! 今ここに幕開ける、波瀾万丈の間違い婚約破棄ラブコメ!! 結末やいかに!! ******************* 執筆終了済みです。

処理中です...