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本編

3.これは仕事ですので

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「はじめましてイルサ嬢。お目にかかれて幸いです」

「こちらこそお目にかかれて光栄です」



 その日、イルサはリチャード、護衛として同行するグレンとともに、大使と向き合っていた。

 40そこそこの彼は少々脂ぎってはいるが、美男子として名を馳せた面影を遺している。

 彼はイルサの視線に笑みを浮かべ、しっかり整えられた長めの黒髪をきざにかき上げ、ウィンクをした。

 エルレヅル=ベルン卿。帝国の大使である。今回は4日ほどの滞在となる。

 イルサはこの日までの間に頭にたたき込んだ状況を思い出す。



(エルレズル=ベルン卿、帝国の第11位帝位継承者。現皇帝の従弟で関係性は良好。帝位に興味はないが、財には興味があり、外交、商売には長けている。そして、女性好きで、結婚を繰り返している――)



 ベルン卿は確かに軟派で噂は派手だが、その実、外交や商談については油断ができないときく。

 今も、視線はもとよりイルサをとらえていたが、向き直ったのはリチャードと話を終えてからだ。



 帝国は隣国を挟んで隣に位置するため、戦争前後での交流はほぼなかっった。

 当時は帝国も帝位争いで内部でもめていたときく。

 しかし、帝国は今の皇帝が地位を確立し、こちらも戦争が収まり、今は両国とも安定しており、状況は変わっている。



「こんな美しい女性が側にいていただけるとなると、とてもうれしいですね」

「大使は言葉がお上手で……。通訳など必要ないように感じられます」



 イルサの言葉に大使は片目をつぶり、今度は帝国語で話始める。



『まさか、私はまだまだですよ。あなたの唇を通してお話をたくさん聞かせてください』

『どこまでお役にたてるかわかりませんが、最善をつくさせていただきます』



 あくまで通訳として付き添うことを強調するも、大使は笑い、するりと距離をつめ、イルサの頬に唇を近づけ、チュッと音を立てる。

 帝国流の挨拶はなかなか慣れない。先ほどのリチャードとのあいさつで頬へのキスはしていなかったので、しなくていいと思いたかったのだが。

 しかし、された以上は返すのが礼儀である。



(直接触れなくてもいいのだけが救い……)



 イルサも大使の頬に唇を近づけた。大使はイルサが背伸びをする前に、膝をまげ、頬を寄せる。

 イルサはそのまま大使に顔を近づけ、触れる直前で止め、体を離す。音を立てるのはさすがにできなかった。

 これからの日々を考えて気が遠くなる。



 ――できるだけ距離をとって、業務的な話だけにとどめたい……。



 イルサは笑顔を作ったまま祈った。



「では、ベルン卿。広間の準備ができましたので、ご案内いたします」



 リチャードが声をかけ、大使は「頼む」と言いながら、イルサに再び片目をつぶって見せた。



 ――だいぶ長い5日間になりそうだった。



  ◇◇◇



「つかれた………」



 イルサは家についた瞬間、がっくりと肩を落とした。



「………おかえりなさいませ。イルサ様。だいぶ遅くなられましたね」



 玄関のドアの音で気づいたレイとアンネがすぐにイルサのところにやってきた。



「仕事関係で。連絡できなくてすみません」



 イルサは気まずい気持ちを忘れてレイに鞄を渡した。



「夕食はどうされますか?」

「食べてきましたので大丈夫です。アンネ、連絡できずごめんなさい」

「いえいえ私は大丈夫ですよ」



 アンネの気遣う声に申し訳なくなる。



 ――私が悪い……。



 返す返すも自分は男に対する耐性がないというか。







 まず、昨日の国王への挨拶。これは特に問題ない。

 絶対通訳いらないでしょうと指摘したくてたまらないくらい流ちょうな言葉で大使は国王に優雅な挨拶をし、国王も卒なく返答。ベルン卿から手土産が渡される。――手土産というには量が多かったが。国同士のやりとりなのだ。

 そして、明日、大使と国王、女王、王女との晩餐会の予定と双方が合意した。

 イルサがそれにも付き添うのか?とリチャードに横目で問うと、軽く左右に顔を振られた。

 あくまで個人的な食事会ということだろう。



(よかった)



 安堵したところで、挨拶が終わり、大使とは別れた。

 次の日、すなわち、今日は朝から本命の視察だった。

 大使、リチャード、イルサ、そして護衛が一行となり、馬車で周ることになった。

 王都の有名どころを周るまではよかった。大使は楽しかったといっていたし、これまではよかったのであえる。

 思ったよりも早く回れてしまったため、最後の観光地を回ったあたりで、リチャードが「長旅でお疲れでしょうから、早めに王宮に戻りましょうか」と声をかけた。

 今日は観光だけだが、明日は商売や生産技術、それに関する交流会の予定が詰まっているのだ。

 しかし、大使は首を横に振った。

 そして、「一緒にお茶をしましょう、イルサ嬢。あぁ、もちろん宰相補佐も一緒に!」といったのである。



「失礼ながら大使、本日は晩餐会のご予定が」



 リチャードが声をかけるも、



「そんなにたくさんは食べませんよ。どうせ、まだ時間はある。お昼も軽かったし、お茶くらいはね。かわいいお嬢さんと一緒にいて、お茶の一つもご馳走しない等とはさすがに男としてだめだと思うんだよ」



 リチャードもイルサも、大使は男としてここにいるのではなく外交で来てるだろ。と思ったが、何もいえなかった。

 そうして、晩餐会直前までお茶をすることになったのである。

 大使はよく話した。――観光もとい視察中も良く話していたが、やはり立場的に話も仕事に沿った内容だった。

 その中で彼はイルサの父である伯爵との交易の話をいくつか披露し、イルサはむしろ自分よりも彼の方が父に詳しいのではないかと思った。

 イルサに色々聞き出しつつ、リチャードにも色々話を聞いていた。



(特に父との関係を詳しくは聞かれなかったし……。まぁ、聞かれないならその方が良いけど……)



 イルサと父の関係は複雑だ。この国の社交界では触れてはいけない話題の一つになっている。

 今や伯爵家は国内有数の大金持ちであるし、公爵家は今でも絶大な力を持っていることから、それぞれ個別で話題に上がることはあれど、直接確執があるはずの当主同士は一切顔を合わせることがないのだ。

 これは伯爵が一切社交界に顔を出さないことが原因ではあるが――ともかく、そうなってくると話が広がるようなネタも存在しない以上、話題に上げることがないのだ。

 大使がどこまでイルサの立場を知っているのかわからないが――、少なくとも、直接聞こうとするような容赦のない人間ではなかったことで少し安心した。

 それにしても。



「疲れた」



 イルサは疲れた。当然である。

 あっちはただの世間話でも、付き合うイルサは仕事の延長である。リチャードのようにもともとそういう仕事をしているのではないのだ。慣れないし、色々気をつかうこともある。差し障りのない返答とは意外と大変であることを痛感する時間だった。

 さらにいえば、返答はもさることながら、とてもじっくりとイルサを見てくる大使の目にも疲れてしまった。



「話すのが凄く好きな方だったので……。私は普段たくさん話すことがないから疲れたんです。男性と食事にいくのが、久しぶりだったというのもあるかもしれませんね」



 ぽつりと呟く。



「まぁ、男性とのデートだったんですか?」アンネは楽しそうに言う。

「リチャードもいましたので、そんな。仕事です。デートではないですよ」

「でもアンネは嬉しいですよ、お嬢様の交友関係が広がるのは」

「そういうふうに考えるのは難しいですけどね」



 アンネの言葉にイルサは少し笑った。



「お疲れのお嬢様、焼き菓子や紅茶は必要ですか?」

「必要よ、ありがとう」



 イルサの言葉にアンネはうなずき、居間から台所に向かった。

 イルサは人心地ついてから、ふと、何も話さないレイを振り返った。



「レイ?どうかしましたか」

「いえ」



 レイはイルサに首を振った。



「――ただのお仕事ですよ、本当です」



 一応釘をさす。

 言っておきながら、なんでこんな言い訳みたいなことを言ってしまうんだろう。とイルサは思った。

 イルサとレイは何の関係もない。

 ただの主従だ。

 どんな表情をしているのかわからないレイにイルサは言い訳したくなったのだ。



「それに……私は結婚する気なんてありませんから」



 つぶやいた言葉に、自分で苦笑する。

 レイは黙ったまま、何かを考えていたようだった。

 そして、「イルサ様は」とレイが何かを言いかけたときだった。



「お嬢様~!どうぞ!疲れた心には焼き菓子が一番ですよ」



 アンネが居間に現れ、イルサにお盆に乗った紅茶と焼き菓子を渡した。



「ありがとう」



 イルサは厚意に甘えて紅茶に手を伸ばす。言いかけていたレイを見上げるも、イルサの視線に彼は顔を左右に振った。

 彼が何を言いかけたのか気になるところではあったが、言う気がないのであれば、無理に聞くこともないだろう。

 イルサは紅茶と焼き菓子に意識を向けることにした。夕飯はいらないと言ったばかりなのに、意外とお腹にはいってしまいそうで怖い。



「ちなみに、いつまでお嬢様はその方の付き添いをされるんですか?」



 アンネの言葉にイルサは、「あと3日です」と答えた。



「じゃあ、そんなに長くないのですね」

「大使は他の国にもいかれるとのことなので」

「よかったです。いえ、よくないのかしら」



 アンネは頬に手を当てて言った。



「お嬢様はあまり男性と親しくされることがないでしょう?大使はすぐにここを去られるそうですし、恋多きお方なら女性の扱いも心得てらっしゃるはず。どうせなら男性と一緒にお過ごしになる練習になるのではと思ったのですけども」

「ふふ、アンネは色々考えすぎですよ」

「そうかしら?大使でしたら、どうせリチャード様も付き添われたり、護衛もつきますし、お金もあちらが払ってくださるのでは?なによりアンネは久しぶりにお嬢様のドレス姿を見たいです」

「そうですね」



 あくまで主に遊んでほしい様子のアンネにイルサは肩をすくませた。

 確かにこの数年、イルサはよほどの断れない事情がない限り、ドレスを着て出席するようなパーティや場には出ていない。

 その言葉で、アンネにお願いすることを思い出し、イルサは笑みを作った。



「実は、その。大使にオペラに誘われました。なので、久しぶりにドレスを着ようと思います」

「まぁ!腕が鳴りますわ!デートですわね!」と、喜ぶアンネ。

「これもデートと言えるかは……リチャードはついてこないにしても、護衛にグレンがつきますし」

「でも、デートですわお嬢様。無理に前を向いたり、新しい恋をしろとは言えませんわ。でも、楽しいことのひとつやふたつ、増やすことは罪じゃありません。アンネはお嬢様にしっかり着飾っていただき、オペラを見に来た方々にお嬢様は美しいのだと知らしめたいです」



 アンネの言葉にイルサは笑った。



「そんなことができるなら、そうね」



 レイモンドがいなくなってやっと、彼が自分にとってどれだけ大切な人間だったのかイルサは気づいた。

 いや、本当はもっと前から気づいていたのだ。でも、それを認めるわけにはいかなかった。

 恋も結婚もイルサには良い思いがない。

 母の裏切りと父の悲しみと祖父母の憔悴、そして、公爵の沈黙。

 大切なものを作ることに恐怖を感じていたのだ。



 ――あんなにレイモンドと再会できてうれしかったのに。認められなかった。



 今彼が生きていたらイルサのそばにいただろう。ただ、その関係が友人のままなのか、それとも違う形のものになのかはわからない。

 いなくなって初めて気づいたのだ。彼が生きていたらどうだっただろう

 イルサは気づかないままだったかもしれない。



「お嬢様そろそろお休みになられますか?」

「そうね」



 アンネの言葉にイルサはうなずいた。

 紅茶のカップをお盆に置き、立ち上がる。

 居間からいつのまにかレイが消えていた。



(彼は戦争の時、どこにいたのかしら)



 彼の過去をイルサは聞いたことがない。

 彼も、イルサのように何かを失ったりしたのだろうか?



 失っても、イルサの人生は続く。

 出来ることがある以上、イルサは動き続けるしかないのだ。



  ◇◇◇



 イルサが生まれてからすぐ、実の母は亡くなった。実家はイルサをもてあました。

 血縁上の父と思われるものは口をつぐみ、立場上の父はイルサの存在をできるだけ遠ざけた。

 母方の祖父母は経済的に家を立て直した入り婿に対して遠慮したため、結局イルサは田舎の領地で一人で育つことになった。

 子守に見守られ、田舎の屋敷で馬や牛、鶏を追いかけながら過ごし、たまに訪れる祖父母と会い、イルサは自由に育った。

 そこでレイモンドに出会った。

 レイモンドは領地の子どもで、幼少期から賢い子どもと有名だったがいじめられっこだった。

 ある日イルサはお気に入りの鶏を探して屋敷の牧場を歩いているとき、彼が泣いているのをみつけた。

 何があったのか聞き出してから、イルサは「私と一緒に遊べばいいよ」とレイモンドに言った。

 イルサ自身、子守や使用人といった大人しか周りにいない環境にいたため、年のころが同じレイモンドと話をするのが楽しかったのだ。

 レイモンドはイルサのいうとおり遊びにきて、イルサが寂しがっていることを知っていた子守はそれを黙認した。

 祖父母がきたときはすこしもめたが、レイモンドが頭がいいことをしった祖父母がそれなら、と一緒に学ぶことまでゆるした。

 しかし、10の頃、イルサは王都にいくことになった。



「レイ、私、王都にいくことになったの」

「いつ帰ってくるの?」



 当たり前のようにレイモンドはイルサに聞いた。



「わからないけど、そんなに長くならないと思うわ」



 イルサは曖昧に言った。何故いくのか、よくわかっていなかったのだ。

 だから別れの挨拶も軽いものだった。お土産に王都の本を買ってくるよ、と言って、馬車からレイモンドに手を振っていた。

 イルサは久しぶりに対面した父に今すぐ結婚するか学校に行き卒業後は働くか決めるよう迫られた。

 イルサの母が死んでから、父は更に仕事にのめりこんだ。

 あまたの事業を立ち上げ、成功させた。既に祖父母の養子になって爵位も継ぐことになっている。

 遠縁の伯爵家の令嬢に恋焦がれ、才を示してめとった彼は、妻の遺した裏切りの証であるイルサに愛情はない。

 ただ、選べと迫った。

 イルサは働くことを選んだ。そしてすぐに、学校に入れられ、田舎にかえることができなくなった。

 レイモンドには手紙を書いた。帰れないこと、学校に行くこと。そうしないと知らない誰かと結婚しなくてはならないこと。

 彼から手紙の返事は帰ってこなかった。



 その数年後、王立学校の高等部にあがった際、レイモンドと再会する。

 レイモンドは王立学校の騎士見習いになっていた。

 街の学校へ行き優秀な成績をとり、イルサの祖父母の伝手も頼りながら、剣を学び、王立学校の数少ない平民枠を受験し合格したのだという。



「大変だったでしょう……」



 再会した学校の庭でイルサはレイモンドと向き合いながら呟くように言った。

 正直、また会えるなんて思っていなかったのだ。最後に送った手紙にも「もう二度と会えないと思う。今までありがとう」と書いたくらいだ。

 だから、レイモンドから返事が返ってこなかったとき、少しほっとした。

 自分で別れを告げておきながら、彼から同じように別れを告げられたらきっととてもつらいと思ったから。

 レイモンドはイルサににこりと笑った。



「そうだね。少し。でも、――イルサはすぐにさみしがるから」



 一人遊びばかりしていた幼いイルサはレイモンドと出会って寂しさを忘れ、レイモンドと別れて寂しさを思い出した。

 レイモンドはまたイルサのところに来てくれた。

 うれしかった。心がすこしきゅっとした。

 でも、イルサはその気持ちが何なのか、名前をつけないまま、レイモンドに「ありがとう」と告げた。
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