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第二章 エクレシア動乱篇
27話『借主と大家』
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「ただいまー……」
ドアを開き、あまり声を立てずに帰宅を告げる。
一階に電気は点いていなかったので、一先ず明かりを点ける。鮮明になった家の中を見渡すと、特に荒らされているような様子も無かった。
(空き巣……の線は無いか)
テーブルや自宅の状況を確認しながら、極力足音を立てないように見て回る。
金目になりそうなものと言えば、せいぜいナルから預かった生活資金の入った袋だけだ。
「何か、前よりも綺麗になってる……?」
丸二日家を空けており、多少は埃っぽくなっているかと思いきや、そうでは無かった。
大きなゴミなどが散らかっておらず、木製のテーブルを指でなぞっても大した量の埃が取れる訳でもない。
明らかに、人の手が入っているように感じられた。
(普段から掃除はしてたけど、やっぱり妙だな……)
違和感を感じながらも、意を決して2階へ続く階段に足を掛ける。
一段、また一段と昇っていく度に、アウラの心臓の鼓動も早まっていく。その額には緊張からか、やや汗が滲んでいた。
階段を登り切り、明るく照らされた寝室に入る。そして、普段使っているベッドに目を向けると──、
「────えっ」
零して、アウラは目を見張った。
ベッドの上で、若い一人の女性がスヤスヤと寝息を立てていたのだ。
太陽を思わせる赤髪は腰の辺りまで伸び、素朴な印象を持たせるワンピースのような装いに身を覆っている。
「……んっ……」
仰向けから身体を横に向ける。さながら自分の家であるかのように、人の家で眠っていた。
本来であれば起こして色々と聞くべきなのだろうが、ここまで幸せそうに眠っているとなると、起こすのは少し憚られる。
服の下からでも主張する双丘に思わず目が行ってしまうが──
(……って、何寝てる人の胸ばっか見てんだ俺は! 確かに美人だけど!)
アウラは顔を振り、自分の中に巣食う邪な心を必死に振り払う。ここで欲情してはただの変態に成り果てしまう。
カレンやクロノ、ナルも十分に可愛らしい顔立ちをしている。だが、今自分のベッドで眠る女性は「美少女」というよりも「美女」というカテゴリーに含まれるように感じられた。
年齢自体はアウラとそう離れている訳では無さそうだが、やや大人びた雰囲気がその印象を助長させるのだろう。
(無理に起こすのも気が引けるし、どうしたもんかな……)
首をやや傾け、この状況の打開策を練る。
ベッドのすぐ近くにある丸椅子に腰を掛けようとした、その時だった。
「────うおっ!?」
アウラの身体が、バランスを崩したように前方に倒れ込んだのだ。
床にあった溝に足を取られ、美女の眠るベッドへと一直線に身体が傾いていく。彼にそれを止める術はなく、衝突という結末を防ぐ手段は一つしか残されていない。
ボスッ、という籠った音と同時に、クッションが深く凹む。
アウラはギリギリのところで両手を付き、眠れる美女との接触を免れた。顔と顔の距離は近く、少しでも動けば触れてしまいそうな程だった。
「……あっぶな……」
思わずそう零し、心の底から安堵するアウラ。
だが、傍から見れば、今の彼は美女に覆い被さっている状態だ。ある種、夜這いをかけているようにしか見えない。
溝から足を抜き、体勢を戻そうとするアウラ。だがその直前、彼は不運に見舞われる事になる。
「────え」
「あ────」
寝室に、二つの声が交差する。
手を付いてしまった時の衝撃で目を覚ましてしまったのだろう。つい数秒前まで深い眠りに落ちていた女性と目が合ってしまった。
日輪のような赤紙とは対照的に、その瞳は大海のような蒼色をしていた。
最初は呆然とした表情をしていたが、自分の身に起きた事を理解したのか、見る見るうちに頬が紅潮していく。
至極当然な反応だ。
「えっと────おはよう、ございます……?」
アウラがどうにか絞り出した言葉。彼も彼でこの場を穏便に済ませようと絞り出した言葉なのだろうが、完全に言葉選びを間違えている。
恥ずかしさから来るものか、震えている彼女はアウラに弁明する時間を与えず、
「……変態────っ!!」
赤面したまま、渾身の右ストレートを叩き込んだ。
防御する間もなく、アウラは後方へと殴り飛ばされる。事故とはいえ、アウラに加えられた制裁はビンタなどという生温いものではなく、グーだった。
危険を察知してから行動までのスピード、そして腕の捻りがアウラへのダメージを増加させる。文句ナシの右ストレートであった。
「誰なんですか? こんな夜に何しに来たんですか貴方!! 夜這いですか!? 夜這いなんですか!?」
軽くパニックに陥りながら、彼女は壁際に逃げる。
「違いますって! 別に夜這いとかじゃなくて────」
「だったらなんであんな近距離にいたの!? あの距離は確実に寝込みを襲う時の距離でしょう!?」
殴られた頬を手で押さえて必死に弁明を試みるアウラだが、生憎、彼女の耳には届いておらず、顔を真っ赤にしながら指さして糾弾する。
状況が状況だったので仕方ないのだが、完全に誤解し切ってしまっている。
何故あれほど至近距離にいたのかと聞かれ、アウラは「うっ」と一瞬口ごもるも、どうにか言葉を捻り出す。
「あれはただの事故ですよ! つーかアンタこそ人の家で勝手に寝るなんて、一体誰なんですか! 俺はただ帰って来ただけなんですけど!」
精一杯反論する。
アウラの言い分も一応は正しい。彼からすれば、彼女もまた家に上がり込んでいた不審者とも言える。
「帰って、来た? ……今、帰って来たって言った? ってことは、ここに住んでる人ってこと?」
「え? あぁ、そうですけど、それが?」
アウラの一言に反応して、赤髪の美女は少し落ち着いた声色になった。
「……ごめんなさい、私てっきり不法侵入した上に唇を奪おうとした変質者かと勘違いしてて……結構本気で殴っちゃったけど、大丈夫? 歯折れてない?」
(折った自信あったんだ……)
一転してアウラの怪我を心配し、手を差し伸べた。
この程度の痛みであれば、アウラは既に何度も経験している。カレンの容赦のない、且つ最もダメージの出る箇所を確実に狙い撃ちする蹴りに比べれば遥かにマシだろう。
「えぇ、まぁ、一応大丈夫ですけど……それより、なんで俺の家に?」
「私はレイズ。この家の大家さんをやっているの。久々に掃除しに来たんだけど、うっかり爆睡しちゃってて」
「大家さん、ですか」
「そう、大家さん。ずっと入居者が入らなかったから心配だったんだけど、良かった~!」
両手を胸の前で合わせ、満面の笑みで喜ぶ。
レイズと名乗る眼前の女性は、あろうことか、この家の家主であった。
「────先程は大変失礼致しました……!」
一切の無駄のない動きで両膝を付き、彼は頭を床に擦り付ける。
日本人の社会において、謝罪と誠意を見せる事に極限まで特化した体勢──土下座である。
「えぇ!? どうしたの急に!?」
「パシリでも舎弟でも本当になんでもしますんで、どうか追い出す事だけはご勘弁頂きたく……」
「頭上げなって! 別にさっきのは私も悪かったんだし、別に舎弟とかいらないから!」
焦った様子でアウラを諫める。
彼女も彼女で先程の事は反省しているらしく、とりたてて事を大きくするつもりは無いらしい。
「本当ですか……?」
「本当本当。何も言わずに上がり込んじゃった私にも非があるし、互いに無かったことにしましょう」
その一言を聞いて、アウラは心の底から安堵する。
「そういえばさっき、「久々に掃除しに来た」って言ってたけど、最初に来た時にやたら片付いてたのって、もしかしてレイズさんが?」
「うん、ここの家は元々私が住んでたんだけど、一身上の都合で家族と過ごす事にしてね。取り壊しちゃうのは勿体ないし、折角なら貸しに出そうと思ったの。使って貰うなら綺麗にしなきゃって事で、ちょくちょく掃除しに来てたんだ」
「なるほど……それで今日、また掃除しに来てた、と」
「ちょっと休もうとしたつもりが、いつの間にか爆睡しちゃってたんだけどね」
レイズは照れ臭そうに笑った。アウラからすれば年上ではあるが、その朗らかさは何処か親近感を抱かせる。
一先ず、大きなトラブルに発展することはなく、問題を起こして住む家を無くすという最悪の顛末だけはどうにか回避できた。
※※※※
少し時間が経ち、レイズはベッド、アウラは木の椅子にそれぞれ座り、二人はしばし談笑していた。
「へぇ、アウラ君、現役バリバリの魔術師なんだ」
「まぁ、一応……魔術といっても、簡単な魔力操作とか、「強化」ぐらいしか使えないですけどね」
自嘲気味にアウラが言う。
魔術師として生きていく上で、常に付き纏う欠陥だ。だが彼からしてみれば、それはただのマイナスという訳ではなく、乗り越えるべき壁でもある。
悲観的になり過ぎるよりも、このように話のネタに変えられる程の余裕があった方が、精神的にも良い。
「ということは、私の後輩ってことになるのかな?」
「後輩って、レイズさんも魔術師だったの!?」
「今は一時的に引退しているけどね。大体、今から一年ぐらい前まではエリュシオンに所属していたの。当時はそうだね……定例会の模擬戦に選抜して貰ったことがあったかな?」
「定例会……あっ────」
何処か思い当たる節があったのか、思わず声を漏らした。
命からがらナーガを討ち、ケシェル山から下山していた時、クロノが言っていたことを思い返す。
──『前回は確か、ラグナさんとカレンさん。それからもう一人、今は諸事情で休業中の魔術師の人が参加していました』
少し間を置いて、アウラが口を開く。
クロノとレイズが言っている事は、見事に合致している。アウラがレイズにとって「後輩」なのであれば、それは間違い無く──、
「……前回の模擬戦に出場してた魔術師。って事は、今抜けている主力の一人って」
「あ~……それ多分、私の事だね。定例会議が終わったタイミングから冒険者活動は殆どやってないし」
「なんで引退を?もしかして怪我とか……?」
「大した理由がある訳じゃないよ。引退する前、私はずっと家族に仕送りをしてたんたけど、冒険者の友人に「もっと家族と過ごす時間も大切にしろ」って忠告されてね」
拒むこと無く、懐かしそうにレイズは語り出した。
「確かに、現役の頃の私は休む事無く依頼に出てばかりだったし、結構必死になってたんだよね。その為に危険な依頼を受けることもあったの。だから、その友人の一言のお陰で少し冷静になれたかな」
「レイズさんの家って、そんなに貧しいんですか」
「いや、別にそうでもないと思う。でも、私は元々身寄りのいない孤児でね。今の家族と血の繋がりはないんだけど、わざわざ引き取って育ててくれた。……その恩に報いる為にエリュシオンに来て、魔術師になったの」
彼女は「大した理由はない」と言うが、十分に立派な理由だ。
特に、成り行きで魔術師になったアウラとは。
「それで、少しでも家計の足しになればと思ってこの家を貸しに出したんだけど──家賃ってどうする?」
その言葉を聞いた途端、アウラは「うっ」と、気まずそうに口ごもる。彼個人としては一番触れられたくない話題だったのか、少し目をそらした。
「どうしたの?」
「いえ、その……実は俺、冒険者になったばかりで金が無くてですね」
「あぁ、成る程。……だったら、無理はしないで良いよ、返せる時に少しづつでも構わないから。身体を壊しちゃったら元も子もないしね」
「そんなあっさり、良いんですか?」
「今は現役時代に稼いだ貯蓄があるし、それに、こんなに古い家に住んでもらってるのに、高い家賃ふんだくるなんて事はしないよ」
苦笑交じりにレイズは言う。
アトラスの冒険者の中の上澄み。主力として活躍していたのなら、彼女は最低でも熾天以上の位階を持っていても何ら不思議ではないのだ。
アウラは何処か心配そうな面持ちだったが、彼女に釣られて表情を緩ませる。
「──さて、今日はもう遅いし、久し振りに泊まっていこうかな」
立ち上がり、階段の方へと向かう。
「あぁ、だったら俺が下のソファで寝るので、レイズさんはベッドを」
「いいのいいの。今住んでいるのはキミなんだから、気にしないで」
椅子から立とうとするアウラの肩を押さえ、にっこりと微笑んでから寝室を後にする。
陽光のような、暖かい手の感覚だけが肩に残る。
(──正直不安だったけど、優しそうな人で良かった)
初対面の印象こそ互いに最悪極まりなかったが、それもすぐに解消できた。
最大の気がかりだった家賃についても、あちらの厚意で引き延ばしという事にして貰った。無論、アウラとしては貯まり次第支払う腹積もりだが。
一先ずの安堵を共にベッドに横たわり、寝室の灯りを消した。
ドアを開き、あまり声を立てずに帰宅を告げる。
一階に電気は点いていなかったので、一先ず明かりを点ける。鮮明になった家の中を見渡すと、特に荒らされているような様子も無かった。
(空き巣……の線は無いか)
テーブルや自宅の状況を確認しながら、極力足音を立てないように見て回る。
金目になりそうなものと言えば、せいぜいナルから預かった生活資金の入った袋だけだ。
「何か、前よりも綺麗になってる……?」
丸二日家を空けており、多少は埃っぽくなっているかと思いきや、そうでは無かった。
大きなゴミなどが散らかっておらず、木製のテーブルを指でなぞっても大した量の埃が取れる訳でもない。
明らかに、人の手が入っているように感じられた。
(普段から掃除はしてたけど、やっぱり妙だな……)
違和感を感じながらも、意を決して2階へ続く階段に足を掛ける。
一段、また一段と昇っていく度に、アウラの心臓の鼓動も早まっていく。その額には緊張からか、やや汗が滲んでいた。
階段を登り切り、明るく照らされた寝室に入る。そして、普段使っているベッドに目を向けると──、
「────えっ」
零して、アウラは目を見張った。
ベッドの上で、若い一人の女性がスヤスヤと寝息を立てていたのだ。
太陽を思わせる赤髪は腰の辺りまで伸び、素朴な印象を持たせるワンピースのような装いに身を覆っている。
「……んっ……」
仰向けから身体を横に向ける。さながら自分の家であるかのように、人の家で眠っていた。
本来であれば起こして色々と聞くべきなのだろうが、ここまで幸せそうに眠っているとなると、起こすのは少し憚られる。
服の下からでも主張する双丘に思わず目が行ってしまうが──
(……って、何寝てる人の胸ばっか見てんだ俺は! 確かに美人だけど!)
アウラは顔を振り、自分の中に巣食う邪な心を必死に振り払う。ここで欲情してはただの変態に成り果てしまう。
カレンやクロノ、ナルも十分に可愛らしい顔立ちをしている。だが、今自分のベッドで眠る女性は「美少女」というよりも「美女」というカテゴリーに含まれるように感じられた。
年齢自体はアウラとそう離れている訳では無さそうだが、やや大人びた雰囲気がその印象を助長させるのだろう。
(無理に起こすのも気が引けるし、どうしたもんかな……)
首をやや傾け、この状況の打開策を練る。
ベッドのすぐ近くにある丸椅子に腰を掛けようとした、その時だった。
「────うおっ!?」
アウラの身体が、バランスを崩したように前方に倒れ込んだのだ。
床にあった溝に足を取られ、美女の眠るベッドへと一直線に身体が傾いていく。彼にそれを止める術はなく、衝突という結末を防ぐ手段は一つしか残されていない。
ボスッ、という籠った音と同時に、クッションが深く凹む。
アウラはギリギリのところで両手を付き、眠れる美女との接触を免れた。顔と顔の距離は近く、少しでも動けば触れてしまいそうな程だった。
「……あっぶな……」
思わずそう零し、心の底から安堵するアウラ。
だが、傍から見れば、今の彼は美女に覆い被さっている状態だ。ある種、夜這いをかけているようにしか見えない。
溝から足を抜き、体勢を戻そうとするアウラ。だがその直前、彼は不運に見舞われる事になる。
「────え」
「あ────」
寝室に、二つの声が交差する。
手を付いてしまった時の衝撃で目を覚ましてしまったのだろう。つい数秒前まで深い眠りに落ちていた女性と目が合ってしまった。
日輪のような赤紙とは対照的に、その瞳は大海のような蒼色をしていた。
最初は呆然とした表情をしていたが、自分の身に起きた事を理解したのか、見る見るうちに頬が紅潮していく。
至極当然な反応だ。
「えっと────おはよう、ございます……?」
アウラがどうにか絞り出した言葉。彼も彼でこの場を穏便に済ませようと絞り出した言葉なのだろうが、完全に言葉選びを間違えている。
恥ずかしさから来るものか、震えている彼女はアウラに弁明する時間を与えず、
「……変態────っ!!」
赤面したまま、渾身の右ストレートを叩き込んだ。
防御する間もなく、アウラは後方へと殴り飛ばされる。事故とはいえ、アウラに加えられた制裁はビンタなどという生温いものではなく、グーだった。
危険を察知してから行動までのスピード、そして腕の捻りがアウラへのダメージを増加させる。文句ナシの右ストレートであった。
「誰なんですか? こんな夜に何しに来たんですか貴方!! 夜這いですか!? 夜這いなんですか!?」
軽くパニックに陥りながら、彼女は壁際に逃げる。
「違いますって! 別に夜這いとかじゃなくて────」
「だったらなんであんな近距離にいたの!? あの距離は確実に寝込みを襲う時の距離でしょう!?」
殴られた頬を手で押さえて必死に弁明を試みるアウラだが、生憎、彼女の耳には届いておらず、顔を真っ赤にしながら指さして糾弾する。
状況が状況だったので仕方ないのだが、完全に誤解し切ってしまっている。
何故あれほど至近距離にいたのかと聞かれ、アウラは「うっ」と一瞬口ごもるも、どうにか言葉を捻り出す。
「あれはただの事故ですよ! つーかアンタこそ人の家で勝手に寝るなんて、一体誰なんですか! 俺はただ帰って来ただけなんですけど!」
精一杯反論する。
アウラの言い分も一応は正しい。彼からすれば、彼女もまた家に上がり込んでいた不審者とも言える。
「帰って、来た? ……今、帰って来たって言った? ってことは、ここに住んでる人ってこと?」
「え? あぁ、そうですけど、それが?」
アウラの一言に反応して、赤髪の美女は少し落ち着いた声色になった。
「……ごめんなさい、私てっきり不法侵入した上に唇を奪おうとした変質者かと勘違いしてて……結構本気で殴っちゃったけど、大丈夫? 歯折れてない?」
(折った自信あったんだ……)
一転してアウラの怪我を心配し、手を差し伸べた。
この程度の痛みであれば、アウラは既に何度も経験している。カレンの容赦のない、且つ最もダメージの出る箇所を確実に狙い撃ちする蹴りに比べれば遥かにマシだろう。
「えぇ、まぁ、一応大丈夫ですけど……それより、なんで俺の家に?」
「私はレイズ。この家の大家さんをやっているの。久々に掃除しに来たんだけど、うっかり爆睡しちゃってて」
「大家さん、ですか」
「そう、大家さん。ずっと入居者が入らなかったから心配だったんだけど、良かった~!」
両手を胸の前で合わせ、満面の笑みで喜ぶ。
レイズと名乗る眼前の女性は、あろうことか、この家の家主であった。
「────先程は大変失礼致しました……!」
一切の無駄のない動きで両膝を付き、彼は頭を床に擦り付ける。
日本人の社会において、謝罪と誠意を見せる事に極限まで特化した体勢──土下座である。
「えぇ!? どうしたの急に!?」
「パシリでも舎弟でも本当になんでもしますんで、どうか追い出す事だけはご勘弁頂きたく……」
「頭上げなって! 別にさっきのは私も悪かったんだし、別に舎弟とかいらないから!」
焦った様子でアウラを諫める。
彼女も彼女で先程の事は反省しているらしく、とりたてて事を大きくするつもりは無いらしい。
「本当ですか……?」
「本当本当。何も言わずに上がり込んじゃった私にも非があるし、互いに無かったことにしましょう」
その一言を聞いて、アウラは心の底から安堵する。
「そういえばさっき、「久々に掃除しに来た」って言ってたけど、最初に来た時にやたら片付いてたのって、もしかしてレイズさんが?」
「うん、ここの家は元々私が住んでたんだけど、一身上の都合で家族と過ごす事にしてね。取り壊しちゃうのは勿体ないし、折角なら貸しに出そうと思ったの。使って貰うなら綺麗にしなきゃって事で、ちょくちょく掃除しに来てたんだ」
「なるほど……それで今日、また掃除しに来てた、と」
「ちょっと休もうとしたつもりが、いつの間にか爆睡しちゃってたんだけどね」
レイズは照れ臭そうに笑った。アウラからすれば年上ではあるが、その朗らかさは何処か親近感を抱かせる。
一先ず、大きなトラブルに発展することはなく、問題を起こして住む家を無くすという最悪の顛末だけはどうにか回避できた。
※※※※
少し時間が経ち、レイズはベッド、アウラは木の椅子にそれぞれ座り、二人はしばし談笑していた。
「へぇ、アウラ君、現役バリバリの魔術師なんだ」
「まぁ、一応……魔術といっても、簡単な魔力操作とか、「強化」ぐらいしか使えないですけどね」
自嘲気味にアウラが言う。
魔術師として生きていく上で、常に付き纏う欠陥だ。だが彼からしてみれば、それはただのマイナスという訳ではなく、乗り越えるべき壁でもある。
悲観的になり過ぎるよりも、このように話のネタに変えられる程の余裕があった方が、精神的にも良い。
「ということは、私の後輩ってことになるのかな?」
「後輩って、レイズさんも魔術師だったの!?」
「今は一時的に引退しているけどね。大体、今から一年ぐらい前まではエリュシオンに所属していたの。当時はそうだね……定例会の模擬戦に選抜して貰ったことがあったかな?」
「定例会……あっ────」
何処か思い当たる節があったのか、思わず声を漏らした。
命からがらナーガを討ち、ケシェル山から下山していた時、クロノが言っていたことを思い返す。
──『前回は確か、ラグナさんとカレンさん。それからもう一人、今は諸事情で休業中の魔術師の人が参加していました』
少し間を置いて、アウラが口を開く。
クロノとレイズが言っている事は、見事に合致している。アウラがレイズにとって「後輩」なのであれば、それは間違い無く──、
「……前回の模擬戦に出場してた魔術師。って事は、今抜けている主力の一人って」
「あ~……それ多分、私の事だね。定例会議が終わったタイミングから冒険者活動は殆どやってないし」
「なんで引退を?もしかして怪我とか……?」
「大した理由がある訳じゃないよ。引退する前、私はずっと家族に仕送りをしてたんたけど、冒険者の友人に「もっと家族と過ごす時間も大切にしろ」って忠告されてね」
拒むこと無く、懐かしそうにレイズは語り出した。
「確かに、現役の頃の私は休む事無く依頼に出てばかりだったし、結構必死になってたんだよね。その為に危険な依頼を受けることもあったの。だから、その友人の一言のお陰で少し冷静になれたかな」
「レイズさんの家って、そんなに貧しいんですか」
「いや、別にそうでもないと思う。でも、私は元々身寄りのいない孤児でね。今の家族と血の繋がりはないんだけど、わざわざ引き取って育ててくれた。……その恩に報いる為にエリュシオンに来て、魔術師になったの」
彼女は「大した理由はない」と言うが、十分に立派な理由だ。
特に、成り行きで魔術師になったアウラとは。
「それで、少しでも家計の足しになればと思ってこの家を貸しに出したんだけど──家賃ってどうする?」
その言葉を聞いた途端、アウラは「うっ」と、気まずそうに口ごもる。彼個人としては一番触れられたくない話題だったのか、少し目をそらした。
「どうしたの?」
「いえ、その……実は俺、冒険者になったばかりで金が無くてですね」
「あぁ、成る程。……だったら、無理はしないで良いよ、返せる時に少しづつでも構わないから。身体を壊しちゃったら元も子もないしね」
「そんなあっさり、良いんですか?」
「今は現役時代に稼いだ貯蓄があるし、それに、こんなに古い家に住んでもらってるのに、高い家賃ふんだくるなんて事はしないよ」
苦笑交じりにレイズは言う。
アトラスの冒険者の中の上澄み。主力として活躍していたのなら、彼女は最低でも熾天以上の位階を持っていても何ら不思議ではないのだ。
アウラは何処か心配そうな面持ちだったが、彼女に釣られて表情を緩ませる。
「──さて、今日はもう遅いし、久し振りに泊まっていこうかな」
立ち上がり、階段の方へと向かう。
「あぁ、だったら俺が下のソファで寝るので、レイズさんはベッドを」
「いいのいいの。今住んでいるのはキミなんだから、気にしないで」
椅子から立とうとするアウラの肩を押さえ、にっこりと微笑んでから寝室を後にする。
陽光のような、暖かい手の感覚だけが肩に残る。
(──正直不安だったけど、優しそうな人で良かった)
初対面の印象こそ互いに最悪極まりなかったが、それもすぐに解消できた。
最大の気がかりだった家賃についても、あちらの厚意で引き延ばしという事にして貰った。無論、アウラとしては貯まり次第支払う腹積もりだが。
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