上 下
213 / 379
豪宴客船編

夕食会その2

しおりを挟む
 結城ゆうきとアテナに声をかけてきたのは、髪をオールバックに整え、丸眼鏡のかけた男だった。スーツ姿ではあったが、フォーマルベストにループタイという、他の乗客とは出で立ちが少し違っている。
「あっ! そ、その! ア、アテ―――ゴホン! ミネルヴァは決して悪気があってやったわけではなく、相手方もおそらく命に別状はないものと思いますので! だから、その……」
 とはいえ誰であろうと、この状況で話しかけてきたということは、アテナが起こした騒ぎについて何か指摘するためだろうとは、結城でも予想がついた。
 なので、しどろもどろになりながら、何とか弁明しようとしたが、
「落ち着きください、お客様。先程の出来事は当方でも把握しております。取引も成立していないまま、そちらの方を連れていこうしておられたご様子。非はお客様にはございませんので、今回のことは不問とさせていただきます」
 やんわりとした説明を受け、結城はようやく心身ともに落ち着きを取り戻した。ここでもし船から強制退去となった暁には、恵比須えびすからの依頼は果たすどころか、始まる前に終わるところだった。
「よ、よかった~」
「申し送れました。私は当船レストランスペースの支配人、上無芽かみなめと申します。林結之丞はやしゆいのじょう様と、その従者ミネルヴァ様、イェーガン様、ジルバ様、ですね」
 上無芽と名乗った男は、ポケットから携帯端末を取り出すと、結城たちの素性――乗船時に用意した偽の――をすらすらと読み上げた。
「本航海が初めてのご乗船とのことですが、船内でのお客様同士のあらゆる取引には、基本的に制限が設けられておりません。先程のようなお取引も認められておりますが、拒否権もございます。強引なお取引を迫られた場合は近くの者にお申し出下さい」
「は、はい。ありがとうございます」
 上無芽の丁寧な説明を受けて、結城は胸を撫で下ろした。あのまま騒動の責任を問われていたらどうなっていたことかと、まだ少し肝が冷えたままではあるが。
「時に、林様」
「はい?」
「先程の出来事を見るに、ミネルヴァ様は余程腕に覚えがある様子。いかがでしょう? 今夜の夕食会の余興に参加してみる、というのは」
 上無芽は一瞬アテナに目を向けた後、結城に対してにこやかに微笑んだ。
「余興? どんなですか?」
「アームレスリング大会です」
「アーム、レスリング……腕相撲?」
「左様です。乗船されているお客様の中には、林様同様に護衛も兼ねた従者をお連れの方も多ございます。もちろん、護衛の自慢をされたい方も、腕自慢をしたい護衛の方もいらっしゃいますので、私が披露の場を設けさせていただいております。いかがでしょうか?」
「う~ん……」 
 結城はあまり目立つのはよくないと思う一方で、先程騒ぎを起こしてしまった負い目もあり、上無芽の申し出を受けるか否か迷っていた。
 そんな結城の心中を察したのか、アテナがそっと結城の耳に口を近付けてきた。
「ユウキ、受けましょう」
「え!?」
 意外なアテナの耳打ちに、結城は上無芽に気付かれないように、小さく驚きの声を上げた。
「私が表側で目立つ行動を取り、その裏であなたがこの船を探るのです。陽動作戦というものです」
「……」
 結城は少しの間考えた。確かに巨大な客船ではあるが、ぞろぞろと探るようにしていては怪しまれてしまうだろう。運営関係者も乗客も惹きつける役がいれば、船内を探る際に目立たなくて済むかもしれない。アテナが欠けるのは不安もあるが、逆にアテナであれば、どんな状況でも切り抜けられそうなものなので、良い作戦に思えた。必ずしも結城たちの方が戦闘になるというわけでもないのだ。
「分かりました……オホン、お受けしましょう」
 アテナの作戦に了解した後、結城は上無芽に了承を伝えた。
 それを聞いた上無芽はわずかに口角を上げると、
「では、こちらに」
 と、手で先を指し示しながら進んでいった。結城とアテナもそれに続く。
 連れられてきたのは、レストランスペースのほぼ中央だった。
 結城たちがそこに立つと、上無芽は懐からマイクを取り出し、スイッチを入れた。
「お集まりの皆様、ご機嫌麗しゅう。レストランスペース支配人の上無芽でございます。本日のディナーはお楽しみいただけていますでしょうか。少々早まりましたが、今宵は予定を前倒しさせていただき、恒例のアームレスリング大会をここに開かせていただきたいと思います」
 上無芽がマイクを通した拡声でそう告げると、レストランに集まっていた乗客から歓声が巻き起こった。同時にどこからか客の波をかき分けて、競技台が中央に運ばれてくる。
「今回はこれまでにない特別な挑戦者が参加いたします。それがこちらの絶世の美女、ミネルヴァ・カピトリーノ様です」
 上無芽の進行に合わせてか、天井に設置されていたスポットライトがアテナの姿をより眩く照らした。他の乗客たちは驚きの声を上げるが、中でも男性客をより驚嘆させていた。
(な、何だか思ってたより大事になってきてる!?」
 スポットライトが当たる寸前、アテナによって背後に隠された結城は、異様な空気に変化しつつあるレストランスペースに恐怖を覚えていた。上無芽もといアテナの提案に乗ったことを、すでに後悔しそうになってきている。
「では、こちらの麗しい挑戦者と腕を交えようという方はいらっしゃるでしょうか」
 上無芽が参加者を募ると、人だかりをゆっくりとかき分けてくる者がいた。
「ちょいと失礼、皆の衆。その対戦、わし噛田ごうだが相手をつかまつろう」
 中央に歩み出てきたのは、子どもほどの体格で杖をついた老人と、プロレスラーと見紛うばかりの大男という、極めて対照的な二人だった。
「おお、これは。哺禰川ほねかわ様お抱えの噛田様の登場です。前回準優勝者が早くも参加のご様子」
 スポットライトを当てられた哺禰川と噛田は、自信たっぷりに、そして凄惨に破顔した。あからさまに獲物を嬲れることを愉しみにした表情だった。
(あ、あわわわ)
「うろたえることはありません、ユウキ」
 睨みを効かされ震えている結城に小声でそう言うと、アテナはすたすたと競技台まで進んでいった。
「始めましょう」
 競技台に右肘を乗せ、アテナは対戦を促す。
「くっくっく。おい噛田、簡単に終わらすでないぞ。あの女の顔が苦悶に歪む様をじっくり堪能させるのじゃ」
「分かってますぜ、へへへ。俺様だってさっと終わらせるのは惜しい相手なんですから」
 よこしまな愉悦に満ちた笑みを浮かべながら、噛田も競技台に肘を置く。
 互いに腕を組み、準備が整った時、双方の上腕を金属の輪が覆った。勝敗が決するまでは、台から腕が離れられないようになっているらしい。
 さらには競技台の両サイドから、鋭い針が幾本も出現し、さらがら剣山が立ち並ぶ痛々しい形態へと変わっていた。
「さぁ、第一戦目を開始いたします。果たして苦痛に歪むのはどちらの顔か。レディー、ゴー!」
「ぬうおおお!」
 上無芽が開始の号令を告げると、噛田は一気にアテナの腕を倒しにかかった。
 見る見るうちにアテナの腕は傾いていき、剣山に腕が届くまで、もう半分の距離もなくなっている。
(あ、あれ? アテナ様、何で?)
 結城は目を疑った。いつもならアテナはどんな屈強な男が相手であろうと、子どもの手を捻るようにあっさりと制圧してしまう。腕を傾けられることさえ、千夏ちなつ相手でもなければ滅多にありえないはずだった。
 だが今は、半分以上も腕が傾き、もう数センチで剣山に手の甲が届くところまで来ている。
(あっ! ま、まさか!?)
 結城は最悪の事態に思い至った。アテナは先程までワインを飲んでいた。そのせいで酔っ払ってしまい、本来の力が出せなくなってしまっているのではないか、と。
「あ……ああ……」
 手の甲が針先に届くまで、あと数ミリ。アテナがただの針で怪我を負うとは思えないが、それでもアテナが負けるところを想像すると、結城の中に絶望感がうみのように湧いてくる。
 そんな結城の心とは裏腹に、観戦する乗客たちの熱はどんどん上がり、噛田への声援がレストランスペースに轟く。
「ア、アテ―――ミネルヴァ! しっかり!」
 思わずアテナの背中に向かって叫ぶ結城。
「ハッ―――これはこれは」
 結城の声に気付いたアテナは、『しまったしまった』とでもいうように左手を軽くこめかみに当てて頭を振った。
「つい気が遠くなってしまいました」
 アテナが思い出したようにそう呟くと、それまで優勢だった噛田の腕が急に動かなくなった。
「あまりにも期待外れだったもので」
 その一言がスイッチであったかのように、今度は噛田の腕が押し返され始めた。まるで油圧式の機械の動作よろしく、一定の速さで、止まることなく。
「な、何だ!? どうなってんだ、こりゃ!?」
「噛田! 何しとるか! そんな遊びをしろと言った憶えはないぞ!」
「お、俺様じゃねぇ! こ、この女が!」
 あまりにも圧倒的な反撃に遭い、さすがに噛田も慌てだすが、すでに噛田の手の甲は逆側の剣山の1ミリ手前まで追いやられていた。先程とは完全に立場が逆転している。
「ひっ! ひぃ! ま、待って! やめてくれぇ!」
「選ぶ機会を与えましょう。右腕を失って誇りを守るか。誇りを失って右腕を守るか」
「う、腕は! 腕は勘弁してくれぇ!」
「よろしい」
 噛田の回答を聞くと、アテナは一気に力を抜いて腕を定位置まで戻し、
「フ!」
「あぎゃっ!」
 再度力を加えて噛田の手首をボキリと折り曲げた。
「あああああ! 手がああぁ! 折れ! 折れぇ!」
「手首が折れた以上、試合は続行不能、ですね?」
 アテナはそう言って、予想外の結果に呆気に取られていた上無芽に目を向けた。
「は、はい。勝者、ミネルヴァ・カピトリーノ様」
 アテナの勝利が宣言されると、両者を台に固定していた金属の輪が外れた。
「ほ、哺禰川様~! 手が! 俺様の手が!」
「うるさい!」
 喚きながら縋ってくる噛田を、哺禰川は杖で殴り払った。
「よ、よくもわしに恥をかかせてくれたなぁ!」
 顔を醜く歪め、アテナを睨む哺禰川。だが当のアテナはその視線を意に返さず、涼しい顔で手首を軽く振っている。
「~~~! こ、殺してやる! この女郎めろう!」
 無反応のアテナに激昂した哺禰川は、杖を槍のように構えた。杖の先からは鋭い穂先が飛び出し、そのまま突けばアテナの脇腹へと向かう位置だ。
「死ねえぇ!」
 アテナに仕込み槍を突き出す哺禰川だったが、アテナは穂先を人差し指と中指で挟み込んで白刃取りしてしまった。
「ぐっ! このっ! このっ!」
「要らぬ怪我を負いたくなければ、その杖を離さないことです」
「は!? ひゅえっ!」
 アテナは白刃取った仕込み槍を、そのままダーツでも投げるように上へ放った。
 高速で上昇した仕込み槍は、シャンデリアを飛び越え、天井に見事に突き刺さった。哺禰川も付けたまま。
「………………た、たしけてくれぇ~!」
 何が起こったのか三秒ほど飲み込めなかった哺禰川は、自身が置かれた状況に気付いて悲鳴を上げた。レストランスペースのシャンデリアより高い位置に固定されてしまっては、簡単に助けが来ようはずもないが。
「次の挑戦者は何方どなたですか?」
 天井から聞こえてくる声を一切気にすることもなく、アテナは次の対戦相手を手招きした。
 その光景を、会場で最も呆気に取られた表情の結城が見つめていた。もう驚くという反応は完全に飛び越えている。
しおりを挟む

処理中です...