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第一章 開幕編
18話『逆襲──再演の雷霆』
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──生きろ。クロノが弱点を見つけるまで、全神経を回避行動に注げ。
強化の魔術は未だに作用している。ナーガは複数の頭を使い、アウラとクロノの二人を狙い続けているが、未だに捕らえる事は出来ていない。クロノは縦横無尽に駆け、大鎌を用いた斬撃と魔術を用いて迎撃しながらナーガの弱点を探し出す。
アウラの本当の役目は、攻撃を凌ぎ続け、彼女が打開策を見つけてからだ。
地下空間の壁にナーガは何度も衝突しているが、崩落を起こしそうな様子はないので安心して眼前の敵に専念できる。
巨獣を前にして、少女は疾駆する。
確かに膂力であれば彼女を同行させたカレンに劣るが、速度スピードと反射神経は全く引けを取らない。
今の彼女は魔術行使に使用する魔力を内在するオドから地下空間に充満する潤沢なマナに切り替えていた。
彼らが手繰る魔術は神々の異能の模倣。
神とは本来、自然の中に見出されたモノ──故に、自然の中にあるマナを用いた魔術は、人為的なオドを用いた魔術よりも原典に近い質を帯びる。これが、マナを用いた魔術がオドを用いた魔術よりも良質たる所以。
術者の身体を銃身とするのなら、この空間には弾丸が無限に転がっているような状況だ。
マナを取り込み、魔力を練り上げた傍から魔術に変換する。
クロノの継戦能力に拍車をかける。襲い来る蛇頭をいくら斬ろうとも、即座に傷は塞がっていく。
一見すればどこまでも無駄な行為。
だが、彼女は止まらない。──その行為には明確な意図があった。
(まだだ……まだ足りない)
圧倒的なスピードでナーガの頭と渡り合うクロノ。アウラの方に目を向ける事は無く、ただ自らの目的のみに集中力を注いでいた。
それは、アウラの力量を信用しているからこそできる事だった。
一度した約束を違えるような真似は出来ず、「絶対に」と発した以上、確実にやり遂げなければならない。
襲い来る蛇頭の一瞬の隙をも見逃さず、クロノは直ぐに鎌を振るい、裂傷を与えていく。
舞うように、いざ攻撃に転じればその行動に迷いは無かった。
強化による身体能力の向上に加え、更に脚力を瞬間的に強化しているのか、攻撃を避ける際の動き出しはナーガを軽く凌駕する速度を誇っている。
アウラも躱すだけでは無く、時に迎撃を行うが、それもあくまで最小限。
優先順位が高いのは「生存」だ。無理に攻撃に転じて深手を負えばかえってクロノの足を引っ張る事になりかねない。
(まだ魔術は継続してる……頼むぞクロノ……!)
魔術を成立させた時の、全身が熱を帯びる感覚。その余韻がまだあるということは魔術が未だ機能している事を証明している。
この術が切れれば、それこそ彼はこの場にいる「価値」が無い。無力な青年に成り果てるのだ。
この怪物の息の根を止める決定打。それを担うのが彼だ。
「────ッ!」
一呑みに顎を大きく開く蛇頭を避け、その眼に刃を突き立て、大きく振り回される形で離脱する。
防御するモノの無い、無防備な眼球からは大量の血が噴き出す。再生するとはいえ流石に効いたのか、その頭はすぐに退き、他の頭と入れ替わった。
「……っぶね……。今のはちょっと欲張り過ぎた」
壁に背中から激突する寸前で体勢を立て直し、地に足を付けると同時に深い思考を介せず、反射的に過度な迎撃に出た己を戒める。
それなりに深い部分まで刃を喰い込ませたが、その程度の傷も数秒すれば修復される。そう理解した上での迎撃だったが。
「……?」
次の攻撃に備えるが、彼の眼前で異変が起きた。
自身の想定とは違う展開。この戦闘に於いて、アウラの欠点が致命的なデメリットとなる要因。
戦況を変えうる程の変化が、アウラが今迎撃した蛇頭に見受けられたのだ。
「あの頭……傷が消えてない?」
眼球はナーガ自身の血に塗れ、最早獲物を見る器官としての機能を喪失している。
だが、それだけではない。
クロノの奮戦によって付けられたであろう裂傷が、五つあるうち中央の蛇頭に幾つも残っていた。決して深い傷では無く、他の頭であれば即座に塞がっている程度の傷だが──それでも、この怪物を討つ希望としては十分だ。
アウラが伝えるまでも無く、クロノは退いた蛇頭を見て理解した。
クロノがひらすらに裂傷を与えていたのは、この為。
「あの真ん中の頭が司令塔とすれば、さしずめ他の四つの頭は「触覚」ってところですか。だから、いくら損傷を受けても修復する。……だったら、やる事は一つだけ」
再生する事を承知の上で、全ての蛇頭に傷を付けた。
全ての蛇頭に再生機能が備わっているのであれば、それこそ神話級の不死の怪物に等しい。
しかし、魔獣と言えど生物である以上は死は有り、死なない筈は無い。
これは、ある種クロノ自身にとっての「賭け」でもあった。己の直観に従い、この蛇竜が不死でない事を信じて、再生しない蛇頭を炙り出した。
「あの頭さえ潰せば、私達の勝ちです」
ここに来て、クロノはその瞳に敵意を宿した。
ナーガの弱点を炙り出すまでは前座に過ぎなかったのだ。
長期戦になる事は許されず、それは敗北と同義。「頭を潰す」、という字面だけでは簡単だが、
「あぁ……だけど、あの頭だけ傷が浅い気がするんだけど」
「問題はそこです。刃が通らない事は無いですが他に比べて格段に硬いので、ただ裂傷を与え続けるだけじゃ、多分アウラさんの方に限界が来てしまいます。だから、出来る限り一撃で仕留める事になりますね」
「一撃……か」
クロノの言う「触覚」に相当する蛇頭であれば、アウラは開幕で斬り落とした。
しかし、アウラの刃と同等の切れ味を持つであろう彼女の鎌を以てしても深い傷を負わせるには至らない。
蛇頭の連撃を躱しつつ、尚且つ確実に「司令塔」である蛇頭を潰す手段を考える。
単純にハードルが上がっただけだ。
「長時間……は難しいですが、数秒、いや十秒程度アレを拘束します。」
「つまり、その一瞬で司令塔を消し飛ばせ、と。……それ、普通に難易度超高いよな」
「ですけど、そこをなんとか。私は本気でナーガを止めますので、アウラさんもどうか本気で頼みます」
ここまで来て若干ヤケクソ気味なクロノだが、確かに膂力なら魔術を行使した状態のアウラの方が上。
「……了解だ。もう後には引けないし、いっそ魔力全部使い切る気でやってやるさ」
余分なマイナス思考は全てカット。残る魔力の残量を気にするのは辞め、クロノが作り出した隙に、文字通り持てる全てを注ぎ込む。
ミスを犯す事は出来ない上、チャンスはたったの一度きりだ。
「……」
神経を研ぎ澄ませ、外界の情報の一切をシャットアウト。──魔力が未だ体内を巡っている事を確認し、意識を深層に落とし込む。
五感全てを、この怪物を仕留める為に捧げる。
「────ッ!」
ナーガの持つ触覚の攻撃は一層激しさを増している。この地下空間が崩落しようとも構わない、という様子だ。唯一「司令塔」の頭だけ動かないというのは、危機を察したからか。
ヒトという、愚かにも自らの支配領域に足を踏み入れたモノ。幾度も葬って来た矮小な存在が、不遜にも自らの命に届きうる事を。
クロノは再びマナを魔力に変換し、先程と同じく地下空洞を駆ける。
相手は術者によって喚起された、神期の魔獣に匹敵する怪物。故に、並みの魔術ではコンマ数秒すら止める事は不可能。
充満する濃密なマナは、確実に現代よりも「過去」に近い。
神期に近い魔獣相手には、神期に近い質の魔力を用いた魔術で相対する。
神位の術師の手繰るソレには程遠くとも──ほんの一瞬でも、その域に達する事が出来れば、この怪物を拘束する事は可能だ。
大鎌を携えて、クロノは触覚の攻撃をやりすごしつつ、地面、壁面を問わず一定の位置に鎌の柄を打ち込んでいく。
アウラの魔力量が数少ない事を前提に考えれば、この工程にも余計な時間はかけられない。
「流石に、ちょっと気付いてきてますか……」
ナーガに比べれば遥かに小さな身体に、司令塔を除いた三つの頭が襲い掛かる。互いの衝突など気にせず、前方、上方からその毒牙は迫る。
巨躯の前に立つ二人は、今まで命を奪ってきた人間と決して同じではなく、ナーガも唯一の弱点を見抜かれた事でそれを認識した。
何者かによって顕現させられた存在に過ぎないが、眼の前の生命は、ただ神の庇護に縋るだけの、弱い種族では無いことを本能的に悟った。
クロノも、既に恐怖心などの感情は切り捨てている。──故に、その判断、決断に思考から行動までのラグは無い。
「────アルス・アグラ」
標的を見据えたまま、小さく、それまでとは少し違う文言を口にし、魔力を一層多く脚部に叩き込む。
通常の「強化」の、もう一段階上。良質なマナに、更に上位の概念を付与する。
強化した状態で跳躍し、蛇頭を全く寄せ付けない程の速度で壁面を駆けた。
高位の魔術行使には、消費する魔力量も比例する。
取り込んだマナの大部分を消費してのものだが、すかさず怪物を拘束する魔術の為のマナを取り込んでいく。
「────っ!」
壁面に鎌で傷を付けて蹴り、再び地に足を付ける。
彼女によって付けられた傷は数知れない。ナーガを拘束する為の魔術の下準備に抜かりはなく、その規模はこの空間全てを利用するモノ。寧ろ、マナを用いた上で、その規模の魔術でなければ、この蛇を止める事は敵わない。
一方、アウラは余る蛇頭の突進をいなしつつ、その機を待ち続ける。
冷や汗が頬を伝う。その理由は、
(クロノ、間に合ってくれるか……)
左胸を押さえ、心臓の鼓動が加速していくのを感じる。その正体は緊張などの心理的な問題に起因するものでは無く、経験した事の無い程の長時間の魔術行使に因るものだった。
彼の身体を強化している燃料は有限のオド。
未だに高い集中力を維持したままだが、魔術の機能が切れれば意味を成さなくなる。
「オドは、大雑把に考えて残り五割ってところか……」
十全な状態とは言えない。が――これで、出し惜しむ必要も無くなった。魔力切れなど未知の体験だが、その程度は腹を括っている。
「──っ」
歯を食いしばり、ヴァジュラを持つ手に再び力を籠める。
初の依頼。眼前に在るは竜の系譜。
古来の叙事詩であれば、竜を討伐したとなれば、その当人は英雄として祀り上げられる事だろう。
生憎、そのような夢のある話ではなく、正に生きるか死ぬかの二つの事実を常に突き付けられるのが現実。一寸先は闇、というのはこちらに来た時から言い聞かせてきた事だった。
──だからこそ、後悔するような選択はしない。
常に死が付き纏うのであれば、いつ死んでも後悔だけはしない選択をし続けるだけ。
雨宮海斗という青年が異界に来る際に決めた掟。
己に課したその生き方を自分で曲げるような真似は、己を殺す事に等しいのだから。
※※※※
蛇頭達の攻撃を軽々と躱す、死神の如き鎌を携えた影。
己の全てを他の「触覚」と渡り合う青年に賭け、怪物を拘束する為の術の準備を進めているクロノだ。
流石に体力を消費したのか、やや呼吸は乱れているものの、未だ集中力は切らしていない。
「……これだけ打ち込めば大丈夫でしょう」
クロノの足が、遂に止まる。それ即ち、魔術を起動させる手筈が整ったということ。
足元に力強く柄を打ち込み────、
「────告げる」
片膝を付き、目を瞑る。
静かに、落ち着いた声色で彼女は定められた文言を紡いでいく。
「汝、境界を統べる者なり。その御力は三界を制し、月に在りて顕現す。我らを清めし不死の冥神、黄泉路へ至りし簒奪者よ──」
その魔術詠唱は、彼女が今まで扱ってきたようなモノとは全く違う。一単語で成立させられるレベルでは到底なく、この空間全体に干渉する程の、大規模の魔術式。
ある程度定型化された詠唱では、今の彼女ではナーガを拘束する程の術式は作り出せない。その為、規模に比例して詠唱も長くなる。
彼女が形成する魔術式に、地下に充満するマナが収束していく。
神の時代──神期に近い性質のマナを利用するだけでは無く、彼女は僅かに、詠唱に神へ捧げる祈祷を含んだ。
十分な質と量のマナがあってこそ出来た芸当。
詠唱とは、言葉を以て魔力にカタチを与えるモノ。高次の存在たる神へ捧げ、より強固な意味を術式に付与する。マナの質の劣る地上で扱おうものなら、即魔力切れを起こしても可笑しくはない所業だ。
「その叡智と神威を以て、我が魔術を言祝ぎ給え」
外部から取り込んだマナを、余すことなく術式の成立に消費する。刹那──ナーガを中心とした地面に、巨大な魔法陣が顕現した。
かつて此処に足を運んだ術師が高位の魔獣たるこの怪物を召喚出来たのも、この地下に良質なマナが充満していた事に起因している。クロノが行っている事は、本質的にはそれと同じこと。
彼女が柄を打ち込んでいた地点は、魔法陣を敷く上での基点。
この巨躯を囲い込み、尚且つ確実に拘束できる程の術式。精密な陣を敷く為にも、基点の数を予定より増やした。
「……っ!」
全身の魔力が足元の基点から流れ、背筋を悪寒が走り抜けていく感覚に、僅かに苦悶を顕わにする。
彼らがいるのは山の内部に位置する洞窟にして迷宮──即ち、疑似的な冥界。その異界を統べる神格へと捧げ、その執行力を限界まで再現する。
人ならざる存在に由来する魔術の名は────、
「神言魔術、『光葬る冥府の大獄』────!」
術者の持つ魔術師としての力量、そして条件が揃っているからこそ為せる魔術。超限定的にだが、神の力の一端を扱うモノ。
地面に展開した魔法陣から、膨張するように赤黒い光が浮かび上がり──爆発するように荒れ狂い、怪物の表皮を迸る。
蛇竜の外部から内側へ。クロノの魔術は黒色の雷と化し、ナーガの体内を蹂躙する……!
「十秒以上拘束出来れば御の字ですが……ん?」
体内を冒していく彼女の魔術。確かに拘束こそ出来ているが──一つだけ、侵食に抗う頭が瞳に映った。
「司令塔……っ!? これだけの規模の魔術にも耐性があるっていうんですか……!?」
平静を保っていたが、焦りが隠せていない。
大量のマナ、地下空間を広く使った魔術式、そして、ダメ押しの神に捧げた魔術詠唱。出来る事はやり尽くした上での魔術ですら、あの竜を完全に拘束する域には届かなかった。
確実に、この環境下であれば、彼女が為した魔術は熾天のソレを凌駕していた。
彼女の魔術より、この怪物の格が僅かに上だっただけ。
だが、ナーガの触覚を統べる蛇頭は未だ動いている。そして──潰された目は、アウラを獲物として捉えていた。
顎を外し、毒牙を剥き出しにしながら、地に立つ人間を喰らおうと。
「不味い、アウラさんが────!」
遠方に居る状態のアウラの方へと視線を移す。
たとえ一つでも拘束を免れている以上、他の蛇頭を何秒拘束できていようが無意味だった。
大規模な魔術行使直後の為、即座に次の動きに移ることが出来ない。絶望的と言う他ない状況だが、クロノの目に映るアウラは、
「────アグラ」
静かに詠唱を済ませ、迎撃に出ようとしていた。
拘束は不完全だが、言い換えれば「司令塔だけ」を明確に狙い撃ちする事の出来る、千載一遇の機会。
彼が迎え撃つ理由はそれだけ。────その選択を下す事に、何の躊躇いもありはしない。
「────」
ただ、己に迫る「死」を見据え、ヴァジュラを構える。
大きく開かれた顎。グロテスクな口内を見せながら、自身の命を掠め取ろうと現れた人間を一呑みにしようと迫り来る。常人であれば、その光景を見た瞬間、生存という選択肢を自ら捨てるであろう。
「死」という結果が約束された、絶対的な絶望。ソレを前にすれば、誰しもがその顛末を受け入れる。
相対するは、幾つもの要因が重なり、神域に至った魔術すら凌駕した程の怪物。
頼みの綱であった魔術による拘束が失敗した以上、彼らが勝利する可能性は無に帰したと、少なくともクロノはそう思っていた。
焦燥、絶望、自責。
彼女の中でじわじわと増幅していたのはそれらのマイナスな感情。拘束を免れたナーガの頭がアウラに襲い掛かった時点で、堰を切ったように爆発していた。
しかし、対するアウラはそうではなかった。
何処までも冷静に、貫くような視線を以て、蛇竜を迎え撃つ。
(────逃げる、なんて選択肢は除外しろ。絶対に今、此処で仕留める)
ゆっくりと足を前後に開き、ヴァジュラの切っ先をナーガに向け、持つ腕を後ろに引き絞る。
迎撃態勢に移る。
標的を見定めてから行動に移すまでに迷いは無く、さながら身体が覚えているかのようだった。
幾度も行ってきたが如く、襲い来る蛇頭を「殺すべきモノ」として、己の中で再定義する。
全身を循環するオドを身体だけでは無く、その腕の先にあるヴァジュラにも回していき、それすらもこの怪物を屠る為の器官に切り替えていく。
「あれは────」
遠目に見るクロノが、アウラの武具に起きた異変に気が付いた。
魔力を注ぎ込まれた白銀の刃が光を帯び、バチバチと青い火花を散らしていたのだ。
暗闇に光る蛇頭の紅い眼と、鮮やかな青い雷の対比。体躯では蛇が圧倒してこそいるが、ヴァジュラから発される光は異常とも言える速度で増幅し、比例して発せられる火花も激しさを増していく。
神が手繰る雷霆──かつて、神そのものであった事象がアウラという器の手にあるのだ。
己に残る魔力を全て、この一撃に費やす。
そこに後悔や躊躇いなど欠片も無く、この方法が蛇頭を討つ為に最も効果的であると直観させていた。
(……俺は倒れても構わない。神の武器だって言うんなら、見せて見ろよ。その性能を────!)
ナーガの頭は、目と鼻の先。
ほんの数秒後には、アウラの運命は確定している。この瞬間こそが、生と死とを分かつ分岐点だ。
敗北という可能性の一切を切り捨て、この怪物を討ち取るビジョンをイメージし続ける。少しでも恐怖を抱き、躊躇う事があるのであれば、討伐は叶わない。
(……ッ!)
弾けた電光がヴァジュラから腕へと走り、右腕全体に突き刺すような激痛が走る。凡そ今まで経験した事が無いレベルの痛みだ。
魔力と共に、全身を巡る血液が沸騰する。
「強化」の魔術を行使する際の熱とは比にならず、さながらアウラの中の炉心が臨界を迎えたかの様だった。
──これは、神話の再演。
血液という名の生命源を糧として、神の御技は此処に成る。
クロノのように、魔術として再現するのではなく──遥かな太古、神の時代の事象が蘇る。
仄暗い洞窟を照らす雷光は、大元であるアウラ本人にすら牙を剥いた。
内側から灼き尽くされるかのような苦痛に表情を歪めるも、根性で抑え込む。この程度の痛みと引き換えに怪物を討てるというのなら、死ぬよりはマシというものだろう。
光は時間と共に激しさを増していく。ヴァジュラに込められた魔力は内部で増幅を繰り返し、本来秘める性能を僅かに解放した。
──あらゆる魔を屠る神雷。
担い手の青年の覚悟に応えたかは定かではないが、ことこの場においては、ソレは持ちうる異能を遺憾なく発揮した。
かつて、神が神として在る以前の姿──即ち、大自然の暴威そのもの。人間がただ畏れ、敬い続けた、あらゆる不条理と豊穣、破壊と創造を齎す原初の姿に回帰を果たした。
全てを内包する自然と、自然というシステムの一部として構成された竜種。どちらに優位性があるかは考えるまでもなく明確だ。
顕現した雷霆は器の魔力と命を喰らい、神魔を滅する魔力の奔流と化す────!
「──────ッ!!」
魔力を限界まで増幅・収束させ、万物を貫く光の槍となったヴァジュラをナーガ目掛けて投擲する。
狙うは一点、全てを呑みこむに等しいナーガの口。的としては十分過ぎる程に巨大だ。
地下空間に迸る、一筋の閃光。
如何な大きな顎であろうと、その光を呑みこむ事は敵わない。──伝承に曰く、遥かな神期に水を堰き止めていた蛇竜は、聖人の骨より造られたヴァジュラを手にしたインドラの手で討たれたという。
投擲された雷光は、ナーガの頭を一直線に貫通し、完膚なきまでに粉砕する。
他の追随を許さぬ、絶対的な「破壊」がそこにはあった。瞬きの間に過ぎゆくような刹那、神の力の片鱗が振るわれる。
勝敗は喫した。
最後に立っていたのは、人間だ。
※※※※
「……っあぁ……っはぁ……」
尋常では無い量の汗と共に呼吸を乱し、両手両膝を付いているアウラ。
もう残る魔力は無く、強化に重ねて一撃を見舞った為に寧ろ過剰な魔力の消費だった。何事も過ぎれば代償が付くのは当然のこと。
雷光の下に殲滅されたナーガは跡形も無い。一つの頭も残す事無く、灰のように消え失せた。
最後に怪物の尾があったであろう位置に、彼らの勝利を証明するようにヴァジュラが突き刺さっている。
「──アウラさん、大丈夫ですか!?」
駆け寄るのは、事の一連の流れを見ていたクロノだった。
ナーガの頭を一撃で吹き飛ばした光景も十分に衝撃的だったが、膝から崩れ落ちた彼への心配が今は勝っている。
「しっかりして下さい……!」
必死に呼びかけ、手を回し、身体を支える。
ヴァジュラを投擲した瞬間、強化の魔術はその効力を失った。今はその反動が一気に押し寄せている状態だ。
「残る魔力を全部注ぎ込んだけど、流石にちょっとやり過ぎたかもしれない……っ」
「すぐに動き出すのは無茶です……過度の魔力消費に身体が耐えきれてませんし、暫くは安静にしていて下さい」
立ち上がろうとするアウラを諫める。
仮に立つ事が出来ても、今の状態ではマトモに一歩踏み出す事すらままならないだろう。
此処で無理に動けば、寧ろ容体を悪化させかねない。
「幸い、この洞窟にナーガ以外の魔獣の気配はありません。落ち着くまで此処にいても特に危険は無いですから」
「そう、か……なら、悪いけど少し休ませて貰うよ……」
過去に体験した事の無い程の動悸に抗いながら、なんとか言葉を絞り出す。
度を超えた魔術行使は今回が初めてだったが、その感想は最悪と言うほかないものだった。
止めどなく内側から湧き上がる吐き気、否応なく流れ続ける汗、朦朧とする視界。加えて、投擲する際に走った腕の痛みの余韻がまだ残っている。
証拠に、右腕からは見事に流血している。
「反動が来るのは分かっちゃいたけど、いざ体感してみると中々にキツいな、これ……!」
表情をやや歪ませて、心臓を押さえながらこの感覚だけは、いつまで経っても慣れる事は無いだろうと確信する。
同時に、ヴァジュラの力を引き出した暁には死が訪れると言われたのを、ふと思い出した。
確かに、彼はこの武器──聖遺物と呼ばれる類の兵器の力の片鱗を味わった。だが、一つ引っかかる事があったのだ。
(でも確か、力を引き出す時には……)
苦痛に抗いながら、彼は一つ思い出した。
アウラは、あの世界で出会った天使に教えられた文言を唱えていない。──つまり、ヴァジュラが本来備える力を行使した訳では無いのだ。正確に言うのであれば、今アウラが振るったのは、この武器の持つ力の僅か一端に過ぎなかった。
テウルギア。
捉えようによっては、聖句とも呼べる単語。
それを使わず、ただ魔力を流し込んだだけで、高位の魔獣を跡形も残さず消し飛ばす程の性能を誇っている。
たったそれだけでも、碌に立つ事が出来ない状態に陥っているのだ。力を引き出す代償に死が待ち構えていても何ら不思議では無い。
仮に生きていたとしても、五体満足でいられるかどうかすら危うい。
(……ホンットに、手に余る代物だな)
片膝を着き、出来る限り楽な姿勢を取って、堅い地面に突き刺さったヴァジュラを見つめながら呟く。
実体験を伴った、心の底からの言葉だった。
神の力は、やはり人の身で手繰るには強大過ぎる。
二人以外、誰もいない地下洞。
お世辞にも無事とは言えないが、アウラとクロノは窮地を切り抜け、依頼の実質的な完遂を迎えた。
異世界に来て早三ヶ月、最初の依頼の成果にしては上々。一つの大きな山場を、彼は乗り越えた。
(──死にかけてばっかだけど、案外どうにかなった、か)
一度目は、あの森で。二度目は、自らを冒険者の道へ誘った師との鍛錬の中で。そして三度目、最初の依頼で。
達成感と共に疲労感も押し寄せてくる一方、体内では未だ、反動による気持ち悪さが渦巻いている。
己の為すべき事は為した。
後はこの苦痛を耐え抜き、街に帰るだけだ。
強化の魔術は未だに作用している。ナーガは複数の頭を使い、アウラとクロノの二人を狙い続けているが、未だに捕らえる事は出来ていない。クロノは縦横無尽に駆け、大鎌を用いた斬撃と魔術を用いて迎撃しながらナーガの弱点を探し出す。
アウラの本当の役目は、攻撃を凌ぎ続け、彼女が打開策を見つけてからだ。
地下空間の壁にナーガは何度も衝突しているが、崩落を起こしそうな様子はないので安心して眼前の敵に専念できる。
巨獣を前にして、少女は疾駆する。
確かに膂力であれば彼女を同行させたカレンに劣るが、速度スピードと反射神経は全く引けを取らない。
今の彼女は魔術行使に使用する魔力を内在するオドから地下空間に充満する潤沢なマナに切り替えていた。
彼らが手繰る魔術は神々の異能の模倣。
神とは本来、自然の中に見出されたモノ──故に、自然の中にあるマナを用いた魔術は、人為的なオドを用いた魔術よりも原典に近い質を帯びる。これが、マナを用いた魔術がオドを用いた魔術よりも良質たる所以。
術者の身体を銃身とするのなら、この空間には弾丸が無限に転がっているような状況だ。
マナを取り込み、魔力を練り上げた傍から魔術に変換する。
クロノの継戦能力に拍車をかける。襲い来る蛇頭をいくら斬ろうとも、即座に傷は塞がっていく。
一見すればどこまでも無駄な行為。
だが、彼女は止まらない。──その行為には明確な意図があった。
(まだだ……まだ足りない)
圧倒的なスピードでナーガの頭と渡り合うクロノ。アウラの方に目を向ける事は無く、ただ自らの目的のみに集中力を注いでいた。
それは、アウラの力量を信用しているからこそできる事だった。
一度した約束を違えるような真似は出来ず、「絶対に」と発した以上、確実にやり遂げなければならない。
襲い来る蛇頭の一瞬の隙をも見逃さず、クロノは直ぐに鎌を振るい、裂傷を与えていく。
舞うように、いざ攻撃に転じればその行動に迷いは無かった。
強化による身体能力の向上に加え、更に脚力を瞬間的に強化しているのか、攻撃を避ける際の動き出しはナーガを軽く凌駕する速度を誇っている。
アウラも躱すだけでは無く、時に迎撃を行うが、それもあくまで最小限。
優先順位が高いのは「生存」だ。無理に攻撃に転じて深手を負えばかえってクロノの足を引っ張る事になりかねない。
(まだ魔術は継続してる……頼むぞクロノ……!)
魔術を成立させた時の、全身が熱を帯びる感覚。その余韻がまだあるということは魔術が未だ機能している事を証明している。
この術が切れれば、それこそ彼はこの場にいる「価値」が無い。無力な青年に成り果てるのだ。
この怪物の息の根を止める決定打。それを担うのが彼だ。
「────ッ!」
一呑みに顎を大きく開く蛇頭を避け、その眼に刃を突き立て、大きく振り回される形で離脱する。
防御するモノの無い、無防備な眼球からは大量の血が噴き出す。再生するとはいえ流石に効いたのか、その頭はすぐに退き、他の頭と入れ替わった。
「……っぶね……。今のはちょっと欲張り過ぎた」
壁に背中から激突する寸前で体勢を立て直し、地に足を付けると同時に深い思考を介せず、反射的に過度な迎撃に出た己を戒める。
それなりに深い部分まで刃を喰い込ませたが、その程度の傷も数秒すれば修復される。そう理解した上での迎撃だったが。
「……?」
次の攻撃に備えるが、彼の眼前で異変が起きた。
自身の想定とは違う展開。この戦闘に於いて、アウラの欠点が致命的なデメリットとなる要因。
戦況を変えうる程の変化が、アウラが今迎撃した蛇頭に見受けられたのだ。
「あの頭……傷が消えてない?」
眼球はナーガ自身の血に塗れ、最早獲物を見る器官としての機能を喪失している。
だが、それだけではない。
クロノの奮戦によって付けられたであろう裂傷が、五つあるうち中央の蛇頭に幾つも残っていた。決して深い傷では無く、他の頭であれば即座に塞がっている程度の傷だが──それでも、この怪物を討つ希望としては十分だ。
アウラが伝えるまでも無く、クロノは退いた蛇頭を見て理解した。
クロノがひらすらに裂傷を与えていたのは、この為。
「あの真ん中の頭が司令塔とすれば、さしずめ他の四つの頭は「触覚」ってところですか。だから、いくら損傷を受けても修復する。……だったら、やる事は一つだけ」
再生する事を承知の上で、全ての蛇頭に傷を付けた。
全ての蛇頭に再生機能が備わっているのであれば、それこそ神話級の不死の怪物に等しい。
しかし、魔獣と言えど生物である以上は死は有り、死なない筈は無い。
これは、ある種クロノ自身にとっての「賭け」でもあった。己の直観に従い、この蛇竜が不死でない事を信じて、再生しない蛇頭を炙り出した。
「あの頭さえ潰せば、私達の勝ちです」
ここに来て、クロノはその瞳に敵意を宿した。
ナーガの弱点を炙り出すまでは前座に過ぎなかったのだ。
長期戦になる事は許されず、それは敗北と同義。「頭を潰す」、という字面だけでは簡単だが、
「あぁ……だけど、あの頭だけ傷が浅い気がするんだけど」
「問題はそこです。刃が通らない事は無いですが他に比べて格段に硬いので、ただ裂傷を与え続けるだけじゃ、多分アウラさんの方に限界が来てしまいます。だから、出来る限り一撃で仕留める事になりますね」
「一撃……か」
クロノの言う「触覚」に相当する蛇頭であれば、アウラは開幕で斬り落とした。
しかし、アウラの刃と同等の切れ味を持つであろう彼女の鎌を以てしても深い傷を負わせるには至らない。
蛇頭の連撃を躱しつつ、尚且つ確実に「司令塔」である蛇頭を潰す手段を考える。
単純にハードルが上がっただけだ。
「長時間……は難しいですが、数秒、いや十秒程度アレを拘束します。」
「つまり、その一瞬で司令塔を消し飛ばせ、と。……それ、普通に難易度超高いよな」
「ですけど、そこをなんとか。私は本気でナーガを止めますので、アウラさんもどうか本気で頼みます」
ここまで来て若干ヤケクソ気味なクロノだが、確かに膂力なら魔術を行使した状態のアウラの方が上。
「……了解だ。もう後には引けないし、いっそ魔力全部使い切る気でやってやるさ」
余分なマイナス思考は全てカット。残る魔力の残量を気にするのは辞め、クロノが作り出した隙に、文字通り持てる全てを注ぎ込む。
ミスを犯す事は出来ない上、チャンスはたったの一度きりだ。
「……」
神経を研ぎ澄ませ、外界の情報の一切をシャットアウト。──魔力が未だ体内を巡っている事を確認し、意識を深層に落とし込む。
五感全てを、この怪物を仕留める為に捧げる。
「────ッ!」
ナーガの持つ触覚の攻撃は一層激しさを増している。この地下空間が崩落しようとも構わない、という様子だ。唯一「司令塔」の頭だけ動かないというのは、危機を察したからか。
ヒトという、愚かにも自らの支配領域に足を踏み入れたモノ。幾度も葬って来た矮小な存在が、不遜にも自らの命に届きうる事を。
クロノは再びマナを魔力に変換し、先程と同じく地下空洞を駆ける。
相手は術者によって喚起された、神期の魔獣に匹敵する怪物。故に、並みの魔術ではコンマ数秒すら止める事は不可能。
充満する濃密なマナは、確実に現代よりも「過去」に近い。
神期に近い魔獣相手には、神期に近い質の魔力を用いた魔術で相対する。
神位の術師の手繰るソレには程遠くとも──ほんの一瞬でも、その域に達する事が出来れば、この怪物を拘束する事は可能だ。
大鎌を携えて、クロノは触覚の攻撃をやりすごしつつ、地面、壁面を問わず一定の位置に鎌の柄を打ち込んでいく。
アウラの魔力量が数少ない事を前提に考えれば、この工程にも余計な時間はかけられない。
「流石に、ちょっと気付いてきてますか……」
ナーガに比べれば遥かに小さな身体に、司令塔を除いた三つの頭が襲い掛かる。互いの衝突など気にせず、前方、上方からその毒牙は迫る。
巨躯の前に立つ二人は、今まで命を奪ってきた人間と決して同じではなく、ナーガも唯一の弱点を見抜かれた事でそれを認識した。
何者かによって顕現させられた存在に過ぎないが、眼の前の生命は、ただ神の庇護に縋るだけの、弱い種族では無いことを本能的に悟った。
クロノも、既に恐怖心などの感情は切り捨てている。──故に、その判断、決断に思考から行動までのラグは無い。
「────アルス・アグラ」
標的を見据えたまま、小さく、それまでとは少し違う文言を口にし、魔力を一層多く脚部に叩き込む。
通常の「強化」の、もう一段階上。良質なマナに、更に上位の概念を付与する。
強化した状態で跳躍し、蛇頭を全く寄せ付けない程の速度で壁面を駆けた。
高位の魔術行使には、消費する魔力量も比例する。
取り込んだマナの大部分を消費してのものだが、すかさず怪物を拘束する魔術の為のマナを取り込んでいく。
「────っ!」
壁面に鎌で傷を付けて蹴り、再び地に足を付ける。
彼女によって付けられた傷は数知れない。ナーガを拘束する為の魔術の下準備に抜かりはなく、その規模はこの空間全てを利用するモノ。寧ろ、マナを用いた上で、その規模の魔術でなければ、この蛇を止める事は敵わない。
一方、アウラは余る蛇頭の突進をいなしつつ、その機を待ち続ける。
冷や汗が頬を伝う。その理由は、
(クロノ、間に合ってくれるか……)
左胸を押さえ、心臓の鼓動が加速していくのを感じる。その正体は緊張などの心理的な問題に起因するものでは無く、経験した事の無い程の長時間の魔術行使に因るものだった。
彼の身体を強化している燃料は有限のオド。
未だに高い集中力を維持したままだが、魔術の機能が切れれば意味を成さなくなる。
「オドは、大雑把に考えて残り五割ってところか……」
十全な状態とは言えない。が――これで、出し惜しむ必要も無くなった。魔力切れなど未知の体験だが、その程度は腹を括っている。
「──っ」
歯を食いしばり、ヴァジュラを持つ手に再び力を籠める。
初の依頼。眼前に在るは竜の系譜。
古来の叙事詩であれば、竜を討伐したとなれば、その当人は英雄として祀り上げられる事だろう。
生憎、そのような夢のある話ではなく、正に生きるか死ぬかの二つの事実を常に突き付けられるのが現実。一寸先は闇、というのはこちらに来た時から言い聞かせてきた事だった。
──だからこそ、後悔するような選択はしない。
常に死が付き纏うのであれば、いつ死んでも後悔だけはしない選択をし続けるだけ。
雨宮海斗という青年が異界に来る際に決めた掟。
己に課したその生き方を自分で曲げるような真似は、己を殺す事に等しいのだから。
※※※※
蛇頭達の攻撃を軽々と躱す、死神の如き鎌を携えた影。
己の全てを他の「触覚」と渡り合う青年に賭け、怪物を拘束する為の術の準備を進めているクロノだ。
流石に体力を消費したのか、やや呼吸は乱れているものの、未だ集中力は切らしていない。
「……これだけ打ち込めば大丈夫でしょう」
クロノの足が、遂に止まる。それ即ち、魔術を起動させる手筈が整ったということ。
足元に力強く柄を打ち込み────、
「────告げる」
片膝を付き、目を瞑る。
静かに、落ち着いた声色で彼女は定められた文言を紡いでいく。
「汝、境界を統べる者なり。その御力は三界を制し、月に在りて顕現す。我らを清めし不死の冥神、黄泉路へ至りし簒奪者よ──」
その魔術詠唱は、彼女が今まで扱ってきたようなモノとは全く違う。一単語で成立させられるレベルでは到底なく、この空間全体に干渉する程の、大規模の魔術式。
ある程度定型化された詠唱では、今の彼女ではナーガを拘束する程の術式は作り出せない。その為、規模に比例して詠唱も長くなる。
彼女が形成する魔術式に、地下に充満するマナが収束していく。
神の時代──神期に近い性質のマナを利用するだけでは無く、彼女は僅かに、詠唱に神へ捧げる祈祷を含んだ。
十分な質と量のマナがあってこそ出来た芸当。
詠唱とは、言葉を以て魔力にカタチを与えるモノ。高次の存在たる神へ捧げ、より強固な意味を術式に付与する。マナの質の劣る地上で扱おうものなら、即魔力切れを起こしても可笑しくはない所業だ。
「その叡智と神威を以て、我が魔術を言祝ぎ給え」
外部から取り込んだマナを、余すことなく術式の成立に消費する。刹那──ナーガを中心とした地面に、巨大な魔法陣が顕現した。
かつて此処に足を運んだ術師が高位の魔獣たるこの怪物を召喚出来たのも、この地下に良質なマナが充満していた事に起因している。クロノが行っている事は、本質的にはそれと同じこと。
彼女が柄を打ち込んでいた地点は、魔法陣を敷く上での基点。
この巨躯を囲い込み、尚且つ確実に拘束できる程の術式。精密な陣を敷く為にも、基点の数を予定より増やした。
「……っ!」
全身の魔力が足元の基点から流れ、背筋を悪寒が走り抜けていく感覚に、僅かに苦悶を顕わにする。
彼らがいるのは山の内部に位置する洞窟にして迷宮──即ち、疑似的な冥界。その異界を統べる神格へと捧げ、その執行力を限界まで再現する。
人ならざる存在に由来する魔術の名は────、
「神言魔術、『光葬る冥府の大獄』────!」
術者の持つ魔術師としての力量、そして条件が揃っているからこそ為せる魔術。超限定的にだが、神の力の一端を扱うモノ。
地面に展開した魔法陣から、膨張するように赤黒い光が浮かび上がり──爆発するように荒れ狂い、怪物の表皮を迸る。
蛇竜の外部から内側へ。クロノの魔術は黒色の雷と化し、ナーガの体内を蹂躙する……!
「十秒以上拘束出来れば御の字ですが……ん?」
体内を冒していく彼女の魔術。確かに拘束こそ出来ているが──一つだけ、侵食に抗う頭が瞳に映った。
「司令塔……っ!? これだけの規模の魔術にも耐性があるっていうんですか……!?」
平静を保っていたが、焦りが隠せていない。
大量のマナ、地下空間を広く使った魔術式、そして、ダメ押しの神に捧げた魔術詠唱。出来る事はやり尽くした上での魔術ですら、あの竜を完全に拘束する域には届かなかった。
確実に、この環境下であれば、彼女が為した魔術は熾天のソレを凌駕していた。
彼女の魔術より、この怪物の格が僅かに上だっただけ。
だが、ナーガの触覚を統べる蛇頭は未だ動いている。そして──潰された目は、アウラを獲物として捉えていた。
顎を外し、毒牙を剥き出しにしながら、地に立つ人間を喰らおうと。
「不味い、アウラさんが────!」
遠方に居る状態のアウラの方へと視線を移す。
たとえ一つでも拘束を免れている以上、他の蛇頭を何秒拘束できていようが無意味だった。
大規模な魔術行使直後の為、即座に次の動きに移ることが出来ない。絶望的と言う他ない状況だが、クロノの目に映るアウラは、
「────アグラ」
静かに詠唱を済ませ、迎撃に出ようとしていた。
拘束は不完全だが、言い換えれば「司令塔だけ」を明確に狙い撃ちする事の出来る、千載一遇の機会。
彼が迎え撃つ理由はそれだけ。────その選択を下す事に、何の躊躇いもありはしない。
「────」
ただ、己に迫る「死」を見据え、ヴァジュラを構える。
大きく開かれた顎。グロテスクな口内を見せながら、自身の命を掠め取ろうと現れた人間を一呑みにしようと迫り来る。常人であれば、その光景を見た瞬間、生存という選択肢を自ら捨てるであろう。
「死」という結果が約束された、絶対的な絶望。ソレを前にすれば、誰しもがその顛末を受け入れる。
相対するは、幾つもの要因が重なり、神域に至った魔術すら凌駕した程の怪物。
頼みの綱であった魔術による拘束が失敗した以上、彼らが勝利する可能性は無に帰したと、少なくともクロノはそう思っていた。
焦燥、絶望、自責。
彼女の中でじわじわと増幅していたのはそれらのマイナスな感情。拘束を免れたナーガの頭がアウラに襲い掛かった時点で、堰を切ったように爆発していた。
しかし、対するアウラはそうではなかった。
何処までも冷静に、貫くような視線を以て、蛇竜を迎え撃つ。
(────逃げる、なんて選択肢は除外しろ。絶対に今、此処で仕留める)
ゆっくりと足を前後に開き、ヴァジュラの切っ先をナーガに向け、持つ腕を後ろに引き絞る。
迎撃態勢に移る。
標的を見定めてから行動に移すまでに迷いは無く、さながら身体が覚えているかのようだった。
幾度も行ってきたが如く、襲い来る蛇頭を「殺すべきモノ」として、己の中で再定義する。
全身を循環するオドを身体だけでは無く、その腕の先にあるヴァジュラにも回していき、それすらもこの怪物を屠る為の器官に切り替えていく。
「あれは────」
遠目に見るクロノが、アウラの武具に起きた異変に気が付いた。
魔力を注ぎ込まれた白銀の刃が光を帯び、バチバチと青い火花を散らしていたのだ。
暗闇に光る蛇頭の紅い眼と、鮮やかな青い雷の対比。体躯では蛇が圧倒してこそいるが、ヴァジュラから発される光は異常とも言える速度で増幅し、比例して発せられる火花も激しさを増していく。
神が手繰る雷霆──かつて、神そのものであった事象がアウラという器の手にあるのだ。
己に残る魔力を全て、この一撃に費やす。
そこに後悔や躊躇いなど欠片も無く、この方法が蛇頭を討つ為に最も効果的であると直観させていた。
(……俺は倒れても構わない。神の武器だって言うんなら、見せて見ろよ。その性能を────!)
ナーガの頭は、目と鼻の先。
ほんの数秒後には、アウラの運命は確定している。この瞬間こそが、生と死とを分かつ分岐点だ。
敗北という可能性の一切を切り捨て、この怪物を討ち取るビジョンをイメージし続ける。少しでも恐怖を抱き、躊躇う事があるのであれば、討伐は叶わない。
(……ッ!)
弾けた電光がヴァジュラから腕へと走り、右腕全体に突き刺すような激痛が走る。凡そ今まで経験した事が無いレベルの痛みだ。
魔力と共に、全身を巡る血液が沸騰する。
「強化」の魔術を行使する際の熱とは比にならず、さながらアウラの中の炉心が臨界を迎えたかの様だった。
──これは、神話の再演。
血液という名の生命源を糧として、神の御技は此処に成る。
クロノのように、魔術として再現するのではなく──遥かな太古、神の時代の事象が蘇る。
仄暗い洞窟を照らす雷光は、大元であるアウラ本人にすら牙を剥いた。
内側から灼き尽くされるかのような苦痛に表情を歪めるも、根性で抑え込む。この程度の痛みと引き換えに怪物を討てるというのなら、死ぬよりはマシというものだろう。
光は時間と共に激しさを増していく。ヴァジュラに込められた魔力は内部で増幅を繰り返し、本来秘める性能を僅かに解放した。
──あらゆる魔を屠る神雷。
担い手の青年の覚悟に応えたかは定かではないが、ことこの場においては、ソレは持ちうる異能を遺憾なく発揮した。
かつて、神が神として在る以前の姿──即ち、大自然の暴威そのもの。人間がただ畏れ、敬い続けた、あらゆる不条理と豊穣、破壊と創造を齎す原初の姿に回帰を果たした。
全てを内包する自然と、自然というシステムの一部として構成された竜種。どちらに優位性があるかは考えるまでもなく明確だ。
顕現した雷霆は器の魔力と命を喰らい、神魔を滅する魔力の奔流と化す────!
「──────ッ!!」
魔力を限界まで増幅・収束させ、万物を貫く光の槍となったヴァジュラをナーガ目掛けて投擲する。
狙うは一点、全てを呑みこむに等しいナーガの口。的としては十分過ぎる程に巨大だ。
地下空間に迸る、一筋の閃光。
如何な大きな顎であろうと、その光を呑みこむ事は敵わない。──伝承に曰く、遥かな神期に水を堰き止めていた蛇竜は、聖人の骨より造られたヴァジュラを手にしたインドラの手で討たれたという。
投擲された雷光は、ナーガの頭を一直線に貫通し、完膚なきまでに粉砕する。
他の追随を許さぬ、絶対的な「破壊」がそこにはあった。瞬きの間に過ぎゆくような刹那、神の力の片鱗が振るわれる。
勝敗は喫した。
最後に立っていたのは、人間だ。
※※※※
「……っあぁ……っはぁ……」
尋常では無い量の汗と共に呼吸を乱し、両手両膝を付いているアウラ。
もう残る魔力は無く、強化に重ねて一撃を見舞った為に寧ろ過剰な魔力の消費だった。何事も過ぎれば代償が付くのは当然のこと。
雷光の下に殲滅されたナーガは跡形も無い。一つの頭も残す事無く、灰のように消え失せた。
最後に怪物の尾があったであろう位置に、彼らの勝利を証明するようにヴァジュラが突き刺さっている。
「──アウラさん、大丈夫ですか!?」
駆け寄るのは、事の一連の流れを見ていたクロノだった。
ナーガの頭を一撃で吹き飛ばした光景も十分に衝撃的だったが、膝から崩れ落ちた彼への心配が今は勝っている。
「しっかりして下さい……!」
必死に呼びかけ、手を回し、身体を支える。
ヴァジュラを投擲した瞬間、強化の魔術はその効力を失った。今はその反動が一気に押し寄せている状態だ。
「残る魔力を全部注ぎ込んだけど、流石にちょっとやり過ぎたかもしれない……っ」
「すぐに動き出すのは無茶です……過度の魔力消費に身体が耐えきれてませんし、暫くは安静にしていて下さい」
立ち上がろうとするアウラを諫める。
仮に立つ事が出来ても、今の状態ではマトモに一歩踏み出す事すらままならないだろう。
此処で無理に動けば、寧ろ容体を悪化させかねない。
「幸い、この洞窟にナーガ以外の魔獣の気配はありません。落ち着くまで此処にいても特に危険は無いですから」
「そう、か……なら、悪いけど少し休ませて貰うよ……」
過去に体験した事の無い程の動悸に抗いながら、なんとか言葉を絞り出す。
度を超えた魔術行使は今回が初めてだったが、その感想は最悪と言うほかないものだった。
止めどなく内側から湧き上がる吐き気、否応なく流れ続ける汗、朦朧とする視界。加えて、投擲する際に走った腕の痛みの余韻がまだ残っている。
証拠に、右腕からは見事に流血している。
「反動が来るのは分かっちゃいたけど、いざ体感してみると中々にキツいな、これ……!」
表情をやや歪ませて、心臓を押さえながらこの感覚だけは、いつまで経っても慣れる事は無いだろうと確信する。
同時に、ヴァジュラの力を引き出した暁には死が訪れると言われたのを、ふと思い出した。
確かに、彼はこの武器──聖遺物と呼ばれる類の兵器の力の片鱗を味わった。だが、一つ引っかかる事があったのだ。
(でも確か、力を引き出す時には……)
苦痛に抗いながら、彼は一つ思い出した。
アウラは、あの世界で出会った天使に教えられた文言を唱えていない。──つまり、ヴァジュラが本来備える力を行使した訳では無いのだ。正確に言うのであれば、今アウラが振るったのは、この武器の持つ力の僅か一端に過ぎなかった。
テウルギア。
捉えようによっては、聖句とも呼べる単語。
それを使わず、ただ魔力を流し込んだだけで、高位の魔獣を跡形も残さず消し飛ばす程の性能を誇っている。
たったそれだけでも、碌に立つ事が出来ない状態に陥っているのだ。力を引き出す代償に死が待ち構えていても何ら不思議では無い。
仮に生きていたとしても、五体満足でいられるかどうかすら危うい。
(……ホンットに、手に余る代物だな)
片膝を着き、出来る限り楽な姿勢を取って、堅い地面に突き刺さったヴァジュラを見つめながら呟く。
実体験を伴った、心の底からの言葉だった。
神の力は、やはり人の身で手繰るには強大過ぎる。
二人以外、誰もいない地下洞。
お世辞にも無事とは言えないが、アウラとクロノは窮地を切り抜け、依頼の実質的な完遂を迎えた。
異世界に来て早三ヶ月、最初の依頼の成果にしては上々。一つの大きな山場を、彼は乗り越えた。
(──死にかけてばっかだけど、案外どうにかなった、か)
一度目は、あの森で。二度目は、自らを冒険者の道へ誘った師との鍛錬の中で。そして三度目、最初の依頼で。
達成感と共に疲労感も押し寄せてくる一方、体内では未だ、反動による気持ち悪さが渦巻いている。
己の為すべき事は為した。
後はこの苦痛を耐え抜き、街に帰るだけだ。
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