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豪宴客船編
凶事 その3
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「う……ぐぁ……あああ……」
オスタケリオンが命じた一言を機に、クロランは両肩をかき抱いて震えだした。
「あア……アアアア!」
呻くようだった声は、次第に叫びへと変わった。それは苦痛による声にも、昂ぶりによる声にも聞こえる。
「アア!」
肩に食い込んでいたクロランの爪が、唐突に伸びた。ただ伸びただけではなく、色は漆黒に染まり、鎌のように鋭く反り返っている。
「アア! アアア!」
クロランは鋭い爪を持つ両手で顔を覆った。手で隠された顔の奥からは、骨が軋み、肉が拉げる音が聞こえてきた。
「ア……ア……」
覆っている手を押し退けるように、クロランの面貌は先鋭化していく。同時に全身の肌は、燃え立つ炎を思わせる赤い毛皮に変わっていた。
「グルルル……」
クロランは顔から手を離した。露になったその姿を前に、結城は声を上げることさえできなかった。
全身に纏った赤い毛皮。逆立った獣の耳と、頑強な牙を揃える突き出た口。月光をはね返す黒い刃の如き爪。
一目見れば、誰もが炎を身に付けた狼人間という印象を受ける。
だがもう一つ、目を見張る特徴があった。
赤い毛皮が現れるに合わせて形成された、長い尾。
犬科動物には似つかわしくない、身の丈にも迫る長さを持っている。
ただ、尾の先には、なぜか見慣れたものが、人間の手が埋もれるように生えていた。
「……………………あ」
クロランが変身する様も、クロランが変身した姿も、結城にとっては衝撃が強すぎた。
ようやく搾り出した声でさえ、何を言おうとしているのか、結城自身も分からない。
何を言えばいいのかさえ判断できない状態で、結城はどうにかクロランの名前だけでも口にしようとした。
「ク―――」
たった一言、名前を呼ぶ間もなく、結城の二の腕には四本の筋が入った。
「――――――え?」
かろうじて結城が感じ取れたのは、横を吹き抜けていった一陣の風だけだった。あとには爪を振り切ったクロランが、結城の背後に立っていた。
「あっ! ぐああっ!」
結城の左腕から血が噴出する。クロランの鋭利な爪は、結城の腕の筋肉をいとも簡単に切り裂いてしまった。
「あぐっ! うぅ!」
腕の傷を押さえながら、その場に膝をつく結城。幸い骨までは切断されていなかった。
「う……ぐ……クロラン……」
痛みに震えつつも、結城は後ろを振り返った。赤い獣と化したクロランは、冷徹な狩人の目で結城を見下ろしている。
これまでも敵意や殺意を向けてくる相手に、結城は何度となく会ってきた。
だが、いまのクロランの目には敵意も殺意もない。それどころか温度のようなものが感じられない。
眼前の敵を殺戮する機械と変わらない、光を失った眼を持っていた。
「ふむ、腕を切り落とせると思っていたのだが、まだ感度が足りんか」
クロランが結城に加えた攻撃が不満だったのか、オスタケリオンは端末の画面をタッチし、表れたゲージを操作して数値を上げた。
それと同じくして、クロランの身体がビクリと震えた。
「F‐06、その男の右脚を切り落とせ」
無情に命令を下すオスタケリオン。クロランは即座に体勢を低くした。
「クロラン、やめ―――」
結城が制止するよりも速く、クロランはまた疾風のように結城の横を駆け抜けていた。
「ぐあああ!」
今度は結城の右腿が出血した。脚を傷付けられたために、結城は片脚の力を失って横倒しになる。
しかし、またも切断には至っていなかった。
「標準値を超えてなお命令の遂行に難があるか。やはり近しい者が相手であるほど、ノイズが強く出るようだ」
「!? 何を……言って……」
冷静な分析を口にするオスタケリオンを、結城は睨むような目で見上げた。
「これまでにテストでは、ソレは面識のない相手なら躊躇なく解体できていた。あとは面識のある近しい者であっても殺傷できるなら、兵器として申し分ない。最終テストのための実験体がなくなってしまって、私も困っていたのだよ」
オスタケリオンの言い方は、まるでクロランを道具扱いしていると結城には聞こえていた。そこに感じたのは、船内で行われていたオークションでの感覚を何倍にも大きくしたような、非常に心地の悪いものだった。
そしてオスタケリオンの言わんとしていることは、腕と脚に負った傷の痛みよりもおぞましい感覚となって結城を蝕んだ。
「ソレが唯一の成功例で、他に遺伝的に近似した素体は全て失敗してしまってね」
「っ!?」
結城も専門知識に対する造詣が深いわけではない。だがオスタケリオンが言ったことは、言葉の前後から理解できてしまった。
つまりは、クロランの血縁者たちは何らかの実験台にされ、もうこの世にいないということ。そして、それを成したのが、目の前にいるオスタケリオンなのだということ。
「う……ぐが……あああ!」
結城は脚の負傷も構わず立ち上がろうとする。傷からの出血はますますひどくなるが、それを凌駕するほどに、結城は怒り心頭の状態にあった。
クイーン・アグリッピーナ号というこの世の腐蝕を集めたような船を作っただけではない。クロランの心を傷付け、あまつさえ家族までも無残に奪った張本人。
オスタケリオンという男に、結城は久方ぶりに本気の怒りをあらわにしていた。
「ぐああ―――がっ!?」
足を引きずりながらオスタケリオンに殴りかかろうとした結城の側頭部に、クロランの回し蹴りが叩き込まれた。
クロランの攻撃に対して無防備だったために、結城はプールサイドを勢いのまま転がって止まった。
「ぐ……うぅ……」
軽い脳震盪で視界が回転する結城。幸い首は折れていなかった。
「私も失念していたな。君にも戦ってもらわなければ条件が成立しない」
特に思い出したような素振りもなく、オスタケリオンは懐から短剣を一本取り出し、それを結城の前に放ってよこした。まだ脳震盪から回復していない結城の眼前に、乾いた金属音を立てて短剣が落ちる。
「それを使いたまえ。まずまずの威力を持っている。心臓を的確に刺せば、アレを停止させることも可能だろう」
オスタケリオンの冷たい視線は、短剣からクロランへと移された。
愉しんでいるようでも、嘲っているようでもない、ただ機械のように状況を見る目が、結城に戦いを静かに強要していた。
脳震盪はもう少しで治まりそうだが、結城はまだクロランとの戦いを受け入れきっていない。
クロランの持つ悲しい背景を思えば、たとえ自身の命がかかっているとしても、目の前に落ちている短剣を拾う気になれない。
家族を奪われ、実験台として扱われ、その果てに命まで失ったとなれば、クロランの今世はあまりにも悲惨な末路を迎えることになってしまう。
結城の記憶にあるいたいけな少女と、視界に入る赤い狼人間が重なる。
(できない!)
自身の命運と、クロランの命運。結城は死の床に臥してさえ、クロランの命運を切り捨てることはできなかった。
「立ちたまえ。立たないというのであれば」
結城の心情を見透かしたのか、オスタケリオンは飛び込み台の上にいる覚獲に目線で指示を出した。
覚獲が邪な笑みを浮かべると、ポケットからバタフライナイフを出し、刃を展開した。
そして媛寿の着物の右袖を掴み、肩口に切れ目を入れ、乱雑に袖を引き裂いて掲げた。
「っ!?」
覚獲の行動に気付いた結城が、慌てて首を持ち上げた。
それを見た覚獲はさらに表情を歪ませ、持っていた袖を下のプール目がけて投げ捨てた。
ひらひらと落ちていった袖は、水面にわずかに触れると、波紋の発生を察知した屍狂魚が一斉に食いつき、千切り、細かく小さくしていった後に消滅した。
「君が戦いを拒否するなら、それも良かろう。次はあの座敷童子がプールに落ちるだけだ」
波一つ立たなくなったプールの水面を見つめながら、オスタケリオンは落ち着いた口調で言う。
結城は震える眼で、飛び込み台の媛寿と、プールサイドのクロランを交互に見た。負傷と出血のせいか、はたまた恐慌のせいか、ガチガチと歯を微細に打ち鳴らす。
やがて結城は身体を起こし、膝立ちになると、ゆっくりと短剣に右手を伸ばした。
オスタケリオンが命じた一言を機に、クロランは両肩をかき抱いて震えだした。
「あア……アアアア!」
呻くようだった声は、次第に叫びへと変わった。それは苦痛による声にも、昂ぶりによる声にも聞こえる。
「アア!」
肩に食い込んでいたクロランの爪が、唐突に伸びた。ただ伸びただけではなく、色は漆黒に染まり、鎌のように鋭く反り返っている。
「アア! アアア!」
クロランは鋭い爪を持つ両手で顔を覆った。手で隠された顔の奥からは、骨が軋み、肉が拉げる音が聞こえてきた。
「ア……ア……」
覆っている手を押し退けるように、クロランの面貌は先鋭化していく。同時に全身の肌は、燃え立つ炎を思わせる赤い毛皮に変わっていた。
「グルルル……」
クロランは顔から手を離した。露になったその姿を前に、結城は声を上げることさえできなかった。
全身に纏った赤い毛皮。逆立った獣の耳と、頑強な牙を揃える突き出た口。月光をはね返す黒い刃の如き爪。
一目見れば、誰もが炎を身に付けた狼人間という印象を受ける。
だがもう一つ、目を見張る特徴があった。
赤い毛皮が現れるに合わせて形成された、長い尾。
犬科動物には似つかわしくない、身の丈にも迫る長さを持っている。
ただ、尾の先には、なぜか見慣れたものが、人間の手が埋もれるように生えていた。
「……………………あ」
クロランが変身する様も、クロランが変身した姿も、結城にとっては衝撃が強すぎた。
ようやく搾り出した声でさえ、何を言おうとしているのか、結城自身も分からない。
何を言えばいいのかさえ判断できない状態で、結城はどうにかクロランの名前だけでも口にしようとした。
「ク―――」
たった一言、名前を呼ぶ間もなく、結城の二の腕には四本の筋が入った。
「――――――え?」
かろうじて結城が感じ取れたのは、横を吹き抜けていった一陣の風だけだった。あとには爪を振り切ったクロランが、結城の背後に立っていた。
「あっ! ぐああっ!」
結城の左腕から血が噴出する。クロランの鋭利な爪は、結城の腕の筋肉をいとも簡単に切り裂いてしまった。
「あぐっ! うぅ!」
腕の傷を押さえながら、その場に膝をつく結城。幸い骨までは切断されていなかった。
「う……ぐ……クロラン……」
痛みに震えつつも、結城は後ろを振り返った。赤い獣と化したクロランは、冷徹な狩人の目で結城を見下ろしている。
これまでも敵意や殺意を向けてくる相手に、結城は何度となく会ってきた。
だが、いまのクロランの目には敵意も殺意もない。それどころか温度のようなものが感じられない。
眼前の敵を殺戮する機械と変わらない、光を失った眼を持っていた。
「ふむ、腕を切り落とせると思っていたのだが、まだ感度が足りんか」
クロランが結城に加えた攻撃が不満だったのか、オスタケリオンは端末の画面をタッチし、表れたゲージを操作して数値を上げた。
それと同じくして、クロランの身体がビクリと震えた。
「F‐06、その男の右脚を切り落とせ」
無情に命令を下すオスタケリオン。クロランは即座に体勢を低くした。
「クロラン、やめ―――」
結城が制止するよりも速く、クロランはまた疾風のように結城の横を駆け抜けていた。
「ぐあああ!」
今度は結城の右腿が出血した。脚を傷付けられたために、結城は片脚の力を失って横倒しになる。
しかし、またも切断には至っていなかった。
「標準値を超えてなお命令の遂行に難があるか。やはり近しい者が相手であるほど、ノイズが強く出るようだ」
「!? 何を……言って……」
冷静な分析を口にするオスタケリオンを、結城は睨むような目で見上げた。
「これまでにテストでは、ソレは面識のない相手なら躊躇なく解体できていた。あとは面識のある近しい者であっても殺傷できるなら、兵器として申し分ない。最終テストのための実験体がなくなってしまって、私も困っていたのだよ」
オスタケリオンの言い方は、まるでクロランを道具扱いしていると結城には聞こえていた。そこに感じたのは、船内で行われていたオークションでの感覚を何倍にも大きくしたような、非常に心地の悪いものだった。
そしてオスタケリオンの言わんとしていることは、腕と脚に負った傷の痛みよりもおぞましい感覚となって結城を蝕んだ。
「ソレが唯一の成功例で、他に遺伝的に近似した素体は全て失敗してしまってね」
「っ!?」
結城も専門知識に対する造詣が深いわけではない。だがオスタケリオンが言ったことは、言葉の前後から理解できてしまった。
つまりは、クロランの血縁者たちは何らかの実験台にされ、もうこの世にいないということ。そして、それを成したのが、目の前にいるオスタケリオンなのだということ。
「う……ぐが……あああ!」
結城は脚の負傷も構わず立ち上がろうとする。傷からの出血はますますひどくなるが、それを凌駕するほどに、結城は怒り心頭の状態にあった。
クイーン・アグリッピーナ号というこの世の腐蝕を集めたような船を作っただけではない。クロランの心を傷付け、あまつさえ家族までも無残に奪った張本人。
オスタケリオンという男に、結城は久方ぶりに本気の怒りをあらわにしていた。
「ぐああ―――がっ!?」
足を引きずりながらオスタケリオンに殴りかかろうとした結城の側頭部に、クロランの回し蹴りが叩き込まれた。
クロランの攻撃に対して無防備だったために、結城はプールサイドを勢いのまま転がって止まった。
「ぐ……うぅ……」
軽い脳震盪で視界が回転する結城。幸い首は折れていなかった。
「私も失念していたな。君にも戦ってもらわなければ条件が成立しない」
特に思い出したような素振りもなく、オスタケリオンは懐から短剣を一本取り出し、それを結城の前に放ってよこした。まだ脳震盪から回復していない結城の眼前に、乾いた金属音を立てて短剣が落ちる。
「それを使いたまえ。まずまずの威力を持っている。心臓を的確に刺せば、アレを停止させることも可能だろう」
オスタケリオンの冷たい視線は、短剣からクロランへと移された。
愉しんでいるようでも、嘲っているようでもない、ただ機械のように状況を見る目が、結城に戦いを静かに強要していた。
脳震盪はもう少しで治まりそうだが、結城はまだクロランとの戦いを受け入れきっていない。
クロランの持つ悲しい背景を思えば、たとえ自身の命がかかっているとしても、目の前に落ちている短剣を拾う気になれない。
家族を奪われ、実験台として扱われ、その果てに命まで失ったとなれば、クロランの今世はあまりにも悲惨な末路を迎えることになってしまう。
結城の記憶にあるいたいけな少女と、視界に入る赤い狼人間が重なる。
(できない!)
自身の命運と、クロランの命運。結城は死の床に臥してさえ、クロランの命運を切り捨てることはできなかった。
「立ちたまえ。立たないというのであれば」
結城の心情を見透かしたのか、オスタケリオンは飛び込み台の上にいる覚獲に目線で指示を出した。
覚獲が邪な笑みを浮かべると、ポケットからバタフライナイフを出し、刃を展開した。
そして媛寿の着物の右袖を掴み、肩口に切れ目を入れ、乱雑に袖を引き裂いて掲げた。
「っ!?」
覚獲の行動に気付いた結城が、慌てて首を持ち上げた。
それを見た覚獲はさらに表情を歪ませ、持っていた袖を下のプール目がけて投げ捨てた。
ひらひらと落ちていった袖は、水面にわずかに触れると、波紋の発生を察知した屍狂魚が一斉に食いつき、千切り、細かく小さくしていった後に消滅した。
「君が戦いを拒否するなら、それも良かろう。次はあの座敷童子がプールに落ちるだけだ」
波一つ立たなくなったプールの水面を見つめながら、オスタケリオンは落ち着いた口調で言う。
結城は震える眼で、飛び込み台の媛寿と、プールサイドのクロランを交互に見た。負傷と出血のせいか、はたまた恐慌のせいか、ガチガチと歯を微細に打ち鳴らす。
やがて結城は身体を起こし、膝立ちになると、ゆっくりと短剣に右手を伸ばした。
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