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ヒュドラの首
ヒュドラ討伐作戦……!?
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勇男とエーラが出逢った次の日、勇男はアルテミスの泉から少し離れたところで仁王立ちしていた。
ただ立っているわけではなく、表情も金剛力士よろしく厳しい面構えになっている。
単に荒野の真ん中に立っているのが、これほど緊張感に満ち満ちた経験など、勇男の人生の中ではないことだった。
それもそのはず、いま勇男はヒュドラの首を誘き寄せるための『囮』として立っているからだ。
エーラの話では、ヒュドラの首はかなり感覚が鋭く、昼の荒野に生き物が入ってくると、どんなに距離が離れていても察知して襲ってくるらしい。
なのでヒュドラが縄張りにしている荒野は、ほとんどの生き物がヒュドラを恐れて近寄らず、独壇場に成り果ててしまったそうだ。
というわけで、単純にヒュドラの首に遭遇しようと思えば、ただ突っ立っていれば向こうからすぐに遭いに来てくれるというわけである。
(『ここにいればすぐにヒュドラが遭えますよ~』ってか!? サファリパークのど真ん中に放り出された気分だぜ! 誰かせめて園内用の移動車もってきて~!)
心の中でそう叫ぶが、ヒュドラ退治を手伝うと約束した手前、動くわけにはいかない。
たとえ脚が震え、直射日光に晒されているのに汗が冷たくて、心臓が嫌に速く脈打って、時間の感覚が曖昧になって、ちょっとチビってしまいそうな気になったとしても、だ。
呼吸を乱れさせて荒野の先を見つめていた勇男は、今朝のことを思い返していた。
「これが王サマから渡された道具全部だ」
「は? え? これで……全部!?」
まだ荒野が朝陽に白んでくる少し前、勇男とエーラはヒュドラ退治の作戦を考えるため、それぞれが持っている道具を確認していた。
勇男は剣と衣類以外はほとんど持っていなかったので、主にエーラの道具を確認にすることになった。
わけではあるが、荷物袋から取り出され、並べられた道具に数々は、素人の勇男ですら悪い意味で驚かせた。
陶製の洗面器、革の水筒、鉄製のナイフ、手拭き布、10メートル弱のロープ、火打石、干し肉の塊、荒野と首都の往復分の路銀、クエスト内容が書かれた王印入りの羊皮紙、そして謎の小瓶。
「……武器は?」
「ない。『ヘラクレスの娘ならヒュドラの首程度これで充分だろ』ってさ。だからこれで全部」
勇男は改めて並べられた道具を見た。
鉄のナイフ以外、武器と呼べそうな物が何もない。そのナイフですら、勇男が髭を剃るのに使った際、あまり良いナイフではないと実感していた。
(やっぱりその王様、エーラが失敗するようにわざと仕向けたな)
いくら首一本に成り果てたとはいえ、ヒュドラの首を退治するのにこんな装備はありえない。素人でも死んでこいと言われているようなものだと判るレベルだった。
武器になるものといえば、勇男の剣ともう一つ、エーラが横に置いている棍棒だった。
さすがに丸腰では戦えないと思ったエーラが、旅に出た一日目にオリーブの木の丸太を見つけ、ナイフで削って作った唯一の得物だった。
一度ヒュドラの首と戦ったエーラの感触では、『いまいち効いてない』、らしい。
「う~ん……」
勇男は陽が昇る前から途方に暮れそうだった。
さてこれからヒュドラと一戦交えようというのに、まともな武器が二つしかない。勇男の持っている剣も、実際にどこまでの切れ味があるのか。
「ちなみにエーラはどうするつもりでいたんだ?」
「とりあえず棍棒で殴って死ぬようならそれでイイって思ってたけど、首なかなか硬かったからなぁ。しかもあと何発か殴ったら折れそう」
それを聞いて勇男は余計にげんなりした。
伝承ではヘラクレスはヒュドラ攻略の際、鉄の鎌で首を斬って断面を焼き、再生能力を封じた。そして最後の首は不死身だったので、大岩で押し潰して封印した、と聞いていた。
ところが今回挑むのは首だけで生きてるヒュドラであり、おそらく最後に残った不死身の首なのだろう。
(不死身のヤツを何とか殺せって? それこそヒュドラの血でもないと何ともなんねぇだろ! って、そもそもヒュドラにヒュドラの血が効くわけねぇし)
ヒュドラと状況とエウリュステス王の悪辣さに、勇男は八方を塞がれた気がしていた。
エーラの手助けを投げ出す気はないが、これでは自分が加わったところで、エーラはクエスト失敗になってしまうのではないだろうか。
そうなるとエーラはエウリュステス王にあれやこれやと弄ばれてしまうかもしれない。
勇男はエーラをちらっと見た。エーラも頭を捻っているが、未だ良い案は出てきてないようだ。
こういう時ヘラクレスなら、賢者ケイローンから教わった知識で何か打開策を思いつくかもしれないが、エーラはずっと奴隷だったらしいので、知識を教わったことはないだろう。
そもそもケイローンもとっくに死んでいる。
エーラは他に累が及ばなければ良いと言っていたが、ここで諦めて見送ってしまうのもやはり気の毒だ。
(どうしたもんかな~)
打倒ヒュドラの方法も煮詰まり、勇男は何の気なしに紐で括られた羊皮紙を手に取った。エウリュステス王が認めた王印入りのクエスト内容だった。
(せめて何か抜け道でもないのか?)
紐を解いて羊皮紙を広げ、そこに書かれている内容を読み始める勇男。泉の立て看板と同じく、見たことがなくても字の意味は理解できる。
(討伐クエスト……内容:ヒュドラの首を退治すること。期限:王室発行のクエスト依頼書を受けてより八日間。条件:配布されたアイテム以外の購入を認めない。期限はエーラが言ってた通り。あくまで購入はダメってことだから、あの棍棒はいいのか)
一応順に沿って内容を読み進めていくものの、やはりロクなクエストではないと改めて確認する以上のことはない。
(エーラもとんだ無理ゲーを吹っかけられたモンだ。え~と、クリア条件…………お?)
クリア条件が書かれた行まで来た勇男は、そこで気になる一文を見た。その意味について数秒思考を巡らせてから、エーラに問い質してみる。
「エーラ、ちょっと聞きたいことが」
(だ、大丈夫だ。何も直接戦わなきゃいけないってわけじゃねぇんだし。ただ出てくるのを待ってればいいだけなんだ。待ってれば……)
作戦は考えた。急ごしらえだが準備もできた。あとは獲物であるヒュドラの首が現れれば、作戦は決行できる。
だが、作戦の都合上、エーラが囮役になるわけにはいかない。
と、いうわけで勇男が自然と囮役になっているのだが、巨大な蛇に喰われかかった身としては、昨日今日で恐怖体験が拭えるはずもなく、勇男は非常に嫌な感じの緊張を強いられていた。
(うっ……さっき腹に入れた干し肉と水が出てきそう……ヒュドラさ~ん! 出てくるならもうすぐに出てきてくださ~い! 真正面でも真下からでもいいですから~! って、お?)
心の中で叫んでいた勇男は、不意に足の裏に小さな震動を感じた。地震というにはあまりにも局所的で、周り全体が揺れた様子もない。
そよ風も止んだ静かな荒野を見回していると、勇男の前方1メートルもない先の地面にびしりと亀裂が走った。
「!」
それを目にした時、勇男はなぜ亀裂が発生したかと考えるよりも速く、華麗な動きで後ろを振り返り、陸上アスリート走者なみの見事なフォームで走り出していた。
「出えぇたあああぁ!」
案の定、あと一瞬遅ければ、勇男は地面の下から急襲したヒュドラの首に喰われていた。
「うおおぉれりゃぎゃあああ!」
掛け声とも叫び声ともつなかい、とにかくいま出せる精一杯の声を絞り出しながら、勇男は全力疾走でヒュドラから距離を取る。
無論、ヒュドラもそれを黙って見ているつもりはない。獲物が逃げるならそれを追いたくなるのが生物の性。
切断されて短くなった首を器用に左右に振り、その巨体からは想像もできないスピードで勇男を追尾する。
「ぎょぎゅおおおお!」
振り返りたい気持ちを必死で押し止め、勇男は一直線にある場所を目指す。
ふと『いまならオリンピックで金メダル取れるかも』と思いかけたが、すぐ後ろに巨大な蛇が迫っている現状では、もう手足が千切れるつもりで走り通すしかない。
「げええあああぎゃあああ!」
ヒュドラが放つ野生動物特有の攻撃的な意思を背中に感じながら、勇男は蛇に睨まれた蛙の気分をヒシヒシと味わっていた。
しかし、止まるわけにはいかない。
あとちょっと、あとちょっとで、それに届くのだ。ここで立ち止まって命を失うわけにはいかない。
「っ!」
走った距離としては50メートルほどだったが、勇男は42.195キロを全力で走り抜けてきたような感覚だった。
ようやくそれが見え、ラストスパートの力を両脚にかける勇男。
「どおうっりゃあああ!」
最後はほとんど跳躍だった。
勇男は決死の思いでそれを取った。
先に小さな輪っかが作られた、ロープの端だった。
「今だ! エーラ!」
「おっしゃあああ!」
勇男の合図で、離れた場所に伏せていたエーラが立ち上がり、同じく先に輪が作られたロープを力の限り引っ張った。
「おわっ!」
輪っかを握っていた勇男は、エーラの怪力で引っ張られたロープとともに、魚の一本釣りよろしく空中に舞い上がった。
「おおっ!」
宙に引っ張り上げられた勇男は、エーラの力に驚きつつも、さっきまで自分がいた場所を見下ろした。
「よし! うまくいった!」
その見下ろす先では、勇男を追っていたヒュドラが、勢い余って泉に頭から飛び込む光景があった。
「エーラ、ちょっと聞きたいことが」
「何だ?」
「その王様、エーラに何をしてこいって言ったんだ?」
「何をって……」
エーラは少し遠い目をすると、思い起こした言葉を口にした。
「『英雄ヘラクレスの娘を名乗るのであれば、ヒュドラの首を見事持ち帰ってその証とせよ』、だったかな」
「そっか。じゃあ……」
それを聞いた勇男はもう一度羊皮紙の文面を確認した。
「……何だよ。何か分かったのか、イサオ?」
「このクエストのクリア条件、『ヒュドラの首を持ち帰ること』って書いてある」
「そりゃ当たり前だろ。ヒュドラを殺したなら、その証拠を持ち帰らないと殺したかどうか判らないわけだし」
「それだ」
エーラが言ったことに、勇男は人差し指を立てた。
「何もヒュドラを殺さなきゃいけないってわけじゃないんだ。『ヒュドラの首を持ち帰った』なら、クリア条件は達成されるんだ」
「『ヒュドラの首を退治すること』って書いてあるぞ、イサオ。それに討伐クエストは基本的に指定された対象を殺すのが普通だ」
「いや、『退治』も『討伐』も必ずしも殺すって意味にはならないんだ、エーラ。『無害な状態にする』ってことでも退治したって条件には当てはまる。そうなった首を持ち帰れば、クエストの条件はクリアできると思うぞ」
勇男の言い分に、エーラは少し考え込んだ後、真剣な顔で口を開いた。
「それで条件をクリアできるとしても、やっぱりヒュドラと戦うのは変わりないんじゃないか? 殺すにしても半殺しにするにしても」
「そりゃオレたちの持ち物でアレの相手をするとなると、半殺しでも充分難しい」
「だったら――――」
「だから、オレたちよりずっと大きなダメージを与えてくれそうな方に協力してもらおう」
「おおおわあああ!」
エーラに引いてもらったロープのおかげで、ヒュドラの一噛みみから逃れられたは良かったが、勇男はその後の着地のことまでは考えていなかった。
引っ張られた勢いと空中からの自由落下に従って、勇男は頭から荒野の大地にキスすることになってしまった。
「イサオ!」
さながら隕石のように地面に落ちた勇男の元に、エーラが急いで駆けつける。
「イサオ! 大丈夫か!」
「ぐ……うぅ……何とか……」
よろよろと右手を上げて、勇男は無事であることをアピールする。あくまで死ななかっただけだが。
「悪い。ちょっと強く引っ張り過ぎた」
勇男の両脇を抱えて、エーラが地面から引き剥がす。勇男の全身の型が跡になってくっきりついていた。
「ぐぉ……そ、それはいいとして……成功だ、エーラ」
「ああ。アイツおもいっきり飛び込んだぞ」
勇男とエーラはアルテミスの泉を見た。まだ水面にはヒュドラが飛び込んだ波紋が拡がっている。
二人が立てた作戦。それはヒュドラの首をアルテミスの泉へ落とすこと。
持っている武器だけでは、ヒュドラの首を殺すどころか、半殺しにすることも難しい。
だが、狩猟の女神アルテミスが放つ矢の一撃なら、たとえヒュドラでも只で済むとは考えにくい。
具体的にどこまでのダメージになるかは未知数でも、勇男とエーラが直接戦ってダメージを与えるよりは充分に期待できる。
加えてヒュドラの首は不死身ではあっても、再生能力までは持っていない。持っていれば、首の断面からまた身体を生やすこともしているはずだった。
アルテミスの矢で動くこともできない状態まで追い込んだなら、『退治』イコール『無害化』の条件に適う。
この仮定がどこまで正しいかはさておき、これが現状で二人が実行できる最良の作戦だった。
「あとはアルテミス様がヒュドラに怒って矢をブッ放してくれれば…………あれ?」
ヒュドラが飛び込んだ波紋はもう完全に消失し、泉はすっかり静かになったが、まだアルテミス怒りの一撃は降ってこない。
「……エーラ、もしかしてアルテミス様ってすぐにはお仕置きしないのか?」
「いや、前に命知らずの男があそこで水浴びしようとしたらしいけど、泉に入る前に空から矢が数十本降ってきて細切れ肉になったって……」
「それじゃあ……おかしいな……」
泉は不気味に思えるほどに静まり返っている。二人はともに嫌な予感を感じていた。
そして、その予感は的中した。
「キシャアアア!」
水面から盛大に水飛沫を上げて、ヒュドラの首が飛び出してきた。
「え!? ちょ!? 何でだああ!?」
ただ立っているわけではなく、表情も金剛力士よろしく厳しい面構えになっている。
単に荒野の真ん中に立っているのが、これほど緊張感に満ち満ちた経験など、勇男の人生の中ではないことだった。
それもそのはず、いま勇男はヒュドラの首を誘き寄せるための『囮』として立っているからだ。
エーラの話では、ヒュドラの首はかなり感覚が鋭く、昼の荒野に生き物が入ってくると、どんなに距離が離れていても察知して襲ってくるらしい。
なのでヒュドラが縄張りにしている荒野は、ほとんどの生き物がヒュドラを恐れて近寄らず、独壇場に成り果ててしまったそうだ。
というわけで、単純にヒュドラの首に遭遇しようと思えば、ただ突っ立っていれば向こうからすぐに遭いに来てくれるというわけである。
(『ここにいればすぐにヒュドラが遭えますよ~』ってか!? サファリパークのど真ん中に放り出された気分だぜ! 誰かせめて園内用の移動車もってきて~!)
心の中でそう叫ぶが、ヒュドラ退治を手伝うと約束した手前、動くわけにはいかない。
たとえ脚が震え、直射日光に晒されているのに汗が冷たくて、心臓が嫌に速く脈打って、時間の感覚が曖昧になって、ちょっとチビってしまいそうな気になったとしても、だ。
呼吸を乱れさせて荒野の先を見つめていた勇男は、今朝のことを思い返していた。
「これが王サマから渡された道具全部だ」
「は? え? これで……全部!?」
まだ荒野が朝陽に白んでくる少し前、勇男とエーラはヒュドラ退治の作戦を考えるため、それぞれが持っている道具を確認していた。
勇男は剣と衣類以外はほとんど持っていなかったので、主にエーラの道具を確認にすることになった。
わけではあるが、荷物袋から取り出され、並べられた道具に数々は、素人の勇男ですら悪い意味で驚かせた。
陶製の洗面器、革の水筒、鉄製のナイフ、手拭き布、10メートル弱のロープ、火打石、干し肉の塊、荒野と首都の往復分の路銀、クエスト内容が書かれた王印入りの羊皮紙、そして謎の小瓶。
「……武器は?」
「ない。『ヘラクレスの娘ならヒュドラの首程度これで充分だろ』ってさ。だからこれで全部」
勇男は改めて並べられた道具を見た。
鉄のナイフ以外、武器と呼べそうな物が何もない。そのナイフですら、勇男が髭を剃るのに使った際、あまり良いナイフではないと実感していた。
(やっぱりその王様、エーラが失敗するようにわざと仕向けたな)
いくら首一本に成り果てたとはいえ、ヒュドラの首を退治するのにこんな装備はありえない。素人でも死んでこいと言われているようなものだと判るレベルだった。
武器になるものといえば、勇男の剣ともう一つ、エーラが横に置いている棍棒だった。
さすがに丸腰では戦えないと思ったエーラが、旅に出た一日目にオリーブの木の丸太を見つけ、ナイフで削って作った唯一の得物だった。
一度ヒュドラの首と戦ったエーラの感触では、『いまいち効いてない』、らしい。
「う~ん……」
勇男は陽が昇る前から途方に暮れそうだった。
さてこれからヒュドラと一戦交えようというのに、まともな武器が二つしかない。勇男の持っている剣も、実際にどこまでの切れ味があるのか。
「ちなみにエーラはどうするつもりでいたんだ?」
「とりあえず棍棒で殴って死ぬようならそれでイイって思ってたけど、首なかなか硬かったからなぁ。しかもあと何発か殴ったら折れそう」
それを聞いて勇男は余計にげんなりした。
伝承ではヘラクレスはヒュドラ攻略の際、鉄の鎌で首を斬って断面を焼き、再生能力を封じた。そして最後の首は不死身だったので、大岩で押し潰して封印した、と聞いていた。
ところが今回挑むのは首だけで生きてるヒュドラであり、おそらく最後に残った不死身の首なのだろう。
(不死身のヤツを何とか殺せって? それこそヒュドラの血でもないと何ともなんねぇだろ! って、そもそもヒュドラにヒュドラの血が効くわけねぇし)
ヒュドラと状況とエウリュステス王の悪辣さに、勇男は八方を塞がれた気がしていた。
エーラの手助けを投げ出す気はないが、これでは自分が加わったところで、エーラはクエスト失敗になってしまうのではないだろうか。
そうなるとエーラはエウリュステス王にあれやこれやと弄ばれてしまうかもしれない。
勇男はエーラをちらっと見た。エーラも頭を捻っているが、未だ良い案は出てきてないようだ。
こういう時ヘラクレスなら、賢者ケイローンから教わった知識で何か打開策を思いつくかもしれないが、エーラはずっと奴隷だったらしいので、知識を教わったことはないだろう。
そもそもケイローンもとっくに死んでいる。
エーラは他に累が及ばなければ良いと言っていたが、ここで諦めて見送ってしまうのもやはり気の毒だ。
(どうしたもんかな~)
打倒ヒュドラの方法も煮詰まり、勇男は何の気なしに紐で括られた羊皮紙を手に取った。エウリュステス王が認めた王印入りのクエスト内容だった。
(せめて何か抜け道でもないのか?)
紐を解いて羊皮紙を広げ、そこに書かれている内容を読み始める勇男。泉の立て看板と同じく、見たことがなくても字の意味は理解できる。
(討伐クエスト……内容:ヒュドラの首を退治すること。期限:王室発行のクエスト依頼書を受けてより八日間。条件:配布されたアイテム以外の購入を認めない。期限はエーラが言ってた通り。あくまで購入はダメってことだから、あの棍棒はいいのか)
一応順に沿って内容を読み進めていくものの、やはりロクなクエストではないと改めて確認する以上のことはない。
(エーラもとんだ無理ゲーを吹っかけられたモンだ。え~と、クリア条件…………お?)
クリア条件が書かれた行まで来た勇男は、そこで気になる一文を見た。その意味について数秒思考を巡らせてから、エーラに問い質してみる。
「エーラ、ちょっと聞きたいことが」
(だ、大丈夫だ。何も直接戦わなきゃいけないってわけじゃねぇんだし。ただ出てくるのを待ってればいいだけなんだ。待ってれば……)
作戦は考えた。急ごしらえだが準備もできた。あとは獲物であるヒュドラの首が現れれば、作戦は決行できる。
だが、作戦の都合上、エーラが囮役になるわけにはいかない。
と、いうわけで勇男が自然と囮役になっているのだが、巨大な蛇に喰われかかった身としては、昨日今日で恐怖体験が拭えるはずもなく、勇男は非常に嫌な感じの緊張を強いられていた。
(うっ……さっき腹に入れた干し肉と水が出てきそう……ヒュドラさ~ん! 出てくるならもうすぐに出てきてくださ~い! 真正面でも真下からでもいいですから~! って、お?)
心の中で叫んでいた勇男は、不意に足の裏に小さな震動を感じた。地震というにはあまりにも局所的で、周り全体が揺れた様子もない。
そよ風も止んだ静かな荒野を見回していると、勇男の前方1メートルもない先の地面にびしりと亀裂が走った。
「!」
それを目にした時、勇男はなぜ亀裂が発生したかと考えるよりも速く、華麗な動きで後ろを振り返り、陸上アスリート走者なみの見事なフォームで走り出していた。
「出えぇたあああぁ!」
案の定、あと一瞬遅ければ、勇男は地面の下から急襲したヒュドラの首に喰われていた。
「うおおぉれりゃぎゃあああ!」
掛け声とも叫び声ともつなかい、とにかくいま出せる精一杯の声を絞り出しながら、勇男は全力疾走でヒュドラから距離を取る。
無論、ヒュドラもそれを黙って見ているつもりはない。獲物が逃げるならそれを追いたくなるのが生物の性。
切断されて短くなった首を器用に左右に振り、その巨体からは想像もできないスピードで勇男を追尾する。
「ぎょぎゅおおおお!」
振り返りたい気持ちを必死で押し止め、勇男は一直線にある場所を目指す。
ふと『いまならオリンピックで金メダル取れるかも』と思いかけたが、すぐ後ろに巨大な蛇が迫っている現状では、もう手足が千切れるつもりで走り通すしかない。
「げええあああぎゃあああ!」
ヒュドラが放つ野生動物特有の攻撃的な意思を背中に感じながら、勇男は蛇に睨まれた蛙の気分をヒシヒシと味わっていた。
しかし、止まるわけにはいかない。
あとちょっと、あとちょっとで、それに届くのだ。ここで立ち止まって命を失うわけにはいかない。
「っ!」
走った距離としては50メートルほどだったが、勇男は42.195キロを全力で走り抜けてきたような感覚だった。
ようやくそれが見え、ラストスパートの力を両脚にかける勇男。
「どおうっりゃあああ!」
最後はほとんど跳躍だった。
勇男は決死の思いでそれを取った。
先に小さな輪っかが作られた、ロープの端だった。
「今だ! エーラ!」
「おっしゃあああ!」
勇男の合図で、離れた場所に伏せていたエーラが立ち上がり、同じく先に輪が作られたロープを力の限り引っ張った。
「おわっ!」
輪っかを握っていた勇男は、エーラの怪力で引っ張られたロープとともに、魚の一本釣りよろしく空中に舞い上がった。
「おおっ!」
宙に引っ張り上げられた勇男は、エーラの力に驚きつつも、さっきまで自分がいた場所を見下ろした。
「よし! うまくいった!」
その見下ろす先では、勇男を追っていたヒュドラが、勢い余って泉に頭から飛び込む光景があった。
「エーラ、ちょっと聞きたいことが」
「何だ?」
「その王様、エーラに何をしてこいって言ったんだ?」
「何をって……」
エーラは少し遠い目をすると、思い起こした言葉を口にした。
「『英雄ヘラクレスの娘を名乗るのであれば、ヒュドラの首を見事持ち帰ってその証とせよ』、だったかな」
「そっか。じゃあ……」
それを聞いた勇男はもう一度羊皮紙の文面を確認した。
「……何だよ。何か分かったのか、イサオ?」
「このクエストのクリア条件、『ヒュドラの首を持ち帰ること』って書いてある」
「そりゃ当たり前だろ。ヒュドラを殺したなら、その証拠を持ち帰らないと殺したかどうか判らないわけだし」
「それだ」
エーラが言ったことに、勇男は人差し指を立てた。
「何もヒュドラを殺さなきゃいけないってわけじゃないんだ。『ヒュドラの首を持ち帰った』なら、クリア条件は達成されるんだ」
「『ヒュドラの首を退治すること』って書いてあるぞ、イサオ。それに討伐クエストは基本的に指定された対象を殺すのが普通だ」
「いや、『退治』も『討伐』も必ずしも殺すって意味にはならないんだ、エーラ。『無害な状態にする』ってことでも退治したって条件には当てはまる。そうなった首を持ち帰れば、クエストの条件はクリアできると思うぞ」
勇男の言い分に、エーラは少し考え込んだ後、真剣な顔で口を開いた。
「それで条件をクリアできるとしても、やっぱりヒュドラと戦うのは変わりないんじゃないか? 殺すにしても半殺しにするにしても」
「そりゃオレたちの持ち物でアレの相手をするとなると、半殺しでも充分難しい」
「だったら――――」
「だから、オレたちよりずっと大きなダメージを与えてくれそうな方に協力してもらおう」
「おおおわあああ!」
エーラに引いてもらったロープのおかげで、ヒュドラの一噛みみから逃れられたは良かったが、勇男はその後の着地のことまでは考えていなかった。
引っ張られた勢いと空中からの自由落下に従って、勇男は頭から荒野の大地にキスすることになってしまった。
「イサオ!」
さながら隕石のように地面に落ちた勇男の元に、エーラが急いで駆けつける。
「イサオ! 大丈夫か!」
「ぐ……うぅ……何とか……」
よろよろと右手を上げて、勇男は無事であることをアピールする。あくまで死ななかっただけだが。
「悪い。ちょっと強く引っ張り過ぎた」
勇男の両脇を抱えて、エーラが地面から引き剥がす。勇男の全身の型が跡になってくっきりついていた。
「ぐぉ……そ、それはいいとして……成功だ、エーラ」
「ああ。アイツおもいっきり飛び込んだぞ」
勇男とエーラはアルテミスの泉を見た。まだ水面にはヒュドラが飛び込んだ波紋が拡がっている。
二人が立てた作戦。それはヒュドラの首をアルテミスの泉へ落とすこと。
持っている武器だけでは、ヒュドラの首を殺すどころか、半殺しにすることも難しい。
だが、狩猟の女神アルテミスが放つ矢の一撃なら、たとえヒュドラでも只で済むとは考えにくい。
具体的にどこまでのダメージになるかは未知数でも、勇男とエーラが直接戦ってダメージを与えるよりは充分に期待できる。
加えてヒュドラの首は不死身ではあっても、再生能力までは持っていない。持っていれば、首の断面からまた身体を生やすこともしているはずだった。
アルテミスの矢で動くこともできない状態まで追い込んだなら、『退治』イコール『無害化』の条件に適う。
この仮定がどこまで正しいかはさておき、これが現状で二人が実行できる最良の作戦だった。
「あとはアルテミス様がヒュドラに怒って矢をブッ放してくれれば…………あれ?」
ヒュドラが飛び込んだ波紋はもう完全に消失し、泉はすっかり静かになったが、まだアルテミス怒りの一撃は降ってこない。
「……エーラ、もしかしてアルテミス様ってすぐにはお仕置きしないのか?」
「いや、前に命知らずの男があそこで水浴びしようとしたらしいけど、泉に入る前に空から矢が数十本降ってきて細切れ肉になったって……」
「それじゃあ……おかしいな……」
泉は不気味に思えるほどに静まり返っている。二人はともに嫌な予感を感じていた。
そして、その予感は的中した。
「キシャアアア!」
水面から盛大に水飛沫を上げて、ヒュドラの首が飛び出してきた。
「え!? ちょ!? 何でだああ!?」
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すると、出てくるのはただの言い掛かりに過ぎない言い分ばかり。
オリアナは何とか理解してもらおうとするものの、相手は聞く耳持たずで……?
最終的には「神のお告げよ!」とまで言われ、さすがのオリアナも反抗を決意!
「私を断罪するのが神のお告げですって?なら、本人を呼んでみましょうか」
さて、聖女オリアナを怒らせた彼らの末路は?
◆小説家になろう様でも掲載中◆
→短編形式で投稿したため、こちらなら一気に最後まで読めます
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