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豪宴客船編
超級異種格闘大会・開幕その3
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「これは私もご相伴に与らせていただくのが楽しみになってまいりました! おっと失礼いたしました! では双方! 開始位置へ!」
野摩の声を合図に、リング上に別のスポットライトが二つ当たり、開始位置を示した。
アテナもグロースも同時に歩き出し、闘いの舞台となるリングへ近付いていく。
「クックック、あなたは何戦目に賭けましたか? 私はもちろん一回戦で敗退に。彼女も相当な腕前かもしれませんが、所詮はグロースには敵いますまい。愉しみですな~。思いっきりしゃぶらせてやりましょうか。それともこちらが隅々までしゃぶってやりましょうか。あなたはいかがです?」
「……」
話がくどい上に下劣な会苦巣を、結城はいいかげん疎ましく思っていた。いや、話の内容以上に、会苦巣がアテナに対して薄汚い欲望を向けているのが、頭にきて仕方がなかった。
なので会苦巣の言葉に対する意趣返しとして言い放った。
「ミネルヴァ・カピトリーノは僕の従者です」
開始位置、リングの中央を挟んで2メートルずつ離れたところで、アテナとグロースは向かい合った。
アテナは至って平然としているが、グロースの方は熱気のこもった呼吸を繰り返しながら、肩を忙しなく上下させていた。
「グフェフェフェ、こいつはツイてるなぁ。こんなイイ女に当たるなんてよぉ」
グロースは吐息とともに不快な濁声で喋るが、アテナはそれに答えることはなく、平静そのものだった。
「グフェ、知ってっか? 『特別出場』のヤツと闘ってよぉ、勝ったら後は好きにしてイイって話だぜぇ。グフェフェ、つまりよぉ、お前ぇはここでオレにヤられてヒィヒィ言わされることになるってわけだぁ、グフェ」
アテナの体を舐めるように視ながら、グロースはさらに興奮を募らせた。しかし、アテナは涼しい表情を崩さない。
「グフェフェ、オレに当たって正解だったなぁ。オレはイチモツも自慢でなぁ、グフェ」
グロースは下卑た笑いを浮かべながら、腰に巻いた布を取り、リングの端へと放り投げた。
「グフェフェフェ、すぐにコイツをブチ込んでやるからなぁ。イイ声で啼けよぉ。天国見せてやるぜぇ、グフェ」
臨戦態勢の局部を晒しながら、にじり寄るように構えを取るグロース。すでに試合に勝った気でいるらしい。
対するアテナは局部を晒す巨漢を前に、何ら恐れている様子がない。先程からのグロースの言葉に、眉一つさえ動かしていない。
より正確に言えば、アテナの目と表情は、氷のように冷え切っていた。
「ほっほ~、あなたが所有者でしたか。これはちょうどいい。ならこの場で直接値段交渉させていただいても? そうですね……1億8000万でいかがですか?」
「……」
結城をアテナの所有者と知るや否や、会苦巣は身を乗り出して取引金額を提示してきた。が、結城はその提示に何も答えない。
「ふ~む、まだ足りませんか? では2億5000万では?」
「……」
「3億7000万」
「……」
「分かりました。5億、5億出しましょう。どうですか? これなら充分すぎるほどに釣り合いが―――」
「あの方が……」
熱が入って値段を吊り上げ続ける会苦巣にうんざりし、結城は重たげに口を開いた。
「そんな安い金額で吊りあうわけないでしょう」
「グフェフェ、安心しろよぉ。痛い目になんか遭わせねぇからなぁ。始まったらすぐに押し倒してブチ込んでやるぜぇ、グフェ」
涎をダラダラと垂らしながら喋り続けるグロースに、なおもアテナは凍りついた視線と表情を崩さない。
だがそこで、開始位置に着いてからほぼ微動だにしなかったアテナは、結城たちがいるであろうVIP席に顔を向けた。
席に座っている結城と目が合うと、アテナはニッコリと満面の笑みを送った。
「うっ!」
リング上のアテナから満面の笑みを向けられた結城は、むしろ凶悪な戦慄を覚えた。
「え、媛寿、クロラン。ちょっとだけ目を閉じていよう」
「なになに?」
「? ?」
両隣に座る媛寿とクロランの顔に手を回し、そっと目元を隠す結城。
すぐ横の席では会苦巣が『まぁいいでしょう。どのみちあの女の体は後で愉しめるわけですからな』などと言っているが、結城にはそれを聞いている余裕はない。
アテナが最高の微笑みを送ってきた意図を、結城は否応にも理解できてしまった。
『少しの間、目を閉じていなさい』と、そう言っているのだ。
結城には分かったのだ。今のアテナは激怒しているどころか、ブチ切れている状態にあると。
「さぁ! それでは待望の第一回戦を開始させていただこうと思います! 現在、第一回戦の賭け率は37%! おや? ちょっとお待ち下さい。何と特別出場枠にお賭けになっている方がいらっしゃいます! 3%! 3%のみ! これは驚き! そしてご愁傷様です! さすがに分が悪すぎますよ!」
野摩の台詞回しに、会場中からどっと笑いがこみ上げる。そこに混じっていないのは、アテナと結城たちだけだった。
「っと、笑いを取るのはここまでにして! 試合開始です! 両者! よろしいですね! レディー……ファイッ!」
野摩が腕を大きく振りぬき、試合開始を宣言した。
「グフェフェフェ! ソッコーでひん剥いてまな板ショーの始ま―――」
それは試合開始が宣言されてから、20秒も経っていないはずだった。熱気と歓声が飽和するほどだった会場は、水を打ったように静まり返っていた。
観客の誰も彼もが、審判の野摩も含めて、目の前で起こったことに対して理解が追いついていなかった。ただただ、目を丸くするばかりだった。
リング上には、涼しい顔をしたアテナが右腕をかざして立っている。一切の傷を負うことなく。一糸乱れることもなく。
そしてかざした右腕の先は、首を締め上げられたグロースが持ち上げられている。そのグロースはといえば、無数の岩石を一身に浴びたかのように、全身に打撲痕を負っていた。余すことなく。ほとんど隙間なく。
「グファ……ア……」
完全に脱力してアテナに支えられている状態ではあったが、グロースはかろうじて生きていた。もっとも、自身に何が起きたのか分からず、試合の続行はもはや不可能になってしまっているが。
「安心なさい、グロース某。下衆の命など、私には取るに足りません」
「な……な……な?」
グロースの勝利を確信していた会苦巣もまた、他の観客と同様、リング上で起こったことが信じられず、顎が外れるほどに口を開けて驚いていた。
「ん~?」
周囲の反応で決着がついたと思った結城は、そっと閉じていた目を開けた。
(うわっ、考えてたよりヒドいことになってる……)
結城としては、グロースは渾身の一撃で場外まで弾き飛ばされるのではないかと想定していたが、アテナの怒りのボルテージは予想以上に振り切っていたらしい。一撃などと生温いものではなく、まさにボコボコの虫の息にされていた。
「おぉ~、すごい。『ほくとうひゃくめつけん』」
「ちょっ!? ちょっと媛寿!?」
媛寿はいつの間にか、目を塞いでいた結城の手の指に隙間を作り、試合を観戦していたようだ。言葉から察するに、どうやら『北闘の拳』の『北闘百滅拳』が決まったらしい。
(あんなことになるくらいなら、一撃で負けてた方がどんなに楽だったか……)
結城は技の恐怖に身震いしながら、ボコボコにされながらもまだ気絶さえできないグロースに、心の底から同情した。
「審判」
「へ?」
グロースを吊るし上げていたアテナは、唐突に野摩に顔を向けた。当の野摩もぽかんと呆けていたが、呼ばれたことでようやく我に返った。
「この試合の結果は?」
「え、あ~、え~と、あ~」
「この者が試合を続けられるか否かを答えなさい」
「ひっ! は、はひっ! あ、あ~、グ、グロース・アクストは試合続行が不可能となりましたので……しょ、勝者! ミネルヴァ・カピトリーノ!」
野摩が試合結果を告げるも、観客たちはまだそれを信じられず、会場はしんと静まり返っている。
「ということです、 グロース某……その粗末なモノを早く引き下げなさいっ!」
アテナはグロースの首を掴んだまま、一回転して勢いをつけ、観客席の向こうまでボールのように投げ飛ばした。
「はっ!」
その時、媛寿は直感した。さながら、宇宙空間で宿敵の存在を感じ取ったパイロットのように。
「くろらん、ちょっとごめん!」
「っ!?」
媛寿は慌てて結城の脚の間に置いていたポップコーンの容器を取ると、中身を一気に口の中に流し込んだ。
そしてちょうどその頃、アテナに投げ飛ばされたボコボコのグロースが、観客席を飛び越え、VIP専用のボックス席に迫り来るところだった。その延長線上には、まるで図ったように会苦巣の座る席があった。
「あああああっ!」
リング上から投げ放たれたグロースに対し、会苦巣は叫ぶことしかできず、あえなくグロースの巨体が命中した。
VIP専用席を貫通したグロースは、勢いそのままにセントラルパークの端まで飛ばされていった。
ちなみにボックス席の3分の1は綺麗に切り取られてしまったが、結城たちにはほんの少しの塵が当たった程度で、被害は一切なかった。
「ふぅ、ぽっぷこーんたべといてよかった」
そう言いながら、媛寿はポップコーンの入っていた容器をソファのすぐ横の床に置いた。こうなることを見越して、ポップコーンに塵が付く前に食べ終えておいたのだ。
「くろらん、ぽっぷこーんのおかわり、いる?」
媛寿は呑気に次のポップコーンを頼もうとしているが、クロランは試合結果も、ボックス席が削り取られたことも、どちらも衝撃的すぎたらしい。目を丸くしながら、媛寿にこくりと頷き返すだけだった。
そして当の結城は、
「……、……」
吹き抜けになってしまったボックス席の空間――会苦巣が座っていた場所――に一度首を向け、また正面へとゆっくり首を戻すと、
(サインする前に、あの書類のことちゃんと聞いておけばよかったかも……)
悟ったような気持ちで、心の底からそう思った。
そして会苦巣は、
「……た……た~すけてぇ~……」
グロースの巨体と瓦礫の下敷きになりながら、助けを求めて力なく手を振るだけだった。
「ふぅ、この場に神鎌があれば即刻去勢しているところですが、そこまでは見逃してさしあげましょう」
グロースをセントラルパークの端に投げ飛ばしたアテナは、スッキリしたように両掌を叩いて埃をはらった。
「審判」
「へ? え!?」
アテナは野摩を手招きして呼んだが、野摩は自分が呼ばれていると分かると、急にそわそわしだして右往左往した。
「こちらに」
「は、はいっ!」
アテナの透き通った、しかし寒気を感じる冷たさも併せた声に当てられ、野摩は観念してアテナの元に歩いていった。
「え、え~と、何でしょ―――ぎひいいぃ!」
アテナの前まで行って何事かを訊ねようとした野摩だったが、いきなり頭を掴まれて持ち上げられたため、恐怖で悲鳴を上げてしまった。
「あの対戦表のことですが」
野摩を持ち上げて目線を合わせたアテナは、液晶モニターに映し出されている対戦表を親指で示した。
「あ、ああ、あれはですね、う、上の意向で、きき、決められたことでして、けけけ、決してわわわ、私が決めたわけでわわわ」
対戦表の理不尽さに文句を言われるものだと思い、野摩は震えながら必死に弁明しようとする。すでにズボンの内股はぐっしょりと湿っていた。
「私が全員と闘うように変えなさい」
「へ?」
アテナが提案したのは、野摩が考えていたこととは全く真逆のものだった。アテナは大会参加者全員と闘わせろと言ってきているのだ。
「できますね?」
「あ、あ~、それは~、その~」
「できますね?」
「あいぎゃぎゃぎゃ! わ、分かった! 分かりましたから~! あだ! あだ! 頭だけは~!」
頭蓋骨では抗いきれない握力を体感し、野摩は矢も盾もたまらず承諾した。
「よろしい」
野摩の返事を聞くと、アテナは掴んでいた野摩の頭をあっさりと解放した。着地を意識する余裕もなかったので、野摩はコンクリートのリングに手ひどい尻餅をつくことになってしまった。
「では引き続き進行をお願いします」
野摩への用が済むと、アテナはまた元の開始位置に戻っていった。
その背中を見つめる野摩は、
(こ、こんな変更を勝手にしちゃって……オ、オレ、『あの方』に殺されちゃうんじゃないの!?)
この場で頭蓋骨を粉砕されるよりはマシだったとはいえ、対戦表の変更を了承してしまったことを、今さらながらに激しく後悔していた。
「あっ、それからもう一つ」
「ひいっ! ま、まだ何か!?」
開始位置に戻る途中でアテナが振り返ったので、野摩は反射的に肩をびくりと跳ねさせた。
「『大会参加者はルームサービスのメニューを頼み放題』でしたね?」
「は……はい。そ、その通りですが……」
「チーズケーキと赤ワインをお願いします」
それだけ言うと、アテナは再び開始位置に着いた。
そして野摩はといえば、半泣きで座り込んだまま、今度は水溜りを作っていた。
野摩の声を合図に、リング上に別のスポットライトが二つ当たり、開始位置を示した。
アテナもグロースも同時に歩き出し、闘いの舞台となるリングへ近付いていく。
「クックック、あなたは何戦目に賭けましたか? 私はもちろん一回戦で敗退に。彼女も相当な腕前かもしれませんが、所詮はグロースには敵いますまい。愉しみですな~。思いっきりしゃぶらせてやりましょうか。それともこちらが隅々までしゃぶってやりましょうか。あなたはいかがです?」
「……」
話がくどい上に下劣な会苦巣を、結城はいいかげん疎ましく思っていた。いや、話の内容以上に、会苦巣がアテナに対して薄汚い欲望を向けているのが、頭にきて仕方がなかった。
なので会苦巣の言葉に対する意趣返しとして言い放った。
「ミネルヴァ・カピトリーノは僕の従者です」
開始位置、リングの中央を挟んで2メートルずつ離れたところで、アテナとグロースは向かい合った。
アテナは至って平然としているが、グロースの方は熱気のこもった呼吸を繰り返しながら、肩を忙しなく上下させていた。
「グフェフェフェ、こいつはツイてるなぁ。こんなイイ女に当たるなんてよぉ」
グロースは吐息とともに不快な濁声で喋るが、アテナはそれに答えることはなく、平静そのものだった。
「グフェ、知ってっか? 『特別出場』のヤツと闘ってよぉ、勝ったら後は好きにしてイイって話だぜぇ。グフェフェ、つまりよぉ、お前ぇはここでオレにヤられてヒィヒィ言わされることになるってわけだぁ、グフェ」
アテナの体を舐めるように視ながら、グロースはさらに興奮を募らせた。しかし、アテナは涼しい表情を崩さない。
「グフェフェ、オレに当たって正解だったなぁ。オレはイチモツも自慢でなぁ、グフェ」
グロースは下卑た笑いを浮かべながら、腰に巻いた布を取り、リングの端へと放り投げた。
「グフェフェフェ、すぐにコイツをブチ込んでやるからなぁ。イイ声で啼けよぉ。天国見せてやるぜぇ、グフェ」
臨戦態勢の局部を晒しながら、にじり寄るように構えを取るグロース。すでに試合に勝った気でいるらしい。
対するアテナは局部を晒す巨漢を前に、何ら恐れている様子がない。先程からのグロースの言葉に、眉一つさえ動かしていない。
より正確に言えば、アテナの目と表情は、氷のように冷え切っていた。
「ほっほ~、あなたが所有者でしたか。これはちょうどいい。ならこの場で直接値段交渉させていただいても? そうですね……1億8000万でいかがですか?」
「……」
結城をアテナの所有者と知るや否や、会苦巣は身を乗り出して取引金額を提示してきた。が、結城はその提示に何も答えない。
「ふ~む、まだ足りませんか? では2億5000万では?」
「……」
「3億7000万」
「……」
「分かりました。5億、5億出しましょう。どうですか? これなら充分すぎるほどに釣り合いが―――」
「あの方が……」
熱が入って値段を吊り上げ続ける会苦巣にうんざりし、結城は重たげに口を開いた。
「そんな安い金額で吊りあうわけないでしょう」
「グフェフェ、安心しろよぉ。痛い目になんか遭わせねぇからなぁ。始まったらすぐに押し倒してブチ込んでやるぜぇ、グフェ」
涎をダラダラと垂らしながら喋り続けるグロースに、なおもアテナは凍りついた視線と表情を崩さない。
だがそこで、開始位置に着いてからほぼ微動だにしなかったアテナは、結城たちがいるであろうVIP席に顔を向けた。
席に座っている結城と目が合うと、アテナはニッコリと満面の笑みを送った。
「うっ!」
リング上のアテナから満面の笑みを向けられた結城は、むしろ凶悪な戦慄を覚えた。
「え、媛寿、クロラン。ちょっとだけ目を閉じていよう」
「なになに?」
「? ?」
両隣に座る媛寿とクロランの顔に手を回し、そっと目元を隠す結城。
すぐ横の席では会苦巣が『まぁいいでしょう。どのみちあの女の体は後で愉しめるわけですからな』などと言っているが、結城にはそれを聞いている余裕はない。
アテナが最高の微笑みを送ってきた意図を、結城は否応にも理解できてしまった。
『少しの間、目を閉じていなさい』と、そう言っているのだ。
結城には分かったのだ。今のアテナは激怒しているどころか、ブチ切れている状態にあると。
「さぁ! それでは待望の第一回戦を開始させていただこうと思います! 現在、第一回戦の賭け率は37%! おや? ちょっとお待ち下さい。何と特別出場枠にお賭けになっている方がいらっしゃいます! 3%! 3%のみ! これは驚き! そしてご愁傷様です! さすがに分が悪すぎますよ!」
野摩の台詞回しに、会場中からどっと笑いがこみ上げる。そこに混じっていないのは、アテナと結城たちだけだった。
「っと、笑いを取るのはここまでにして! 試合開始です! 両者! よろしいですね! レディー……ファイッ!」
野摩が腕を大きく振りぬき、試合開始を宣言した。
「グフェフェフェ! ソッコーでひん剥いてまな板ショーの始ま―――」
それは試合開始が宣言されてから、20秒も経っていないはずだった。熱気と歓声が飽和するほどだった会場は、水を打ったように静まり返っていた。
観客の誰も彼もが、審判の野摩も含めて、目の前で起こったことに対して理解が追いついていなかった。ただただ、目を丸くするばかりだった。
リング上には、涼しい顔をしたアテナが右腕をかざして立っている。一切の傷を負うことなく。一糸乱れることもなく。
そしてかざした右腕の先は、首を締め上げられたグロースが持ち上げられている。そのグロースはといえば、無数の岩石を一身に浴びたかのように、全身に打撲痕を負っていた。余すことなく。ほとんど隙間なく。
「グファ……ア……」
完全に脱力してアテナに支えられている状態ではあったが、グロースはかろうじて生きていた。もっとも、自身に何が起きたのか分からず、試合の続行はもはや不可能になってしまっているが。
「安心なさい、グロース某。下衆の命など、私には取るに足りません」
「な……な……な?」
グロースの勝利を確信していた会苦巣もまた、他の観客と同様、リング上で起こったことが信じられず、顎が外れるほどに口を開けて驚いていた。
「ん~?」
周囲の反応で決着がついたと思った結城は、そっと閉じていた目を開けた。
(うわっ、考えてたよりヒドいことになってる……)
結城としては、グロースは渾身の一撃で場外まで弾き飛ばされるのではないかと想定していたが、アテナの怒りのボルテージは予想以上に振り切っていたらしい。一撃などと生温いものではなく、まさにボコボコの虫の息にされていた。
「おぉ~、すごい。『ほくとうひゃくめつけん』」
「ちょっ!? ちょっと媛寿!?」
媛寿はいつの間にか、目を塞いでいた結城の手の指に隙間を作り、試合を観戦していたようだ。言葉から察するに、どうやら『北闘の拳』の『北闘百滅拳』が決まったらしい。
(あんなことになるくらいなら、一撃で負けてた方がどんなに楽だったか……)
結城は技の恐怖に身震いしながら、ボコボコにされながらもまだ気絶さえできないグロースに、心の底から同情した。
「審判」
「へ?」
グロースを吊るし上げていたアテナは、唐突に野摩に顔を向けた。当の野摩もぽかんと呆けていたが、呼ばれたことでようやく我に返った。
「この試合の結果は?」
「え、あ~、え~と、あ~」
「この者が試合を続けられるか否かを答えなさい」
「ひっ! は、はひっ! あ、あ~、グ、グロース・アクストは試合続行が不可能となりましたので……しょ、勝者! ミネルヴァ・カピトリーノ!」
野摩が試合結果を告げるも、観客たちはまだそれを信じられず、会場はしんと静まり返っている。
「ということです、 グロース某……その粗末なモノを早く引き下げなさいっ!」
アテナはグロースの首を掴んだまま、一回転して勢いをつけ、観客席の向こうまでボールのように投げ飛ばした。
「はっ!」
その時、媛寿は直感した。さながら、宇宙空間で宿敵の存在を感じ取ったパイロットのように。
「くろらん、ちょっとごめん!」
「っ!?」
媛寿は慌てて結城の脚の間に置いていたポップコーンの容器を取ると、中身を一気に口の中に流し込んだ。
そしてちょうどその頃、アテナに投げ飛ばされたボコボコのグロースが、観客席を飛び越え、VIP専用のボックス席に迫り来るところだった。その延長線上には、まるで図ったように会苦巣の座る席があった。
「あああああっ!」
リング上から投げ放たれたグロースに対し、会苦巣は叫ぶことしかできず、あえなくグロースの巨体が命中した。
VIP専用席を貫通したグロースは、勢いそのままにセントラルパークの端まで飛ばされていった。
ちなみにボックス席の3分の1は綺麗に切り取られてしまったが、結城たちにはほんの少しの塵が当たった程度で、被害は一切なかった。
「ふぅ、ぽっぷこーんたべといてよかった」
そう言いながら、媛寿はポップコーンの入っていた容器をソファのすぐ横の床に置いた。こうなることを見越して、ポップコーンに塵が付く前に食べ終えておいたのだ。
「くろらん、ぽっぷこーんのおかわり、いる?」
媛寿は呑気に次のポップコーンを頼もうとしているが、クロランは試合結果も、ボックス席が削り取られたことも、どちらも衝撃的すぎたらしい。目を丸くしながら、媛寿にこくりと頷き返すだけだった。
そして当の結城は、
「……、……」
吹き抜けになってしまったボックス席の空間――会苦巣が座っていた場所――に一度首を向け、また正面へとゆっくり首を戻すと、
(サインする前に、あの書類のことちゃんと聞いておけばよかったかも……)
悟ったような気持ちで、心の底からそう思った。
そして会苦巣は、
「……た……た~すけてぇ~……」
グロースの巨体と瓦礫の下敷きになりながら、助けを求めて力なく手を振るだけだった。
「ふぅ、この場に神鎌があれば即刻去勢しているところですが、そこまでは見逃してさしあげましょう」
グロースをセントラルパークの端に投げ飛ばしたアテナは、スッキリしたように両掌を叩いて埃をはらった。
「審判」
「へ? え!?」
アテナは野摩を手招きして呼んだが、野摩は自分が呼ばれていると分かると、急にそわそわしだして右往左往した。
「こちらに」
「は、はいっ!」
アテナの透き通った、しかし寒気を感じる冷たさも併せた声に当てられ、野摩は観念してアテナの元に歩いていった。
「え、え~と、何でしょ―――ぎひいいぃ!」
アテナの前まで行って何事かを訊ねようとした野摩だったが、いきなり頭を掴まれて持ち上げられたため、恐怖で悲鳴を上げてしまった。
「あの対戦表のことですが」
野摩を持ち上げて目線を合わせたアテナは、液晶モニターに映し出されている対戦表を親指で示した。
「あ、ああ、あれはですね、う、上の意向で、きき、決められたことでして、けけけ、決してわわわ、私が決めたわけでわわわ」
対戦表の理不尽さに文句を言われるものだと思い、野摩は震えながら必死に弁明しようとする。すでにズボンの内股はぐっしょりと湿っていた。
「私が全員と闘うように変えなさい」
「へ?」
アテナが提案したのは、野摩が考えていたこととは全く真逆のものだった。アテナは大会参加者全員と闘わせろと言ってきているのだ。
「できますね?」
「あ、あ~、それは~、その~」
「できますね?」
「あいぎゃぎゃぎゃ! わ、分かった! 分かりましたから~! あだ! あだ! 頭だけは~!」
頭蓋骨では抗いきれない握力を体感し、野摩は矢も盾もたまらず承諾した。
「よろしい」
野摩の返事を聞くと、アテナは掴んでいた野摩の頭をあっさりと解放した。着地を意識する余裕もなかったので、野摩はコンクリートのリングに手ひどい尻餅をつくことになってしまった。
「では引き続き進行をお願いします」
野摩への用が済むと、アテナはまた元の開始位置に戻っていった。
その背中を見つめる野摩は、
(こ、こんな変更を勝手にしちゃって……オ、オレ、『あの方』に殺されちゃうんじゃないの!?)
この場で頭蓋骨を粉砕されるよりはマシだったとはいえ、対戦表の変更を了承してしまったことを、今さらながらに激しく後悔していた。
「あっ、それからもう一つ」
「ひいっ! ま、まだ何か!?」
開始位置に戻る途中でアテナが振り返ったので、野摩は反射的に肩をびくりと跳ねさせた。
「『大会参加者はルームサービスのメニューを頼み放題』でしたね?」
「は……はい。そ、その通りですが……」
「チーズケーキと赤ワインをお願いします」
それだけ言うと、アテナは再び開始位置に着いた。
そして野摩はといえば、半泣きで座り込んだまま、今度は水溜りを作っていた。
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水姫
ファンタジー
お兄様が何故か王位を継ぐ気満々なのですけれど、何を仰っているのでしょうか?
常識知らずの迷惑な兄と次代の王のやり取りです。
※過去に投稿したものを手直し後再度投稿しています。
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