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三者三様のコンプレックス
帰り道
しおりを挟む課長が攻撃の手を緩めた後も、胸がドキドキとして落ち着かなかったけれど、何とか食事をすることができた。
頼んだ料理を残すのは好きじゃないから、きちんと食べることができてよかったと、ホッと息をつきながら店の外に出る。
空はまだ何とかもっているようで、雨は降りそうで降らないままだった。
「課長、御馳走さまでした。とても美味しかったです」
会計を済ませて出てきた課長にお礼を言うと、「どういたしまして」と笑顔で返される。
「家まで送るけど、先に少し歩こうか? この先に公園があるんだ」
課長に手を差し出されて、少し躊躇った後にその手を取った。
杉野と手を繋いだ時は、胸が苦しいほどにドキドキした。
今は、ドキドキするというよりも何だか落ち着く。
私の中に、課長に対する信頼のようなものがあるのだと自覚する。
この人はきっと素の私も受け止めてくれると、素直に信じられた。
課長の言う通り、しばらく歩くと予想外に大きな公園があった。
夜のせいで人気がないので、一人だったなら決して近づかなかっただろうけど、今は課長がいるから怖くない。
「実はこの公園を通り抜けた先の道の方が、タクシーを拾いやすいんだ。でも、もう少し話をしたいから、ゆっくり歩こうか」
種明かしをするみたいに、茶目っ気のある表情で課長が笑う。
会社では見ることのない表情が、凄く特別に思えた。
「君がまだ杉野を好きなことは知っている。でも、僕にもチャンスをくれないか? 僕のことをもっと知ってほしいし、僕ももっと君のことを知りたい。僕を知っても、それでもどうしても恋人としては見られないというのなら、その時は潔く諦めるから、僕にもチャンスが欲しい」
それはとても魅力的な提案だった。
今答えを出すように言われても難しいし、杉野に心を残した中途半端な状態で、課長ときちんと向き合えるとは思えなかったから。
考えるための、そして課長を知るための時間が欲しかった。
それに、課長といて安らいでいる自分に気づいたから、時間を重ねても変わらないのかどうか確かめたかった。
「課長がそれでいいのなら、構いません」
私が返事をすると、課長は安心したように息をつく。
「これで断られていたら、望みは全くないってことだから、泣きながら自棄酒かっ食らうところだったよ」
課長が冗談を言うから思わず笑ってしまうと、じっと見つめられた。
強すぎる視線が恥ずかしくて、視線が泳いでしまう。
「君の飾らない笑顔が、もっと見たい。時々見せてくれるその表情が、僕はたまらなく好きなんだ」
私の父もかなり恥ずかしいセリフを平気で口にする人だけど、課長はもっと上をいっている。
頬だけでなく、耳のあたりまでじわっと熱くなって、恥ずかしさのあまり課長の顔が見られない。
「……そんなに可愛い顔をされると、理性が吹き飛びそうで困る。君は時々、ありえないほどに凶悪だ」
何かの衝動を堪えるかのように繋いだままの手に力を籠められて、そのまま引き寄せられた。
課長の胸元に身を寄せるような形になってしまったけれど、自制しているのか、私の体に課長の腕が回されることはない。
あれだけ熱烈に口説くのに、手を繋ぐ以上のことはしないと決めているかのようで、そこに課長の誠実さを感じた。
「よし! 僕の理性が飛ぶ前に帰ろうか」
繋いだ手を軽く振りながら、課長が歩き出した。
その仕草が、まるで小さな子供が手を繋いで歩いているときのようで、微笑ましい気分になりながら、課長の隣を並んで歩く。
「大人の余裕を見せて、次は週末にって、かっこよく言いたいところだけど、週末まで待てそうにないから、その前に誘ってもいいかな?」
窺うように私を見る課長が可愛く見えて、考える間もなく頷いていた。
会社では完璧なエリートサラリーマンといった風情の課長に、こんなに子供っぽい面があるとは思いもしなかった。
いつもの課長よりもずっと身近に感じて、課長が素の自分を見せてくれようとしているのだと伝わってくる。
「でも、仕事で忙しいんじゃないですか? 私、課長が残業しないのを見たことがありません」
課長は、下手をすると土日も休んでないんじゃないかっていうくらい、仕事人間のはずだ。
今日だって、かなり無理をして仕事を切り上げてきたんじゃないだろうか。
問いかけながら隣を歩く課長を見上げると、何故か気まずそうに視線をそらされた。
「僕が馬車馬のように働いていたのって、代償行為でもあったんだよ。君を諦めようとして、苦しくて、忙しくしていれば少しは紛れたから、だから、馬鹿みたいに仕事をしていた。でも、諦めるのはやめたから、少しずつ仕事を減らすよ。そろそろ新入社員も育ってきたから、仕事の割り振りもできるようになってきたし、それに、今までのやり方には問題があったから。本当はわかっていたんだ、たとえ僕がいなくなっても、きちんと業務が回るように、部下を育てて協力していかなければならないって。君が尊敬しているって言ってくれて嬉しかったけど、でも、僕は結構情けない男なんだ」
課長が数日留守にしただけで、後半は指示を仰ぐことが多かった。
今は課長に仕事が集中していて、大きな負担が掛かっている。
確かに課長の言う通り、組織としては問題があるのかもしれないけど、でも私が課長を尊敬する気持ちに変わりはない。
それに、課長の普段の仕事振りを知っているから、あれが代償行為だと言われれば、課長にどれだけ深く想われているのか、どんなにたくさんの言葉を重ねられるよりも強く伝わってくる。
「情けなくなんてないです。私達、課長が頼もしいから、つい甘えてしまっているんです。でも、そうですね。忙し過ぎて課長が倒れたりしたら嫌なので、仕事を割り振るのはいいことだと思います。今年の新入社員は3人ともとてもやる気があるし、課長に鍛えられたら、営業成績も伸びそうです」
春に配属されてきた3人の新入社員は、見た目はタイプが違うのに3人とも体育会系で、打たれ強くて根性がある。
リトルリーグ時代から、大学までずっと野球をしていたという熊野君は、背が高くて体格もいい好青年で、肩を壊さなければプロになっていたかもしれないという有名選手だったらしい。
同じように小さい頃からサッカー漬けで、有名な強豪校のサッカー部にいたらしい水上君は、一見冷静そうな爽やかなイケメンで、本人も一生懸命クールぶってるけど、でも中身が熱血なので装い切れていないところがちょっと可愛い。
もう一人、私よりも背の低い小柄な飯塚君は、小さい頃から水泳をやっていたそうで、3人の中では一番頭の回転が速い。
教えられたことをすぐに飲み込んで実践できるので、課長も鍛えがいがあるだろう。
「あの熱血3人組は、将来が楽しみだ。営業向きの子をよくぞ揃えてくれたと、人事には感謝してるんだ。あいつら、君にすごく懐いているだろう? 『美人マネージャーがいる職場、最高』って、3人で話しているのを聞いた時は、思わず笑ってしまったよ」
私の知らなかった裏話をしながら、課長が肩を震わせて笑う。
確かに私のしている仕事って、営業部の社員のサポートだから、マネージャーっぽいかもしれない。
部活のマネージャーなんてやったことがないし、マネージャーの実態なんて知らないけど。
会社のことや私的なことを交えて、課長とおしゃべりしながら歩くのは楽しかった。
家族以外の男の人と二人きりなのに、リラックスしている自分が不思議だったけど、課長の持つ魅力のせいと無理やり納得した。
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