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2、彼女は思い出す

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 ティニエという人間は神が与えた奇跡のような存在だと人はいうし、ティニエもさほど否定はしない。艶やかでまっすぐな白銀の髪に水面のような水色の瞳、造作は柔らかだが、鋭さすらある迷いのない美しさ。頭の良さも、最初についた家庭教師とその後何人もであい、知識を授けた学士の折り紙つきだ。

 生まれは辺境とはいえ、公爵家だし、嫁ぎ先は王家のしかも長男。ようは皇太子。



「――私は完璧です」



 故にやっかみやら何やらも存在するが、それでも自分を貫く強さをもっている。それが自分だと自負しつつ。

 弱みがないわけではないけれど。



「そう思います!」ティニエの思考をさくようにネランジアがいった。



「黙りなさいネランジア。貴方はまだ裏切り者よ」



「うう……」



 今、ティニエはネランジアと王太子妃の部屋、つまりはティニエの部屋でお茶を飲んでいた。 

 ティニエは目の前の信用と信頼を寄せる少女をみた。

 結婚前、道で倒れていたところをみつけ、介抱してからの付き合いである。

 真っ正直で歪みない、そして、分かりやすく好意をあらわにする少女は貴重な友人だ。

 オルカには「犬と飼い主」と認識されているらしいが、ティニエからすると純粋に友情関係である。ネランジア自身も自身を犬と捉えているところがあるのが少々傷だが。



「そもそもね、貴女自身はどうなのよ、あの朴念仁クソ騎士との関係も進められないくせに夫婦の間に割り込もうっての?おとといきやがりなさい、おばか」



「おおおおるかさんとは?!そういうかんけいじゃありませんよ!?」



「言ってなさい、おばか」



「ううう……」



 素直でわかりやすく嘘のない反応にうっかりほだされそうな自分に舌打ちをする。



「で、でも、ですね?公爵様の言い分にも分がないわけじゃないですよ?このままではティニエさまはいやな風評に悩まされることになります。石女、というか。でもですね、そもそも妊娠は女の要因だけでなく男の要因でもあることか妊娠しないことを女だけが責められるのは間違っているというのがお師匠様のお言葉でしてええとすみませんなんでもないです」ネランジアは長くなりそうな話を切り上げ、視線をそらした。



「風評などしりません。どうでもいいです。私にとって大事なのは現状維持、婚姻の継続です。自分の意志です、他人の意志はどうでもいいです。というか、娘のそういう話をどっから仕入れてくるのかしらあの糞親父」



「……」



 断固とした言い方およびその口の悪さに向かいのネランジアは頭を抱えている。

 ネランジア自身もあまり自分が説得できるとは思っていないのだろう。

 ティニエはネランジアが次は何をいいだすのかと眺めながらお茶を飲み続けていると、



「……一つ伺いたいんですけども、ティニエ様」とネランジアは切り出した。



「なにかしら」



「ティニエ様は、どうして王太子様にそこまで執着するのです?」



 真っ直ぐな質問にティニエは少し黙った。



「その質問をしたのが貴女でなければ答える前に部屋から叩きだすところだけども、いいわ、貴女だもの。教えてあげましょう――あの方が好きだからですわ」



「……」



「その目をやめなさい。ネランジア。うそではないです」



 彼女を知る者たちの間で不思議がられる話だった。

 ティニエは優秀だが、敵が多いタイプだ。そもそも敵をつくることに関しては天賦の才である。頭の良さ、外見の美しさだけならともかくそれを隠せない性格、男尊女卑とまではいかないが、それでも男性をたてる女がいい女とされる社会で我が強く隙あらば身分性別関係なしに相手を言葉で叩きのめす姿勢。そして、愛嬌を捨て去った態度。味方がいないわけではないが、敵のほうが多いたちである。

 しかし、それ以上に、気が回り、四の五のいえない立場の人間だと周囲に認めさせることができるほど優秀なのである。

 その優秀さが認められ、それをめとった皇太子はその地位を揺るぎないものにしたと言われている。それは事実だ。結婚以来、彼が関わった事業は全て成功している。裏でティニエが手を貸しているのがすぐ分かるほどに、完璧に。しかし、ティニエはバレバレとはいえ、それを彼の成果と立てているのである。

 優秀なティニエはそれでいいのだろうか?というのが謎なのである。

 人を扱き下ろす天才のティニエが凡人の凡人、というには少し頼りない皇太子をたて、その嫁という立ち位置にいるのはなぜなのか。そうなのだ。立てているのである。王太子を!

それを知った時の実父、公爵は「嘘だ!!」と叫んだと言われている。隙あらば実父だけでなく、現王すら手ひどく扱き下ろすこと容赦ないティニエが、何故王太子の顔は立てるのか。

 結婚経緯すらしっているネランジアすらたまにこういうことを言い出すのだ。

 信用されていないにもほどがある。



「……そもそも、ティニエ様」



「なにかしらネランジア」



「私、とてもいいにくいことをもうしますが」



「だからなによ、さっさといいなさい」



「じゃあ、なんで貴女、まだ殿下と初夜をすまされていないのですか?」



 ネランジアの言葉にティニエは微笑んだ。あらやだ、だからこの子好きなのよ、とでもいいたいが、それには触れず、問いを返した。



「なぜ、私が、まだ初夜を済ませていないと、そう思うの」



 ネランジアがここまでくるに至った理由は王と公爵が皇太子と皇太子妃のことを女官やおつきから仕入れた情報からだろうが、それだけではないようなはっきりとした聞き方だった。

 故にティニエは問いかけた。そして、ネランジアはそれに答える



「私は薬師として植物だけでなく人間の体にも通じております。ゆえに、諸々の観察よりそれを感じました。だからこそ、問いたいのです。貴方は、――何故王太子様と結婚したのですか?」



 職務に準じる際のネランジアは揺るぎない。まっすぐにティニエに視線を向け問う。

 ネランジアはティニエのことが好きだという。ティニエは他人に容赦ないが、しかし、それを悪用することは無く、自分に自信を持ち、必要だと思ったことを躊躇わず行う。それが清々しい。美しい姿かたちだけではない、そのあり方も美しいと思う。それが出来る存在に、憧れている。そうネランジアはいう。変な遠慮ばかりの自分とは違うのだ。と、そう続ける。(ティニエはそんなことよりあなたにもいいところはたくさんあるわと続けたがそれは今はどうでもいい)

 そんなあなたが何故ままごとのような結婚を続けているのか。

 結婚することを了承し、婚姻を行ったのはティニエの意思に他ならない。何しろ、容赦ないことに限っては折り紙つきである。

 そんな彼女が婚姻に文句の一つも言わず嫁いだのだ。しかし、そんな彼女は未だに結婚の大切な目的を成し遂げずにいる。

 だからきっと想いすら疑われるのだ。



 ――何故なのか。



 ネランジアは彼女の回答を待っている



  ◇◇◇



 フィルガットと初めて出会ったのは10の時だった。今より8年前、そして結婚する6年前である。

 12の彼はぱっとしない少年だった。なんだ、こんなのと結婚するのか、少しショックだったことは否めない。

 もともとは長く続いた戦乱の半ばに祖父たちがした約束からだった。

 辺境の公爵家は公爵にもかかわらず、あまり王都には顔を出さず、王家とのつながりが薄く、名ばかりと言われていた。そんな公爵家は戦乱の時代が始まると辺境の守りを鉄壁と呼ばれるまでに固め、改めてその価値を知らしめた。そこで当時の王はそれをねぎらうために、公爵家の娘を王太子と結婚させることとした。

 しかし、彼らの子は共に息子しかおらず、その約束は孫の代に送られた。

 その約束に繋がれたのが、王太子フィルデット・ガイ・オルステンドとティニエ・フランティーア・ディールであった。

 反骨精神に富んだティニエは「なんでおじい様の約束を私が守らねばらないのだ」、と思う気持ちはあったが、まだ幼くロマンチズムが欠片くらいは残っていた少し嬉しくもあったのである。

 何しろ、王太子である。王子様なのだ。

 おとぎ話は好きだ。乳母は強請られ続けたせいでノイローゼになり、とうとう領内からおとぎ話募集とかける程だったし、お願いに根負けした父は書斎を見せてくれるようになった。二人いる兄は両方とも話しかける前に逃げた。既に家に在る本は制覇し、最近では行商人の持ち寄る本を買いあさる日々だ。

 ――ともかく、目の前にいるのはパッとすることは無いが、本物の、王子なのだ!



「はじめまして殿下。私の名前はティニエ・フランティーア・ディールと申します。ご機嫌よろしゅう」



 勇んで名乗ると父が「ティニエ、早すぎる」と小さく囁いた。

 そうだ、こういうときは、先に男が言わないといけないんだった。公式の場ではないとはいえ。

 面倒くさい。ティニエは顔に出さずそう思った。

 父の反対側に並んだ兄二人がにやにやしているのも気にくわない。後で行う復讐を10通りほど考えてティニエは前を向き直る。

 先に挨拶をされてしまった王太子は「ええと」とでも言いそうな顔で脇に立つ騎士をみた。背が高く、真面目な顔をしている。



「――殿下」騎士が促すと、気を取り直すように少年はティニエを見、朗らかに口を開いた。



「こちらこそよろしくお願いしますティニエ嬢、ええと、本日は晴天の日取りで風が心地よく非常に良い運動日和となりました。お互いによい結果を出せると思います。ぜひとも今日はお互いの力を出し合い――」続く言葉にだんだんと周囲のモノの顔が怪訝なものになっていく。

 騎士が咳払いをし、会話を止めようとした、その瞬間だった。



「――恐れ多くも殿下、何の挨拶ですかそれは。というか、お互いにが二回も出てくるのは駄目だと思います」



 王子を遮り、ティニエは言った。その場は凍りつく。

 貴族と王族の会話と言うのは基本的に型が決まっている。そもそも元々型を破ったのはティニエだが、王子のいうことも意味がわからない。

 止まれないと言う顔の騎士は言ったティニエと言われた王子を見比べ、父は額に手を置き、首を振っている。



「……間違えちゃった……これ、来週の御前試合のために考えた前口上なんですよ。そかぁ、もう一回考え直しますね」えへ、とでも言いそうな顔で王子は笑った。



「………」



 その場に再び沈黙が落ちた。



 王太子。フィルデット・ガイ・オルステンドはいい人間だと近しいものも遠いものも口をそろえて言う。

 そして、いい人間だ、しかし、王には向かないのでは。と続く。

 友人として付き合うなら考えるが、王として崇めるのは不安が残る、とまで言った人間すらいる。

 それがフィルデット・ガイ・オルステンドである。



 決められた結婚には反感を持っていたけれど、相手である彼を知ることで結婚に対する気持ちが前向きになったのが、その出会いだった。









「――拝啓、ティニエ・フランティーア・ディール様。秋も深まるころと思います。――誤字脱字が少ない、これは誰か間に挟まれたわね」



 つぶやきながら手紙をめくったのは結婚前の話。10歳で顔あわせをしてから毎年年に一度彼と会うことになっていた。11歳の時に彼に是非手紙を書いて欲しいとお願いした。人のいい彼は二つ返事で快く頷き、それ以来月に一度ほど手紙を送りあっている。――誤字脱字は当たり前、ときに主語が行方不明になる手紙は読みやすいとはいえない。でも、届くとすぐに机に向かい、慎重に封を破り、手紙に目を落とす。

 内容は他愛のない――とはたまに言い難いものだ。今日はいい花の香がしたのでその元を探したら、他国からの賓客の妻の香水で思わず部屋に居座りその話で盛り上がっていたら夫に切り殺されかけましただの。可愛い猫がいたので追いかけていたら気付けば二日間森の中で遭難しましただの。城の厩にはえているキノコが美味しそうだったので煮て食べてみたら死にかけましただの。散歩にいっただけなのに気づいたら国境を越えていたという嘘としか思えないモノもある。



「……大丈夫かしらこの人」



 不安はある。でも、思わず笑みがこぼれるのも事実だ。そして、傍に行きたいという気持ちも。――そう思った気持ちは、今も変わっていない。



 そして、その気持ちが決定的なものになったのは15の時だ。



 頭がよくて、自分のことがとても好きで、自分を信じていても、いやになる瞬間はある。

 たとえば、社交界デビューをした王宮で涼しい夜風に当たるために庭に出たとき、誰かの声に足を止め、自分についての話を聞いてしまったときとか。

 それが、自分の父や、兄の言葉だったときとか。



「あの娘を嫁がせるべきではないと、思うのだ。結婚して、何をしでかすつもりか。我が家のことならばともかく、王家にまでその手の被害を与えてしまうようであれば破談にするのが一番なのではないかと思う」



 重々しく渋るような父の声に体が固まる。耳だけがさえる。



「あいつの顔はいいけどなぁ、話すとすべてだめだ。俺の見る限りでは陛下と殿下にはまぁ少しは押さえられていたけど、他の奴らにはいつもの傍若無人な態度で……プライドの高い王都住みの連中はだいたいすごい顔していたぞ」長兄がため息をつけば、

「フィルガット殿下はまだしも、ナサニエル殿下は顔をしかめていたしなぁ」次兄はあきれたようにいう。



 ――もとより、そんな評価をしていたことはわかっていた。しかし、それよりも愛されていると思っていたのだ。そして、信じてもらえていると。



「陛下にはそれとなく伝えておくか。しかし、殿下との婚姻がなくなったとなれば、国に嫁ぎ先はなくなるかもしれんな。まぁ、あいつであれば、どこでも生きていけるだろうが」



 ――そんなわけ、ないじゃない。



 何も言えず、逃げるようにその場を去った。

 目的もなく、しかし、揺るぎない足取りで庭を歩き回っていると、自分と同じく夜風に当たりにきたらしい数人の連れ合う少女たちと少年と行き会った。

その中の一人だけ混じった少年とは会場で少し話した。少女のような顔立ちで攻撃的な瞳の年下らしい少年。

 ――君が公爵家のティニエかふぅん、なかなかきれいな髪の色だね。殿下は金髪が好きなのかな、染めたのかい?と、いやみったらしく言ってきた相手に、

 ――髪の毛一つで婚姻がきまっただなんて馬鹿なことあるわけないでしょう。もう少しましなことを言ったらどうなのかしら。その顔立ち、南の血が入っていると思われますけれど、南に金髪が少ないからといってそのような嫉妬はみっともないわ。と返したのだ。彼は言いにくそうに視線をそらして、さりげなく去って行った。

 何かがお気に召さなかったようだ。服飾から王家の末端かそれに次ぐ地位の生まれだろうに、南の血が入っている貴族なんてどの家系かしらと思っただけだが、相手にとっては痛いことだったらしい。思った以上に傷ついたような顔に不審な思いをした覚えがある。



「――どうも」



「……ああ」



 こっちをみて視線を合わせる彼たちから、ついっと視線を外し、ティニエは簡単に挨拶をし、足早に立ち去る。

 そのとき、聞こえた言葉に足が止まりそうになった。



「……殿下…あれが……」



 この国に”殿下”と呼ばれてあの年頃なのは二人しかいない。

 一人は婚約者の第一王子フィルガット。

 もう一人は王妹が産み、彼女の死んだ後現王の引き取った第二王子、ナサニエル。

 婚姻前の王妹が手をつけられ生まれたという、”あの”殿下だ。

 では、南の血が入っているだなんて、簡単には言ってしまってはいけなかった。その事実は事実でありながら、数年前の王妹の自死によりなかったことになっている。

 先に仕掛けたのがあちらなのだから、こちらが攻撃したところでこちらばかりが攻められるいわれはない。しかし――、

 ずっと、こうじゃいけないのだ。自分だけが傷つくなら良い。自分だけが不評を買うならいい。でも、彼のそばで、彼に迷惑がかかるようなことは避けなければいけないのだ。

 自分がしたいようにすると、何でもうまくいかない。

 どう折り合いをつけるべきなのか、わからない。

 がさりと、足首に痛みが走った。木の枝だ。

 驚く。いつのまにか、庭の手入れが甘い区域にまで入り込んでいたなんて。

 ここはどこだろう。振り返るも暗くなった庭に戸惑う。

 どうしよう。そう思ったとき、声がした。



「あれ、そこにいるのはティニエかい?」柔らかく、安心する声。



「フィルガット様」



「君まで迷ったのかい?僕もすこし歩いていただけなのに、こんなところに来ていて―――ってどうしたの!?おなかすいたのかい?!」かすかな月明かりに、彼の顔が見えて、ほうと息をつく。しかし、彼の慌てた様子に思わず身を引いてしまう。



「す、すいてなどいませんが」



「でも、君、泣いてるじゃないか」



「嘘」



 思わず自分の頬を触る。

 濡れた感触――彼の言葉は本当だった。



「わ、わたくしは」



 涙を自覚した瞬間、決壊したように声が震え始まる。それでも何か言おうと、――何を言いたいのだろう。私は、いったい、どうしたいのかもわからない。簡単だったはずの世界が瞬時に牢獄のような迷路に変わったようだった。

 涙にかすむ先の彼がふわりと動いた。



「何も言わなくて良いよ、泣いてるときってなんだかうまく声が出ないよね。だから、いいよ、何にも言わなくて。ここに座って良いよ」



 と自分の上着を地面に敷いて、彼はティニエの手を取った。

 言われるままに座って、涙を流れるままにした。

 彼は黙ったまま、ティニエの手を握っていてくれた。

 暖かくて、でも、しっかりと握っていた。



「――俺は君のこと好きだよ」



 不意のフィルガットの言葉にティニエは目を丸くした。

 息をのんだティニエの様子に気づくことなく、彼は続ける



「だって、かっこいいよね。じぶんで自分のこと、信じられるの。信じられて、それが本当に大丈夫って、すごいよ。俺は君が好きだよ。――それだけしかいえないけど、俺は君が好き。だから、大丈夫だよ」



 ティニエに笑いかけたフィルガットは論理なんて無視した言葉をいった。



 ――私は強い。でも、彼の方が強い。



 このひとの隣でなら、きっと、自分は幸せになれる。

 違う、このひとのそばなら、幸せでいることが出来る。

 ティニエはそのとき、確信したのだ。









 ティニエと結婚するまでの彼は数多くの伝説を残した。主に笑いのネタとしての。よく生き延びたと言われるようなものから、普段は表に感情を出さない堅物宰相すらぽかんとするような突拍子のないことまで。そしてすべては彼の性格と悪運とある種の幸運によって成し遂げられている。そして、それらを引き起こしつつも持ち前の愛嬌でどうにか渡り抜いてきたのだ。

 成人すら危ういのではといわれた彼が無事に成人し、結婚までした。結婚した上に、今度は新妻の助けにより今まで地に落ちていた王位に向けての信頼を順調に取り戻しつつあった。



「ティニエ!原稿出来た!?」



「ここに」



「ありがとう!じゃあ行ってくる!!」



「お待ちになって、髪に寝癖が」



「そうなの?」



「はい」



 ところ構わない毒舌、無駄に頭が回る代わりに、世渡りに対する才能を根こそぎ失って生まれたティニエと愛嬌と相当な頑丈さだけが取り柄のフィルガットの結婚生活はお互いにお互いを高め合うことが出来ていた。性生活以外は。





 自分の感情には素直な方だ。嘘はつかないように、つけば面倒なことになる。そんなのは望むところではないのだ。

 つく必要など、ないのだし。

 自分の中で彼への好意が育ち、それなりに発言に対する自制心を育て、それ以外にも相手を黙らせる方法をいくつか学び、どうにか父の婚姻に対する妨害を妨害し返すことに成功し、結婚は問題なく済まされた。父はティニエとフィルガットの仲が一応にも平穏なものであることに胸をなでおろしているらしい。

 しかし、子作りをしている気配がないことでこの結婚をティニエの策略だとでも考えているのだろう。フィルガットはティニエに何らかのお願いか脅迫をされて、手を出さないのだと。

 そんなことない。彼の触れる手を拒否したことなどない。彼が触れてこないのだ。





 ――初夜。



「――ええと、久しぶりって言えばいいのかな。あらためて、よろしくお願いします。ティニエ嬢」



「ティニエでいいです、フィルガット様」



「じゃあ、僕もフィルでいいよ」



「いえ、そういうわけにはいきません、フィルガット様」



 結婚するまで、思った以上に顔を合わせることが出来なかった。何しろ、色々忙しくて。

 彼の傍に来て、沢山聞きたいことがあった。でも、顔すらなかなか見れずにとうとう床の上にまで来てしまった。城に来てから話したのは両手で数えるほどもない。

 花嫁修業は大まかに自領で行ってしまったから王都にくるのは遅かったし、オルカとか言う王太子付きの騎士の婚約者が寝とられただの、そのそもそもの発端は王太子暗殺計画だった――だの色々あったのだ。件の騎士は王太子を庇って死にかけるしで、何となく、そちら関係の話しかせずにここまで来てしまった感もある。

 いや、一度だけ、結婚について正面から問われた。そのとき、どんな会話をしただろうか――。まぁいい。そんなことより、今は目の前にいる生身の彼だ。

 改めて彼をみる。

 ともされた蝋燭の光で彼の影が揺れる。

年に一度は顔を合わせていたため、そこまで変わりがあると言うわけではない。しかし、改めて見るととても――



(どきどきする)



 当たり前だが、初夜なのでお互いに夜着だ。透けている、というわけではないが、心もとない。自身もそうだし、向かいにいる彼もだ。頑健というよりしんなりした体つきというか。やせ過ぎでもなく、筋肉質と言うわけでもない。平凡な顔も、風呂上がりで上気しているのがやけにドキドキする。短めの髪の毛も風呂上がりで少ししっとりしているし。……少し右に跳ねているのは彼のくせ毛なのだろうか。

ふれたい。

 じっと見ていると、彼は視線を外した。



「――寝ましょう」声が震えている。



「はい」



 自分の声も震えている気がした。

 彼は蝋燭を消し、無言のままシーツを持ち上げる。ティニエもそれに倣い、二人で布団にもぐりこんだ。

 大きなベッドで、少し触れるには遠い距離。



「……」



 さて。これからどうなるのか。

 目をあけて上をみる。

 心臓の音が大きい。一つ。二つ、三つ。気持ちを落ち着かせるために数を数え始める。

 五十まで数えて、少し深呼吸をする。何も起きないけれど、いいのだろうか。いや、よくわからないけど。

 そのまま百まで数える。隣からは静かな寝息が聞こえる。

 ――寝息?



「……?」



 無言で横をみる。闇に慣れてきた目にはフィルガットが目をつぶり、規則的な呼吸をしているのが見える。



 ――寝てる。



 ええと。



 とりあえずティニエも目をつぶっておくことにした。そして、寝た。



 ティニエが起きた時、彼はまだ寝ていた。距離が変わっていなかったことで、彼の寝相は悪くないんだろうなぁと小さなことを知った。

 拍子抜けといえば拍子抜けだが、まぁ、彼がそういう人間だと言うことはとうの昔から知っている。

 ティニエはそっと身を起こし、彼に顔を寄せた。

 フィルガットはうつぶせで、ティニエの方に顔を向けている。手は顔の前で軽く握られ、枕にしわを作っている。



(意外とまつ毛長い)



 これから死ぬまでほぼ毎朝この顔を見て過ごすことになると思うと、不思議な気持ちがした。



「ん……」



 ティニエが動き、ベッドが揺れたことで、彼は眠りからさめたようだ。

 もったいない気持ちを感じつつ、ティニエはそのままの姿勢で彼を待った。



 ――いや、少し、右手をのばして彼の髪の毛は整えようとしたか。



 そんなティニエの手から逃れるように彼はぐりぐりと枕に頭を押し付け、「眠い」とつぶやいた。



「おはようございます、フィルガット様」



 思ったより甘い声だった。自分はこんな声が出せるのか、と思うほど。



「おはよう……」フィルガットはぼんやりと言った。



 返事をしてから、彼はティニエの方をみた。そして、硬直した。



「あああああああああ」



 じっと見ていると、ふいに彼は叫んで、ガバッと身体を起こした。そして、左右を見、ティニエにもう一度視線を止め、目を見開き、



「ああああああ!!!俺、あ、えっ、アガっ」



 ベッドから落ちた。

 ティニエはそれを呆然と眺めているだけだった。

 二人の初夜はそんなこんなで幕を閉めた。



◇◇◇





「――初夜が失敗だったからなんじゃないですかねぇ」



「……あら奇遇ね、私もそう思うわ」



 ネランジアの言葉にティニエは視線をそらした。



「でも、その後も同衾されているんでしょう?でしたら、機会はあるのでは?」



「……そうね」



「じゃあなんで――」



 ネランジアがさらに踏み込んだ発言をする瞬間、扉の向こうで三度、ノックが聞こえた。



「――ティニエ様、そろそろ会食の準備をしていただくお時間でございます」



 時間を空けてドアが開き、侍女の声が聞こえた。



「わかったわ。――ネランジア、話せてよかったわ。でも、今日はここまでのようね。申し訳ないけれど、私は公務に赴きます」



「は、はいっ、ええとお話しできてよかったです……、まだ少しいる予定なんですけど……」



 再び挙動不審になった薬師の少女にティニエはほほえんだ。



「また時間をつくるわ、貴方ともっとゆっくり話せるように」

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