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見えないところに落ちてゆく

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 ルイン様がわたしに魔法を教えて下さる。その身の程に余るお話をわたしは受けることは許されない。
 
 当然だ、わたしはただの城仕えの小間使いで、本来ならルイン様にお会いすることすらできない立場なのだ。

 それなのに、お声をかけて下さるどころか、わたしが魔法に興味があると分かるや否や部屋を訪ねるようにとおっしゃった。
 
 ルイン様、それはできません。

 まずひとつめの理由。わたしがルイン様のお部屋を訪ねたことが分かったら、城の者はさぞ怒るだろう。なんて身の程知らずなのだと。
 
 そしてメイド長のお叱りを受け、わたしはきっと今までどおりルイン様のお話をお聞きすることすら難しくなってしまう。
 
 そしてふたつ目の理由。わたしはルイン様にお返しができないからだ。
 
 魔法使いを志す者は、その勉強のために多額の授業料を払って学校に通うか専任教師を雇うのだそうだ。

 しかも魔法を教えられるのは魔法使いの中でも優秀であるとされる方々が免許を取得する必要がある。

 ルイン様の口ぶりから恐らくその免許をお持ちなのであろうが、問題はわたしだった。
 
 魔法騎士であるルイン様には、一体どれほどの授業料が見合うのだろう。
 
 わたしには想像もつかなかった。少なくともいまわたしが仕送りの他に密かに貯めているお金ではなんの足しにもならないことだけは分かる。
 
 ルイン様の元で魔法の勉強をする。なんて素敵な夢の話かしら。
 
 わたしは今回のお話を夢のような話だった、と心の中に落とし込み、普段の仕事に戻った。


  
 とどのつまり、わたしは身分不相応な夢を見たくないのだ。
 
 現実に戻った時に、耐えられない胸の痛みと無力感が襲うから。

 特に、弟への手紙を書いている時は、わたしは常に現実と向き合っていて、夢を見ている場合ではないことに気づかされるのだ。

 
『ヴィンセントへ

 元気ですか。先月の風邪は治りましたか。
 
 辛い時に帰れなくてごめんなさい。
 
 わたしは変わりなく仕事をづづけられています』


 仕事のことを書こうとすると、ルイン様のお姿が脳裏にちらついて筆を止める。わたしは短いため息をつき、話題を変えた。


『神父様のお手伝いはしっかりとしていますか。
 
 今年は雨が多いので町の畑が心配です。

 町の人たちの力になってあげてくださいね。

 そろそろ収穫祭の時期でしょうか。

 あなたと二人で走りまわっていたことがとても懐かしく、恋しいと思います』


 文字には不思議な力がある。恋しい、と書くと本当に幼い弟と過ごした町に帰りたくなるのだから。

 書き直そうにも便箋のたった一枚が惜しく、わたしはペンを続けた。

 本当は両親と一緒に暮らした家に帰りたい。

 きっと魔法薬師だった父は、わたしが魔法を学びたいと言ったら喜んでくれたに違いない。

 焼けた家に唯一残った父のノートは、ローズ様の薬を作るために城へと献上し、わたしの手元には戻ってこなかった。


『今月分のお金を送ります。

 無駄遣いをしないよう、使い道は神父様と相談してください。

 寒くなるので新しい外套コートでも買ってください』


 じわりと視界が滲む。現実がわたしを侵食していく。夢を見ることさえゆるされない。

 城に入ってからわたしはわたしのものを買ったことがなかった。
 
 仕事に必要なものは城に用意があったし、生活に必要な最低限は就職祝いといって神父様が用意してくださった。
 
 流行りの洋服やアクセサリー。欲しくないわけではない、無理をすれば買えないわけではない。

 けれど少しずつ、大した額ではないが貯めているお金はわたしに残されたなけなしの誇りプライドなのだった。
 
 ヴィンセントに我慢をさせたくなかった。両親の記憶すらないだろう彼の、たった一人の姉として。わたしに与えられるものは彼に与えたかった。

 いつか彼にやりたいことができたときには、わたしが魔法を学ぶために貯めているお金も渡すつもりだ。

 わたしは今も父と母の思い出に縋ることができるが、弟は何もわからないうちに家と両親を失ったのだ。

 わたしはどこか心の片隅で、そんな弟を哀れんでいるのかもしれなかった。

 酷い姉だ。わたしは人間としてだめな部類で、姉としてはもっとだめらしかった。
 
 大切な弟のはずなのに、今にも会いに行きたいのに、ほの暗い思いになるはなぜだろう。

 彼を置いて城仕えになったことに対する罪悪感なのだろうか。

 どうやら『大切』に思うことと『幸せ』は必ずしも比例しないようだ。
 
 わたしにとってはルイン様も紛れもなくその例に当てはまる。

 想うほど苦しくなる。
 

 そしてそれは弟に対する後ろめたさよりも、日に日に激しくなるのだ。


 『いい子でいて下さい。
  
      愛を込めて シェリー』


 わたしは静かにペンを置いた。




 ふわりと清らかな風が吹くエスター城の門前に、わたしは城から集めてまわった郵便物を持っていく。
 
 毎日この時間になると郵便屋の若い男の子が手紙を届けに来るので、わたしは代わりに城から送る郵便物をその子に預けるのだった。

「こんにちは、シェリー。今日の分です!」

「ありがとうございます」

 わたしはその子に渡す荷物にそっと弟への荷物をのせた。

 郵便屋の男の子は元気で明るく弟に近い年齢で、わたしは少しだけ親近感を持っていた。

 以前名前を聞かれたときに、弟に呼ばれている愛称を教えたのもそのせいだ。

「今日は弟さんへの荷物があるんですね!」

「はい。月に一度だけですが、よろしくお願いします」

「シェリーのようなお姉さんがいて、弟さんがうらやましいなあ」

「ふふ、ではまた明日」

「はい! 失礼します!」

 わたしはくすぐったいような気持ちになりながら仕事に戻る。
 
 今日は城の廊下のあちこちにある蝋燭ろうそく台の点検の日。数えきれないほどあるそれをひとつひとつ確認し磨いていくのは気の遠くなる作業だった。

 しかしわたしはその仕事が嫌いではなかった。

 城に来たばかりのとき、わたしはその仕事に三日を費やしていたが、いまは一日で終えられるようになった。自分の成長を感じられるささやかな機会なのだ。

 それに、仕事が忙しいことは今のわたしにとっては有難いことだった。

 ルイン様のお部屋を訪ねられないもっともな理由になるからだ。 

 お部屋に誘われて以降、視界の端にルイン様のお姿が入ることは何度かあったが、わたしはその度に城を駆けまわった。

 ルイン様があのお話を忘れてしまうまで、接点を持たないでおこうと思ったのだ。

 しかしわたしのそんな努力も無駄に終わった。

「こんにちは、シェラさん」

「ル、ルイン様……」

 城門前から戻る途中、何でもない使用人だけが通る細い廊下に突如ルイン様が現れたのだった。
 
 普段ルイン様が使われている、石の敷き詰められた立派な通路の脇にひっそりとある小道。こんなところにルイン様の用があるわけがない。

 わたしは慌てて頭を下げる。

「何かご用でしょうか。何でもお申し付けください」

「いえ、上階から貴女の姿が見えたのでつい。あの郵便屋とは仲が良いのですか」

「え?」

 先ほどのやりとりを見られていたのだろうか。わたしは思わず顔を上げる。
 
 上階から、というのはどこのことだろう。ルイン様のお部屋からは城門は見えないはずだ。

「貴女が珍しく親しげだったもので……それに、私の見間違いでなければシェリーと呼ばれていませんでしたか」

 ルイン様が続けられたそのお言葉にわたしは今度こそ驚く。
 
 上階から見ていただけで会話の内容まで分かるのだろうか。ふとわたしの頭をある仮説がよぎる。

「魔法でそんなことまでわかるのですか?」

 それならばまだ納得のいく話だ。しかしルイン様は首を振られる。

「いえ、魔法で聞き耳を立てていたわけでは。ただ私も騎士としての生業もありまして、唇を読むことはそう難しいことではないのです。戦場では味方の声が届かないこともありますので……」

「そう、ですか……」

 魔法ではないというのが驚きを助長させたが、わたしは無理やり自分を納得させた。どことなくルイン様がはぐらかしているように見えたのだ。

 ならばわたしが追求する必要もないし、そもそもそれをできる立場にもなかった。

「シェリーというのは弟が私をそう呼ぶのです。あの郵便屋の子はどことなく面影が弟に似ていて……そう呼んでもらっています」

 弟、というとルイン様はその藍色の瞳を煌めかせた。わたしはその輝きに思わず目を伏せる。

「そうでしたか! ……あの、もし良ければ、私もそう呼んでも?」

「えっ!?」

 言葉のとおりに捉えるのならば、ルイン様がわたしのことを『シェリー』と呼ぶということだろうか。

 わたしは自分の顔が青ざめるのがわかった。

 城の者が誰も知らない、子供の頃の愛称で呼ばれなどしたら、今度こそわたしは自らの立場をかんがみずルイン様に馴れ馴れしくしていると思われてしまう。

「嫌ですか?」

「い、嫌ではないのですが……えっ……と、その、」

「……」

「こ、困ります」

「そう、ですか……」

 言葉というものはどうして慎重に選ぼうとするとすっぽりと抜け落ちて行ってしまうのだろう。

 わたしは両手でスカートをぎゅうっと握りしめる。わたしはルイン様に失礼なことで競ったら間違いなく城一番だろう。

 しかし一体どうしろというのだ。

 ルイン様は見るからに消沈した様子でわたしを見つめていた。

「魔法の話をしてから、貴女は私のことを避けておられる」

「……いいえ、」

「きっと私に対して怒っておられるのでしょう。女性をいきなり部屋へ呼ぶなど……私の考えが浅はかだったのです、どうか許していただけませんか」

 ルイン様はわたしに向かって頭を下げる。わたしはぎょっとして慌ててそれを制止する。

「お、おやめください! ルイン様に頭を下げさせたとなれば、私はこの城から追い出されてしまいます。魔法の件もそうです。私は、ルイン様のお部屋に伺う資格がないのです……ばれたら叱られてしまいます」

「そうなのですか。一体なぜ」

 ルイン様は城のそういった事をたった今知ったような表情をされる。

「なぜと言われましても……そういうものです。わたしはただの小間使いなので」

ルイン様はしばらく考え込み、ふと口を開く。

「では私が貴女に会いに行きます。確か貴女の部屋は東の離れでしたね」

 そのさらに突飛な提案に、わたしは泣きそうになりながら縋る。

「そ、それもお止め下さい。使用人の部屋に貴方様が現れたらそれこそ大混乱が起こってしまいます」

「では一体どうしろと言うのか……」

「私にも分かりません……なので大変心苦しいのですが、そのお話は……、無かったことにさせて頂けないでしょうか」

 わたしは持ち得る勇気を振り絞り、なるべく失礼の無いように断りの意思を伝える。今の流れで言えなかったらずっと言えないままだと思ったからだ。

 しかしルイン様はわたしの勇気をあっさりと振りほどく。

「それは嫌です」

「えっ」

 嫌とはどういうことだろうか。わたしが教えを乞う立場のはずだが、その言い方ではまるでルイン様の方がそれを強請っているようだった。

「では、こうしましょう。貴女の仕事時間に、誰にも見つからないところでお教えします」

「しかしそうしてしまうと私の仕事が、」

 仕事時間にということはわたしに仕事をするなということになってしまう。ルイン様のお付きでも何でもないわたしが仕事を放ってルイン様と共に居ることはできない。
 
 それに、ルイン様が仕事をさぼることを勧めるはずがない。わたしは首をひねった。 

「貴女の今日の仕事は?」

「蝋燭台の点検と清掃ですが」

「ではこうすれば良い」

 ルイン様が廊下の奥に向かって手を伸ばす。ぱちんと指を一回鳴らすと、廊下にある蝋燭台が一瞬ふわりと浮きあがり、きれいに整列していく。

 もう一度指が鳴るとまるで新品のようにそれらは輝きだした。
 
 わたしはその光景に言葉を失う。ルイン様は一瞬でわたしの仕事を終わらせてしまったのだ。
 
 
 わたしが三日かかっていた、一日で終えられるようになって喜んでいたこの仕事を。


「これで貴女に時間ができた。さあ何処に行きましょう。少し離れたところにあまり人のこない丘が――」



 わたしの目から一筋涙がこぼれた。

 それは一度溢れるとどんどん頬を流れ落ちていく。


 「シェラ……さん、」
 
 ルイン様の言葉は何も入ってこなかった。
 
 美しい魔法を目の前で見ることができたのに、わたしは目の前で起こったことを信じたくなかった。

 わたしの仕事は魔法で一瞬で片付いてしまうくだらないことなのだと、改めて見せつけられた気がしたのだ。
 
 そのことはわたしの心をじわりじわりと蝕んでいく。

「ルイン様は、わたしのことを城から追い出したいのですか」

「そんな訳、」

「なら、なら!……わたしの仕事を取らないでください!」



 ルイン様のお声を無視して廊下を走り抜ける。きっとルイン様に対して国中で一番失礼な人間はこのわたしだ。謝らなければならないことは分かっているのに、どうしても涙が止まらなかった。

 

 今のわたしは生きてきた中で一番惨めな思いをしていた。




 わたしをそんな風にしたのがルイン様だということも辛くて仕方がなかった。

 


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