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竜の恩讐編

三年前にて…… その20

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 街灯と月と星の明かりだけが照らす中、ピオニーアは夜の街を身一つで駆け抜ける。
 播海家はるみけ別邸を脱出してからのルートもまた、繋鴎けいおうから教えられていた。
 大通りや人気ひとけの多い道ではなく、目立たずつ複数人では追跡が困難な経路を辿たどり、せいフランケンシュタイン大学病院を目指す。
 人一人ひとひとりがちょうど通れるほどの路地裏を進みながら、ピオニーアは厳しい顔で現状を口惜くちおしんでいた。
迂闊うかつでした。この十年間、赤の一族ジェラグからの干渉は一切なかったというのに。今になってこんな……)
 ピオニーア自身、決して想定していなかったわけではない。むしろ、ことが起こった時の対策を、繋鴎とともに何通りも用意していた。
 しかし、相手の方がその想定を上回ってきた。
 電光石火で追い詰めるつもりが、ことごとく裏をかかれ、あろうことか別邸を容易たやすく襲撃されてしまった。
 別邸から逃亡する際に、ピオニーアは目のはしで、血溜ちだまりに家政婦メイドたちを窓越しに見ていた。
 この十年、別邸でのピオニーアの暮らしを支え、日本での常識などを教授してくれた者たちだった。
 あくまで播海家の命令でつかわされていたとしても、ピオニーアにとっては家政婦メイドたちもまた恩人だった。
 それを自分の事情に巻き込んでしまったことを、ピオニーアは悔しさから歯噛はがみした。
(今は逃げるほかありません。しかしコチニール、この報いは必ず受けてもらいます)
 路地裏と物陰を利用して進みながら、ピオニーアは自身を狙う者への敵意を強めていた。
(ここを抜ければ―――着きました)
 住宅街のわずかな隙間すきまに作られた小道を通り抜けた先、聖フランケンシュタイン大学病院の裏手の壁に、ピオニーアはようやく到着した。
 そこにはたった一つしか鍵が作られていない小さな勝手口があり、その唯一の鍵をピオニーアが持たされていた。

「脱出した後は、この鍵で例の病院に駆け込んで、君の担当医に保護を求めろ。彼女が所属している組織には話をつけてある。よほどのヤツが攻めてこない限り大丈夫だ」

 繋鴎が用意していた脱出プラン通り、ピオニーアは病院の勝手口の扉を開けた。
 扉の先には見慣れた光景。古い金属製のベンチだけがぽつんと置かれた、入院棟の裏手。
 少し前に結城ゆうき媛寿えんじゅとそこで会ったはずが、ピオニーアはなぜかなつかしさをおぼていた。
(……また、会えるといいんですが。結城さん、媛寿ちゃん)
 その懐かしさをいだいたまま、ピオニーアは入院棟を横切ろうとした。
 が――――――――――、
「おっと、止まってもらいましょうか、ピオニーア姫」
 入院棟の陰から、待ち伏せていたと言わんばかりに、何者かが姿を現した。
「……なぜ、ここへ来ることが分かったのですか? コチニール」
 立ちふさがった細身の男に対し、ピオニーアは鋭い視線を向けた。
 縦縞たてじまの入った上質なスーツに、濃紫こむらさきのコートを羽織った姿が、月明かりによってあらわになる。
「この『右眼』のおかげですよ。これは人工的に造り出された魔眼のような物でしてね。万人に有効というわけではありませんが、他者を意のままに操れる。あなたのカルテを管理している看護師が効果対象で助かりました」
 コチニールと呼ばれた男は、顔の右半分に手をえながら破顔はがんした。
「罪のあかしとして差し出した右眼に、そんなものを埋め込んだというのですか」
「これも世界に再び赤の一族ジェラグの力を示すため。我輩わがはいの一挙手一投足は、全て赤の一族ジェラグのためなのですよ。今も、『あの時』も」
「そのために、その罪のために、『あの』は今も―――」
「ピオニーア姫」
 激情に駆られそうだったピオニーアを、コチニールは銃口を向けて制した。
「こちらに来ていただきましょう。あなたは、いえ、あなたの持つ力が、赤の一族ジェラグの栄光と畏敬を復活させるのです」
「……知られてしまっているのですね。こんな力一つで変わるような世界では、もはやないというのに」
「我輩らが……我輩がそのお力を有効に活用させていただく。世界は震撼することでしょう。赤の一族ジェラグの真の力を知り―――」
 言葉に熱がこもりかけたところ、コチニールの前に何かが落下した。
「……これは?」
(あっ!)
 足元に転がった物が何なのかわかからないコチニールとは別に、ピオニーアは『それ』に見覚みおぼえがあった。
 ある人物が何度となく窮地きゅうちを脱するのに使っていた『それ』は、導火線が尽きるとすぐさま煙を勢いよく噴出した。
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