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第一部
第一話 蜘蛛(8)
しおりを挟む第一話 蜘蛛(8)
「この町という狭い世間から見れば、リーザさんは母親としては失格だったかも知れない。でも、マルタさんは父ではなく母を描いた。これは実に興味深いことだと思わないかい?」
ルナはズデンカに目配せを送った。
「そういうことか」
ズデンカは項垂れた。その瞳は少し潤んでいた。
「もらい泣きか。実に君らしいな」
「んなもんじゃねえよ」
ルナはリーザへ近づいた。
「さて、リーザさん。わたしはあなたの願いを一つだけ叶えることができます。と言っても、命に関わるものはなしです。失われた命は帰りません。わたしにできる範囲はごく少ない。さあ、何を望みますか?」
リーザはルナの耳元へ身を寄せて、何事か呟いた。
「わかりました。それじゃあ失礼ながら」
と言って、ルナはリーザの頭にさっと手をやった。
とたんにリーザは眠りに落ちた。
パイプからまた煙が流れる。それが街中へと広がった。
「さ、この町とはもうおさらばだ。長居しても良いことはなさそうだからね」
ルナはそう言って先へすたすたと歩き出した。
「何をやったんだ」
「単純なことだよ。リーザさんはマルタさんや自分が母親だった記憶を忘れる。また、町の人たちもリーザさんを忘れる。世間はもうやもめのオットーさんの娘が町長によって殺され、何者かが報復として殺害したと認識しているよ。容疑者として一番疑われるのはオットーさんだけど、彼はその濡れ衣を甘んじて着るだろう。リーザさんは周りのしがらみから解き放たれて、晴れて天涯孤独の身になる」
「なんでマルタを忘れさせるんだよ!」
ズデンカは食ってかかった。
「むごたらしく殺された娘の思い出は、彼女の心を蝕むのだろう。自分のせいでと思ってしまって。それぐらいは想像を働かせなきゃね」
「そりゃ……! だがなぁ」
ズデンカは口ごもった。
「昆虫を調べたいんだそうだ。そして、いつかあの蜘蛛と同じ種類のものを見付けたいらしい」
「そこまで……」
「しがらみの中で生きるより時には孤独が幸せなこともある。もちろん、上手く生きていけるかは別だけど」
「んな、無責任な」
「無責任になるしかないよ。人は誰でも他人の人生の傍観者さ」
「けっ、うまいこと言いやがるぜ」
「リーザさんが事件に関わったのを知るのは我々だけだ。遠からず我々の消滅で闇に葬られる。もっとも、君のそれはだいぶ後になるだろうけど。でも、口外しないよね?」
「しねえよ。つーか縁起でもないこと言うな!」
ルナは悪戯っぽく舌を見せた。
「ところで、さっき町長の家でくすねてきたんだが」
と言ってズデンカは懐から一冊の本を取りだした。そこには禍々しいばかりの金文字で『鐘楼の悪魔』と記されていた。著者の名前はない。
途端にルナは深刻な顔つきになり、それを手に取った。
「前に何度か見たぞ。おかなことをしでかした奴の家にはみんなこの本があった。何か関係があるんじゃねえか? しかも鐘楼だ。イカレてるとしても、なんであんな目立つようなことをする」
躊躇わずルナはライターをその本へ点した。
「内容はもう知ってる。もっともわたしが読んだものと町長の読んだものが同じって保証はないけどね。他の人が読んだら大変だ」
瞬く間に炎は燃え上がり、本は真っ黒焦げに変わって風の中へ四散していった。
「しけた幻想に報いあれ、さ」
舞い上がる焦げを見上げながらルナは言った。
「本を焼くものはみずからもまた焼かれる――そう言ったのは誰だったっけな」
ズデンカは意地悪く言った。
「引用間違えてるよ。まあいい。焼かれて終わるのは最初から分かってる」
ルナは笑った。
「また、縁起でもねえことを!」
ズデンカは両手を振り上げて怒鳴った。
「君がまいた種だろ?」
言い合う二人を照らす月光は、鐘楼の風見鶏の上で目を抉られ、口を開けてまぬけ面を浮かべた町長の首にも惜しみなく振り注がれていた。
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